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ヒストリー

ヒロシマの記録1959 8月


1959/8/1
参院内閣委員会で安保条約改定に伴う核問題で論戦。矢島三義氏(社会)が「改定の結果、日米が共同で軍事行動を取るため核兵器の導入になるのではないか」。赤城宗徳防衛庁長官「共同防衛を直ちに核弾頭付きのミサイル導入と考えるのは早計」
1959/8/1
自民党の藤枝泉介副幹事長が語る。「原水禁世界大会に参加する自民党県議団は神奈川と大分両県で、視察名目」
1959/8/1
広島県町村長会と同県町村議会議長会が原水禁世界大会について「大会が正常な姿に戻らない限り協力できない」と声明
1959/8/1
広島県佐伯郡廿日市町で原水爆禁止廿日市協議会の結成大会
1959/8/1
広島原爆病院が4~7月の診療概況を発表。入院患者66人、退院66人、死亡15人。同病院の「死亡発表」の扱いを協議した結果、死亡者だけでなく治った退院者も含め概況を示すことにする
1959/8/1
日本ハトレース協会広島競翔連合会(網本弘会長)が「平和記念公園に平和のシンボルのハトを」と全国の愛鳩家から集めた80羽と鳩舎を広島市に寄贈
1959/8/1
第5回原水禁世界大会の予備会議総会が平和記念館で開会、2日分科会、3日閉会。安保条約改定問題については「原水爆禁止運動は本質的に政治とつながる。改定は日本の核武装を促進する懸念があり、深く憂慮せざるを得ない」との間接的表現にとどめて反対や阻止の線は出さず、世界大会で論議することに決定
1959/8/1
長崎市議会運営委員会が第5回原水爆禁止世界大会へ派遣する5人を市議会代表ではなく、個人参加であることを確認(「西日本新聞」)
1959/8/2
日本原水協が広島市に「嵐の中の母子像」を寄贈。「わだつみの像」の制作者、本郷新氏が制作した石こう像。後日、ブロンズ像に作り替え、同市内に建てる計画
1959/8/2
原水爆禁止運動呉推進連盟主催の原水禁呉大会が呉市中央公園で開会
1959/8/2
第5回原水禁世界大会に出席する外国代表団の歓迎レセプションが平和記念公園内の新広島ホテルで開会。主催者の浜井広島市長「原水禁運動にも問題があり、批判は謙虚に聞くが、究極は原水爆がこの世からなくなるようにしなければならない」とあいさつ
1959/8/3
海上保安庁の観測船拓洋の首席機関士、永野博吉氏が国立東京第一病院で急性骨髄性白血病のため死去。34歳。拓洋は前年7月、海洋観測で赤道海域を航行中、ビキニ西方海上で米水爆実験の死の灰を浴びる
1959/8/3
日本原子力産業会議が原子力災害補償についての報告書をまとめる。「原子力災害は未知の問題が多く、国家補償が必要」と民事責任、保険、国家補償が一体になった補償体制の確立を政府に要望
1959/8/3
広島大学皆実分校で開かれた中国地方学生大会に参加の学生約100人が広島県庁内でデモ行進。副知事室で原水禁世界大会への県費補助金削除問題を追及。広島県警の警官が出動
1959/8/4
第5回原水禁世界大会に参加する国民平和大行進が広島市の平和記念公園に到着。東京、新潟、奄美諸島の与論島と広島県北の各コースで、最初の出発から56日ぶり、延べ約5,000キロに計約1,000万人が参加
1959/8/4
原水禁世界大会に参加の外国代表33人が広島市宇品町の広島「憩いの家」で13人の被爆体験を聞く
1959/8/4
広島県青年連合会が平和運動の進め方で路線を分かち、個別に2つの青年集会。原水禁広島青年平和祭(広島市公会堂)には県青連、日本民主青年同盟、被爆協青年部など約2,000人。原水禁広島青年集会(朝日会館)は広島、呉、賀茂など12市郡青連を中心に1,000人参加
1959/8/4
原水爆禁止奈良県協議会の会長で原水禁世界大会の奈良県代表団長に推された高椋正次奈良市長が団長就任を拒否。「純粋の原水禁運動には大賛成だが、左右の争いを持ち込まれては困る。市長として政治運動の団長になるわけにはいかない」
1959/8/4
社会党の浅沼稲次郎書記長が同党府県連代表者会議のため広島市入りし、記者会見。「今日まで原爆症の原因が究明されず、実態が掌握されていないのは政府の怠慢。社会党は臨時国会で原爆医療法の改正と被爆者援護法案を提出したい」
