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ヒストリー

ヒロシマの記録1959 1月


1959/1/1
広島「折鶴の会」が平和記念公園の原爆の子の像前で、原水爆実験、使用禁止を呼び掛けた手紙と千羽づるをつけた風船を放つ
1959/1/2
原爆症で広島原爆病院に入院中の広島市古田町高須、日本専売公社呉出張所長、品川芳樹氏が死去。48歳。慢性脊髄性白血病。この年初の原爆犠牲者
1959/1/3
広島市宇品町の広島「憩いの家」で、原爆乙女と原爆孤児を招き、「雑煮を年の数だけ食べる会」。開設者アイラ・モリス(国際ペンクラブ理事)夫妻から贈られたノートなどを配る
1959/1/3
米権威筋が「米は近くアラスカ州に核弾頭付きミサイルと報復用弾道ミサイルの基地を設置する計画」と語る
1959/1/5
ジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議が再開。4日、モスクワ放送が論評。「核実験の即時全面停止に関する協定の成立を延期する理由は全くない。ソ連は協定をいつでも締結する。問題は西欧側にある」
1959/1/6
原子炉燃料用の天然ウラン粗製鉱300キロがカナダから茨城県東海村の原子燃料公社に初めて届く
1959/1/9
ウィーンの国際原子力機関(IAEA)が「日本は天然ウラン3トンを総額3,800万円で購入することを決定した」と発表
1959/1/11
ソ連政府が10日に西欧側に送った対独平和条約草案要旨を、タス通信が発表。草案は6章48条。第28条でドイツの核兵器所有、実験を禁止
1959/1/11
森戸辰男広島大学長夫妻が渡米治療を受けた広島市内の原爆乙女11人を学長官舎に招き、1958年秋、夫妻渡米時にノーマン・カズンズ氏夫人から託された贈り物のコンパクトを手渡す
1959/1/13
日本原子力発電会社の大型耐震実験台が建設省建築研究所内に完成し、公開実験。原電が導入予定のコールダーホール改良型発電炉の耐震試験に使用
1959/1/14
原子力研究所の国産1号原子炉がくわ入れ式。天然ウラン重水型、熱出力1万キロワット
1959/1/14
西ドイツから原水爆禁止を願う2通の手紙が渡辺広島市長に届く。フェルデン村の開業医ジークムント・シュミット博士とブッペルタール市の会社員オルスト・ビンテルベルグ氏。シュミット博士「2日開かれた村会で国連原子力委員会に原水爆兵器製造の禁止を訴えることが決まった」
1959/1/16
ソ連科学者ゲオルギ・ババトメ教授が科学雑誌「テフニカ・モロジョージ」(青年の技術)最近号で、「ソ連最初の熱核反応による発電所が極地に建設され、革命的な新しい発電施設によって操業するだろう」と述べる。モスクワ放送が伝える
1959/1/16
米国防総省と上下両院合同原子力委員会が、「広島型程度の地下核爆発は1,100キロ以上離れた所からでは探知不可能」との実験報告を発表
1959/1/16
マッコーン米政府原子力委員長が、アイゼンハワー大統領に同委の製作した超小型原子力発電機を贈る
1959/1/17
社会党顧問の片山哲氏が選挙応援中の奈良県で核兵器問題について語る。「核兵器持ち込みは国家が法律で禁止すべき問題であり、社会党は今度の通常国会に『核兵器持ち込みを禁止する法律案』を提出する」
1959/1/19
全日自労を中心にした「戦争と失業に反対する平和行進」(九州-東京間)が広島市入り。同市の労働会館で開催の「戦争と失業に反対する県民大会」に合流。大会で原爆被害者の救済などを決議
1959/1/20
「ヒロシマの実相を知り原水爆反対に立ち上がるため、1年間広島で働きたい」と西ドイツ・ブッペルタール市在住のビンテルベルグ氏から渡辺広島市長に届いた要請に対し、広島県甲奴郡甲奴町の被爆者、森岡敏之さんが引き受けを名乗り出る
1959/1/21
マッコーン米政府原子力委員長が記者会見で「核実験停止を実現する前段階として、西欧側とソ連が共同で核実験を行う必要があるかもしれない」と述べる
1959/1/21
広島市基町の県営アパート工事現場から頭部の白骨、22日には同市北榎町の天満川護岸工事現場でも白骨2体が見つかる。広島西署は原爆犠牲者と推定
1959/1/22
