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ヒストリー

ヒロシマの記録1959 3月


1959/3/1
ビキニ被災5周年日本大会が焼津市漁協ホールなど2会場で開会。ソ連など5カ国の海外代表を含め約3,500人が参加。「核実験禁止協定の即時締結と安保条約改定阻止のため内外に働き掛けよう」との焼津宣言を採択。元第五福竜丸漁労長、見崎吉男さんが「死の灰はもうごめん」と訴え。同市で日本大会が開かれたのは初めて
1959/3/2
フルシチョフ・ソ連首相がクレムリンで開かれたマクミラン英首相の訪ソ歓迎レセプションで「マ首相は核実験禁止問題について新提案を行った」と言明。内容は公表せず
1959/3/5
広島の原爆患者58人が島根県温泉津温泉で療養。この年で4回目
1959/3/9
全国50万人の原水爆禁止署名を集めるため自転車で日本1周中の熊本市の会社員野田忠男、横山一民氏の2人が広島市に到着。10日、同市内で署名活動
1959/3/9
参院予算委員会で伊能繁次郎防衛庁長官が核兵器保有に関して答弁。「原水爆などは持てないが、自衛のための小型のものは持ち得る。例えば核弾頭をつけたオネストジョンは、憲法上持てると思う」
1959/3/10
日本と西ドイツが原子力平和利用について協力関係を強化する書簡をボンで交換
1959/3/10
広島市が市内の町ごとに被爆者の出張健康診断を開始、30日まで。原対協のまとめでは1月末現在、被爆者健康手帳交付者7万8,411人のうち受診者は3割の2万3,639人。全額国庫負担の被爆者健康診断の受診が少なく、国庫返上の事態になり緊急対応
1959/3/11
渡辺広島市長が米英ソ3国の大統領、首相に核実験停止会議(ジュネーブ)の進行を促す声明書を送付。米の核政策健全化委員会事務局長のドナルド・キース氏から停止会議への訴願文署名を求められ、実行に移す
1959/3/11
アイゼンハワー米大統領が定例記者会見でベルリン問題に関連し語る。「通常兵器によるソ連の威力に対抗するため西欧側が核兵器使用を決定する可能性もあることを、私はこれまで完全に否定したことはなかった」
1959/3/11
放射能の最大許容量調査のためABCCを訪れた米オークリッジ国立研究所の保健物理部長カール・モーガン博士が記者会見で「放射線障害は少ない」と語る。(1)原爆実験による放射線量は極めて少なく、宇宙線や医療用よりも少ない。しかし半減期の長いストロンチウム90やセシウム137については心配しており、実験中止を希望している(2)放射能障害は他の事故に比べ非常に少ない。米では原子力関係に5万人が働いているが、過去15年間に死亡したのはわずか3人。遺伝についても断定するまでに至っていない
1959/3/13
日本原子力研究所が茨城県東海村に建設する第1号動力試験炉の発注先を、米のゼネラル・エレクトリック会社(G・E)に決定と発表。沸騰水型、出力1万キロワット、30億円。4月契約へ
1959/3/16
日本原子力発電会社が英コールダーホール型発電炉の導入について、通産省に「原子炉設置許可願」「電気事業許可願」を提出
1959/3/17
社会党訪中使節団と中国人民外交学会の張奚若会長が北京で共同声明を発表。「双方はアジアおよび太平洋地域に核武装禁止地帯を設け、かつ各関係国と共同努力を払うことに関して意見が一致した」
1959/3/17
茨城県東海村の原子燃料公社東海精錬所で初の国産金属ウラン120キロができる。4月15日、品位分析の結果、ニッケル含有量が多いなど一級品でないことが分かり、今後技術的な検討へ
1959/3/18
広島県議会が「平和県に関する宣言」を決議。「広島県は、人類の福祉を念願する世界の人々とともに核兵器を禁止し、世界の恒久平和を実現するため世界連邦建設の趣旨に賛同し、永遠の平和県であることを、ここに宣言する」(「広島県議会会議録」)
1959/3/19