1959/8/4
第5回原水爆禁止世界大会長崎県代表団結団式。原水爆禁止、被爆者援護法の制定を訴え、安保問題は白紙で臨むことを決める(「長崎年表」)
1959/8/5
第5回原水爆禁止世界大会の総会が平和記念公園の原爆慰霊碑前で開会。海外24カ国代表を含め約2万人が参加。浜井広島市長が「広島のあやまちを特定の国の責任にはしない。人類共同の責任であることを認め、原水爆禁止の誓いとしたい。われわれは沈みかけた船の中で、船の中の品物を争う愚かさを繰り返してはならない」とあいさつ。安井郁大会総長が基調報告。2日目は広島市公会堂など17会場の分科会で本格討議。7日まで
1959/8/5
原水禁世界大会総会の会場に右翼団体がなだれ込む。小型トラックで通行禁止区域の会場に乗り入れ、ビラやのりをまき散らし乱闘騒ぎ。参加者ら10数人が負傷。広島西署が大日本愛国党員6人を逮捕。広島東署も行進を妨害した護国団兵庫県本部の4人を逮捕
1959/8/5
原水禁世界大会に出席した英非核武装運動執行委員アーサー・ゴス氏ら英、米、西ドイツの代表ら6人が世界大会の運営を批判する脱退声明書を安井郁大会総長に手渡し、出席を拒否。「非核武装という世界的な意見よりも、西欧ブロックの政策を攻撃ばかりしているように思える基調案を会議に押し付けてきた」
1959/8/5
原水禁世界大会に参加のため広島入りした米のノーベル化学賞受賞者ライナス・ポーリング博士が広島大教育学部講堂で「放射能の物理化学的諸問題」と題して講演。放射能の遺伝的影響を強調し、原水爆実験や戦争の防止を訴える
1959/8/5
八島藤子さん(本名栗原貞子)の詩「私は広島を証言する」が原水禁世界大会の一般基調報告の中で引用され発表
1959/8/5
広島県安佐郡町村長会が臨時総会で、原水禁世界大会への不参加と平和記念式典への参加を決める
1959/8/5
ドイツ生れのジャーナリストで作家のロベルト・ユンク氏が中国新聞に「原爆ドーム」と題して特別寄稿。「いまや原爆ドームはアテネのアクロポリス、ローマのコロシアムに並ぶほど世界に知れわたった1シンボルとなった。が、アクロポリスやコロシアムが過去の運命を物語るだけなのに、元産業奨励館のあの丸い塔は、将来起こり得る運命への警告を発している」
1959/8/5
米上下両院合同原子力委員会のアンダーソン委員長がニューヨークで演説。「米は10月31日に1年間の核実験中止期間が終われば実験を再開する」
1959/8/6
被爆14周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式。原水禁世界大会の海外代表も含め約3万人が参加。国際色ある式典に。新たに187人の原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に奉納、名簿総数は6万253人に。東ドイツ・ドレスデン市のグーテ市長らが献花の後、浜井広島市長が平和宣言。原爆乙女の小林小夜子、吉川雅子さんが「平和の鐘」をつき黙とう。岸首相、加藤鐐五郎衆院、松野鶴平参院議長(いずれも代読)のメッセージ。式典途中、右翼団体が上空から「ニセの平和大会にだまされるな」のビラをまく
1959/8/6
浜井広島市長が平和宣言「われわれ広島市民がひたすらに念願し、訴えつづけてきたことは、人類連帯の精神に立って、すべての民族、すべての国家が小異をすてて大同につき、一切の戦争を排除し、原水爆の全面的禁止をなし遂げなければならない、ということである。いまや、世界は、原水爆による破滅の危機に直面している。原子力時代の戦争は、勝利の望みのない戦争であって、それは、人類の自滅を意味することを深く認識しなければならない。平和共存のための新しい国際関係と秩序を打ち立てることこそ、人類に課せられた緊急の要務であることを確信する」
1959/8/6
広島「折鶴の会」や長崎城山平和の子ども会、呉こだま会の会員ら約150人が平和記念公園の「原爆の子の像」前で平和への祈りの集いを開く
1959/8/6
戦災供養塔前で広島県宗教連盟主催の4派合同慰霊祭
1959/8/6
日本原水協理事長で原水禁世界大会総長の安井郁氏が右翼4団体の代表と会見。右翼側が理事長の即時辞任勧告書を手渡す。安井氏「原水協は政治的に偏向していない」
