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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 3月


1958/3/1
日本原水協が東京、広島、愛知、富山、滋賀など全国各地で「ビキニ被災4周年エニウェトク水爆実験阻止アジア・アフリカ共同行動日本大会」。広島大会=原水禁広島協議会が主催し、広島市役所南側広場に2,000人。米、ソ、日本政府にそれぞれ決議文、トルーマン前米大統領に抗議文を採択。中央大会=東京・神田の共立講堂に2,500人。ジャー・インド大使、ナビール・ハムディ・エジプト二等書記官らA・A諸国の代表が「日本とA・A諸国が団結して原水爆をなくそう」と強調、久保山すずさんが訴え。湯川秀樹博士が「人間の問題としての核爆発」と題し講演
1958/3/4
広島市福屋デパートで中国新聞社主催の第1回原爆障害者救済資金募集名士大家色紙展。二科会の東郷青児画伯の「少女像」を東邦酒造社長の桑原勇氏が購入し原爆病院へ寄贈へ
1958/3/5
米政府が日本政府の核実験中止要請を拒否。覚書を在米日本大使館に渡す。(1)核実験の目的は侵略を思いとどまらせ、侵略を撃退する能力を維持改善すること(2)より少ない放射性降下物を伴う核兵器開発(3)経済的損失の証拠が提出されれば補償問題に考慮を払う
1958/3/5
広島市が平和記念公園の原爆ドーム周辺に残る105戸を強制立ち退きへ。3月末までに平和記念公園12万2,000平方メートルの整備終了めざす
1958/3/5
原子燃料公社が防府市小野奈美松ケ谷でウラン探鉱開鉱式。山口県知事、防府市長らも出席
1958/3/6
日本政府がソ連に対し核実験抗議と中止要請。「核実験中止について日本政府は昨年3月9日、4月15日、9月2日及び10月11日ソ連政府に申し入れをしてきた。しかるに気象庁の微気圧振動観測によれば、2月23日および27日に無警告でこの種の危険な実験を行った。これはきわめて遺憾であり、中止されることを重ねて要請する」
1958/3/7
西ドイツの平和協会が「核実験をやめさせるため希望者を乗せた船を太平洋に送りたい」と提案。ウィーンの哲学者アンデルス博士の呼びかけでノアの方舟になぞらえ「行動の方舟」と呼ばれる
1958/3/7
ジュネーブの国際海洋法会議でポーランド、イエメンが公海での核実験禁止を海洋法に盛り込むよう提案
1958/3/8
ソ連が11日からマニラで開かれる東南アジア条約機構(SEATO)理事会を非難し、アジアと極東に核武装禁止地帯の設置と集団安全保障を呼びかけ
1958/3/9
ダレス米国務長官の外交委員会秘密会での発言が明るみに。「ソ連との間に単に核実験停止についてだけ協定を結ぶことは望ましいことでもなく、できそうにもない。大気層を汚染しない『きれいな核爆弾』が進歩している傾向から、核実験は大した問題ではなくなった」
1958/3/11
米B47爆撃機が南カロライナ州フローレンス近郊で起爆装置のついていない核爆弾を誤って投下。米戦略空軍司令部が発表。爆弾倉の故障が原因
1958/3/12
マケルロイ米国防長官が「爆撃機の原爆積載飛行訓練は継続する」と言明
1958/3/13
英政府がクリスマス島の核実験で日本政府から損害補償を要求する覚書を受け取り検討中と発表
1958/3/14
5月11日付ニューヨーク・タイムズが「米政府原子力委員会は3月14日、ネバダ実験場で核爆発実験を実施」と報道
1958/3/14