サンズ英国防相が下院に「核弾頭ミサイルを配備した英陸軍部隊が、西ドイツ・ドルトムント付近の陸軍基地に配備」と文書で明らかに
1959/1/23
渡辺広島市長、任都栗司市議会議長が厚生省で坂田道太厚相に原爆被害者対策を陳情。(1)お年玉付き年賀はがきの寄付金配分は原爆障害者の生活援護と広島市に建設する原爆センターを重視(2)原爆症治療法の研究推進(3)原爆関係資料の保存策(4)被爆者の健康管理、維持、特に被爆児童対策を早急に確立(5)動員学徒犠牲者への遺族年金をもれなく支給-の5点
1959/1/24
日本原水協が東京で常任理事会。(1)3月1日に焼津市でビキニ被災5周年原水爆禁止核武装反対日本大会を開く(2)第5回原水禁世界大会、国際原水爆討論集会を8月に広島で開き、世界各国から「広島巡礼団」を募る。国内では広島に向け「平和大行進」を行う-など運動方針を決定。参院選挙については「直接政治には関係しないが、核武装しない政府の実現を目指して運動を展開する」
1959/1/25
ニューヨーク・タイムズ紙が報道。「米政府原子力委員会がアイゼンハワー大統領に、核実験停止に関するソ連との協定は空中爆発実験に限定し、地下爆発実験を協定から除外すべきと勧告」
1959/1/26
原水禁広島協議会の森滝市郎理事長が、日本原水協常任理事会から広島に帰り、語る。「今度の原水禁世界大会は、世界の核武装が進行し、人類が危機に直面しているという新しい現実を背景にしている。既に西ドイツ、米、英など全世界で核武装阻止の平和行進が行われているので、これらの意思を広島大会に結集させたい」
1959/1/26
世界平和アピール7人委員会が政府、国会と国連に対し、核兵器の脅威を除き、世界平和の新秩序を樹立するため「世界平和日本宣言」を発するよう勧告。2月21日にも同委員会の湯川秀樹京大基礎物理学研究所長、茅誠司東大学長ら4人が岸首相に重ねて宣言採択を要望
1959/1/27
在米日本大使館が、茨城県東海村の日本原子力研究所の研究用原子炉の減速材に使う重水9.1トンの購入を、米政府原子力委員会に正式申し入れ
1959/1/27
原子燃料公社の東海精錬所でウラン精錬の試験操業を開始(「近代日本総合年表」)
1959/1/28
アイゼンハワー米大統領が定例会見で大陸間弾道ミサイル(ICBM)生産問題などで所信。ソ連のフルシチョフ首相がソ連共産党大会でICBM量産化を発表したことに関し、「米は弾道ミサイル分野で非常な進歩を見せており、屈辱を感じる理由は何もない」
1959/1/30
広島市の精神養子養育費資金配分委員会が米のヒロシマ・ピース・センター協力会から送られた25万円の配分(6施設62人)を決める。1950年1月からの米の送金総額は1,945万2,500円余
1959/1/--
原子燃料公社倉吉出張所が鳥取県東伯郡東郷町麻畑地区で高品位のリン灰ウラン鉱を採取
1959/1/--
広島と長崎の被爆者が手軽に健康診断を受診できるよう、厚生省が両県に1台ずつ巡回診療車の配置を決定。原爆医療法による被爆者手帳交付者の64%が「現在健康」「指定病院が遠い」などの理由で年2回の健康診断を受けないため
1959/1/--
英の哲学者バートランド・ラッセル博士と共同通信特派員が単独会見。中国新聞に掲載。「大国がすべて日本をみならって(憲法)第九条を採用し、実施に移すことを希望します。現在世界が必要としているのは、核時代における新たな前途です。米ソ2大国は、戦争あるいは戦争の脅威に訴えることなしに、意見の相違を解決するよう努力するという、厳粛な共同宣言を出すことが必要」
1959/1/--
人工衛星から水爆投下の可能性を示唆した科学報告が米下院宇宙委員会に提出される。報告はランド・コーポレーションの研究員が作成
1959/1/--
原子力平和利用に伴う大気汚染など防止のため、米カリフォルニア州で州災害局第1区内の公立学校、短期大学135校に放射能検出器が配備へ
1959/1/--
日本原子力産業会議、運輸省、科学技術庁などが将来の原子力船建造に備え、原子力船の運転、操作訓練を受ける技術者4人の米派遣を内定。米で近く完成する第1号原子力商船サバンナの就航に合わせ、米政府原子力委員会が他国の船舶原子炉操作訓練の希望を募る

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