米国防総省が「1958年9月、大気圏外で3個の核爆発装置の爆発実験を行っていた」と公表。「アーガス計画」と呼ばれ、ワシントンの観測筋は「対ソ連作戦のカギを握る大陸間弾道ミサイル(ICBM)防御の可能性調査が狙い」
1959/3/19
政府が自衛権と日本の核装備問題で統一見解。(1)核兵器は原水爆など多くは攻撃的なものだが、防御的核兵器もあり得る。防御的核兵器の保有は違憲でない(2)他に方法がない場合、民族の独立を守るため核兵器による敵基地攻撃も違憲でない-など
1959/3/21
米国防総省と米政府原子力委員会の調査で、高空での核爆発による放射能のチリは、これまで考えられていたより早く地上に落下することが判明。上下両院合同原子力委員会が公表
1959/3/22
広島原爆病院に入院中の広島市東平塚町、向井早太郎さんが貧血症のため死去。62歳。この年、同病院で10人目の犠牲者
1959/3/24
日本が国際原子力機関(IAEA)から、天然ウラン3トンを買い付ける協定に同機関本部(ウィーン)で調印。茨城県東海村の実験用原子炉で使用へ
1959/3/24
衆院内閣委員会で藤山愛一郎外相が安保条約改定交渉での核兵器持ち込みについて答弁。「核兵器の取り扱いを協議事項としており、これは核兵器を持ち込まない趣旨で扱う」。受田新吉氏(社会・山口)の質問に答える
1959/3/26
西ドイツ・オスナブリック市の医師ジークムント・シュミット博士から渡辺広島市長に「平和を愛する兄弟都市になりませんか」との便りが届く
1959/3/27
広島原爆病院の運営委員会が入院患者の死亡発表の中止を決定。理由(1)被爆者や患者への精神的ショックが大きい(2)原爆医療法による患者の秘密保護の建前から病院の一方的発表は控える(3)疾患が医学上、原爆によるかどうか決定的な決め手がない。関係者には「原爆の恐怖を知らせるため発表は必要」との声も
1959/3/27
米ニューヨーク郊外で車約100台が参加し、核実験禁止運動の大掛かりなデモ行進。英ロンドン郊外のオルダーマストンでも学生ら約4,000人が水爆禁止運動の決起大会とデモ行進
1959/3/28
日本原水協や社会党、総評などが「日米安保条約改定阻止国民会議」を結成。原水協は幹事団体の一つになる(「近代日本総合年表」「反原爆のたたかい-広島原水爆禁止運動小史」)
1959/3/28
米海軍省が「原子力潜水艦スケートが2度目の北極点潜航に成功」と発表。12日間、氷山の下を4,944キロ潜航
1959/3/30
原子力委員会の核融合専門部会(会長、湯川秀樹博士)が、同委員会の諮問に対し答申をまとめる。「1,000万度程度の高温を保持する中型プラズマ実験装置建設のため3億~10億円を支出し、1960年度中に装置の建設、運転、研究にあたる実施機関を発足させることが望ましい」
1959/3/31
日本原子力研究所が、国内各原子力メーカー5社と国産1号炉の製造契約を結んだ-と発表。契約金額9億8,600万円
1959/3/31
長崎市が、長崎原爆資料保存委員会を廃止。以後、原爆資料の収集保存は長崎国際文化会館が行う(「長崎年表」)
1959/3/--
大阪市立大講師の西島和彦博士が存在を予言した新しい素粒子XI0(グゼイ・ゼロ)の実在を、米カリフォルニア大で共同研究した学者6人が確認
1959/3/--
1959年から設けられた広島医学会賞を広島赤十字病院勤務の松尾星一博士が受賞。「放射線による奇形防止は可能」との研究論文が認められる
1959/3/--
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」(10部)に続く「第二の原爆の図」2部が完成。高野山の壁画として奉納へ。原爆被災者に子供が水を与える場面と全身に火を浴びた被災者が川を渡って逃げる光景などを描く

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