1959/8/6
原水禁世界大会に参加した外国人代表が広島市の国泰寺高校講堂で「被爆者を囲む懇談会」。岩国市の畠中敬恵さんが胎内被爆で生まれ原爆小頭症の二女百合子さんの実情を訴える
1959/8/6
モスクワで療養中の長崎の原爆乙女、永田尚子さんが日本向けモスクワ放送で原水禁世界大会にあいさつを送る
1959/8/6
1958年7月、国際地球観測年の海洋観測中、海上保安庁の観測船拓洋と一緒に米水爆実験の死の灰を浴びた、鹿児島海上保安部の巡視船さつまの乗組員に、放射能精密検査を行うよう同庁から指示。帰国時の精密検査では厚生省が「放射能障害はなし」と発表
1959/8/6
広島市二葉山の山頂で仏舎利塔の定礎式。ネール・インド首相の代理としてジャガト・ナラヤン・ラール団長らインド仏舎利塔巡拝団11人が出席
1959/8/7
第5回原水禁世界大会が広島市民球場で閉会式。広島アピールなど6つの宣言、決議、アピールを採択。安保条約改定問題について、はっきり「反対」「廃棄」などは出さないものの、改定が核武装や海外派兵、軍国主義の復活につながる危険性を打ち出す。広島アピール「私たちは世界中の人々とその政府とが世界大戦が起こる危険を減らすため、行動を起こすよう切望する。核兵器を所有していない国々に対して、今後ともこれらの武器を製造したり、その領土内に導入したりしないという政策を堅持するよう切望する。すでに恐ろしいこの兵器を持っている国々に対しては、それらを廃棄するか、さもなければ故意か偶然かの別なく核戦争が起きるのを未然に防ぐような国際協定を結んで国際管理にゆだねるかのいずれかを取るよう切望する。…平和と理性と生命尊重の道、国家間の紛争を正義と道徳によって解決する道、国際的交渉を継続する道、国際協定の道、効果的な国際法の道を、われわれはともに進もう」
1959/8/7
原水禁世界大会が安保条約改定問題で阻止や廃棄を打ち出さなかったことについて、全学連が安井郁日本原水協理事長に原水協全国総会の開催を要求。「大会最終日に出された禁止運動の共同行動に関する国内勧告と日本代表団決議は正式な機関で承認されたものとは認めがたい」
1959/8/7
フルシチョフ・ソ連首相が欧州核兵器反対連盟副会長ジョン・コリンズ氏に手紙を送り、「ソ連は今後、核兵器実験を率先再開しない用意がある」と言明
1959/8/8
自民党広島県連が「日本原水協の運動は政治的に偏向し協調できない」として、「新しい原水協」の結成を呼び掛ける声明書を発表。「原水禁運動は当初の立場にかえり、人道的見地から全国民が安心して参加できるものでなければならない。そのため新しい原水協を県内につくり、全国的な組織に盛り上げていく」。13日、同党広島県会議員会で中津井真県連幹事長が「第2原水協を自民党が中心となってつくるものではなく、世論の盛り上がりを待ってこれに協力する」と説明
1959/8/8
社会党が安保条約改定についての自民党見解に反論を発表。「新条約が日本を戦争に巻き込む危険をさらに大きくするもの」と主張。核兵器持ち込みに関し「米軍の核兵器持ち込みは『事前協議』があるので『あり得ない』と言っているが、『協議する』と条約に決めたことは、協議すれば核兵器は持ち込んでもよいことになるのが条約解釈の原則」
1959/8/8
原子力委員会が原子力施設周辺地帯整備懇談会の第1回会合を開く。実用原子炉の全国設置をにらみ、立地の適正、環境整備、特別法制定の可否などを検討へ
1959/8/8
国際ライオンズ日本地区東西ガバナー合同協議会が、今後2カ年間、広島、長崎両市の被爆治療研究費に300万円支出を決定。広島、長崎両大学を中心とした原爆研究機関が白血病、ケロイドなど22項目の治療法を研究。同ライオンズの特別対策委員会(原田東岷委員長)の答申を実行
1959/8/9
長崎の被爆14周年。爆心地の平和祈念像前で原爆犠牲者慰霊・祈念式典。約3,000人が参加。田川務市長が平和宣言。「原爆都市長崎市民のわれわれは原水爆がもたらす悲惨と業苦とに顧みて核兵器の威力が益々増大しつつある今日、世界恒久平和の確立と人類福祉のため、ここに核兵器一切の廃止を更に繰り返し全世界に訴える。私は人類の愛と正義と英智に信頼し、世界平和の推進に対する決意を被爆犠牲の精霊に誓い、これを世界に宣言する」
1959/8/10
国際放射線防護委員会(ICRP)の新勧告(1958年9月決定)を検討していた日本学術会議専門小委員会が報告書を発表。放射線の遺伝的影響から許容量を引き下げた新勧告を前進と認める一方、日本に適用するには日本人の特性、社会事情を考慮し慎重適用を強調
1959/8/11
赤道海域で海洋観測中、米水爆実験の死の灰を浴びた海上保安庁の観測船拓洋の乗組員の健康状態について「原爆被害対策に関する調査研究協議会」が「今のところ放射能障害は認められない」と発表
1959/8/11
仏外務省が「仏はソ連が核実験停止を計画していても原爆実験を行う」と発表
1959/8/12
広島、長崎両県議会議長が福岡市で会合。原爆被害者援護特別立法の実現促進へ両県議会に特別委員会を設け、両県合同特別対策連絡協議会の設置を決める
1959/8/12
社会党が「原爆被害者援護法案」をまとめ、臨時国会に提案を決定。(1)治療認定基準の範囲を広げ、国の責任で健康管理(2)被爆者の入院、退院、健康診断、在宅療養の生活保障の確立-などが骨子
1959/8/13
自民党広島県会議員会が「被爆者援護特別委」と「原水禁運動正常化推進特別委」を設置
1959/8/13
仏がサハラ砂漠で計画している原爆実験に対し、原水禁広島協議会が抗議声明を発表。抗議書簡をドゴール大統領にも送付
1959/8/14
アイゼンハワー米大統領が核実験放射能のストロンチウム90が人体に及ぼす影響に対処するため、連邦放射能委員会を新設。閣僚級5人を主要メンバーに任命
1959/8/14
モロッコが仏のサハラ砂漠核実験の中止を国連総会の議題にするよう要求
1959/8/14
日本ペンクラブ会長の川端康成氏から広島市宇品町の広島「憩いの家」に小説99冊が届く
1959/8/15
広島市がこの年の平和宣言を世界71都市と187団体、個人に計258通発送
1959/8/17
インドの国連代表部がハマーショルド国連事務総長に書簡を送付。核実験停止問題を国連総会(9月15日開会)の議題とするよう正式要請
1959/8/18
英ブラムホール町の核兵器反対同盟の名誉秘書J・ワット氏から浜井広島市長に核兵器阻止を念願する書簡と4ポンド10シリング(約4,100円)が届く
1959/8/20
ソ連とイラクが原子力平和利用協定に調印
1959/8/22
日本学術会議主催のコールダーホール改良型原子炉の安全性に関するシンポジウムが東京で開会。輸入を計画する日本原子力発電会社と「輸入は時期尚早」とする学術会議の意見が対立
1959/8/23
米上下両院合同原子力委員会が核兵器実験による放射能の被害調査に一段と努力するよう政府に要請した報告を発表
1959/8/26
アイゼンハワー米大統領が10月31日で期限切れになる米の核実験停止期限を一方的に年末まで2カ月間延長すると命令した-と米国務省が発表
1959/8/26
米英ソ3国核実験停止会議が10月11日まで休会
1959/8/26
原子爆弾被爆者別府温泉利用センターが別府市小倉で起工式。被爆者の温泉治療所は全国初
1959/8/28
ソ連政府が「西側諸国が核実験を再開しない限り、ソ連も再開しない」と声明を発表
1959/8/28
首相の諮問機関の放射線審議会が、国際放射線防護委員会(ICRP)の決めた放射線許容量の新基準を政府が採用するのが望ましい-と結論
1959/8/29
仏政府当局者が「米英ソ3国が段階的核軍縮計画に沿って核兵器の製造を中止し、原爆貯蔵を減らしていくようなら、仏はサハラ実験をやめる」と語る
1959/8/29
1958年7月、米核実験に抗議し太平洋の立ち入り禁止区域内に抗議船フェニックスを乗り入れて逮捕されたアール・レイノルズ氏に、ホノルル連邦裁判所が禁固6月、執行猶予5年の判決
1959/8/30
国際人権連盟のロジャー・ボールドウィン議長が広島市を訪問。ABCC、広島原爆病院を見学
1959/8/--
NHK、ラジオ中国の原爆特集番組の大要がまとまる。NHKはラジオ、テレビとも8月6日の平和記念式典を実況。ラジオ中国は放送劇「灰の中の生命」(大牟田稔氏作、5日放送)など

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