トルーマン前米大統領が原爆投下問題で広島市議会議長に返書を発送。「広島市民の感情は容易に理解できるし、市議会の決議によって私の感情はいささかも傷つけられるものではない。広島と長崎の犠牲は日本と連合国の将来の福祉のためにせっぱつまった必要な措置だったと考える。もし日本が1941年12月にパールハーバーでやみうちを仕掛けなければ、このような重大決定をする必要はもちろん決して起こらなかったであろう」。広島の関係者は「なんらの反省もない」と怒り
1958/3/14
米政府原子力委員会が「ソ連が14日2回の核実験を実施。実験場は北極圏北部とシベリア」と発表
1958/3/14
浦上天主堂再建のため廃虚の取り壊し始まる。長崎市議会は3月17日、廃虚の一部移築を決定(「長崎年表」)
1958/3/15
ソ連が東西首脳会談で4項目提案。「米が欧州、中東の軍事基地撤廃の討議に応じる場合にのみ大気圏外の軍事利用禁止に同意する」など
1958/3/15
米上下両院合同原子力委員会のペタソン下院議員が声明。「米国は4月から8月にかけて太平洋で大気圏外核実験も行う。実験は15回以上実施」
1958/3/17
広島市が市医師会の全面協力で被爆者の集団検診を始める。尾長小と大芝小で開業医と看護婦22人が従事。市内を23ブロックに分け1日2ブロックずつ
1958/3/18
原爆医療審議会が原爆医療法に基づく指定医療機関を大幅増へ。新たに公立病院16(うち中国地方14)、広島市と周辺の私的医療機関市内50、周辺7カ所が候補▽8月1日付で新たに34指定
1958/3/18
米の原子力科学者、エドワード・テラー博士がクリーブランドで演説。「広島、長崎に原爆を投下したことは誤りであった。米国はまず日本国民に事前の警告を発したのち、東京上空で威嚇用原爆を爆発させ、無条件降伏の最後通告を出せばよかったのだ」
1958/3/19
大阪管区気象台が18日、大阪地方に降った雨から1リットル当たり毎分2万450カウントの放射能を検出。1955年1月以来、最高
1958/3/20
広島市議会がトルーマン前米大統領に重ねて抗議声明書。「トルーマン氏は一瞬にして人類を壊滅する原子兵器を使用し、戦争中とはいえ日本に対する報復的感情だけで、広島の非戦闘員を殺し戦争終結に導いたことを過去の歴史的事実で合理化しようとしている。非人道的な行為を正当化することは支配者が被支配者に対する手段であり、植民政策と極言される。…原爆の威力を熟知しながら罪なき市民を皆殺しにした事実は国際法に違反する犯罪行為である。…この暴挙を勝者なるが故に真珠湾の奇襲攻撃で言い逃れるのは許されない」
1958/3/20
西ドイツ核武装へ。アデナウアー首相が下院で演説「もしも西欧が国防軍の核装備を拒否すれば、NATOは無意味で無目的な存在になるだろう。さらに西ドイツが核兵器の分野でNATOの再編計画を拒否すればNATOは崩壊し情勢は現在よりも悪くなるだろう」
1958/3/20
朝日放送の「ABC劇場」で梶山季之氏作の「ヒロシマの霧」が電波に。3月27日にはラジオ中国も放送。「ヒロシマの霧」は7月28日付中国新聞に全文掲載。「ヒロシマ被災の責任者はだれか」-広島の成仏できない幽霊がある夜、集まって論議する…
1958/3/23
西ドイツの核武装に反対する同国の著名人41人が結成した「原子戦争で死ぬことに反対する委員会」(原爆死反対委員会)がフランクフルトで第1回の抗議集会。前年、広島を訪れたジャーナリストのロベルト・ユンク氏が「広島では今なお7万の人々が原爆障害のための死の恐怖におののいている」と講演
1958/3/24
スウェーデン・ストックホルムで第7回世界青年学生平和友好祭準備会始まる。日本から日本被団協の推薦で広島市曙町、村戸由子さんが参加
1958/3/25
西ドイツ連邦議会が全般的軍縮条約の不成立の場合、政府に国防軍核武装の権限を与えるとの動議を賛成多数で可決
1958/3/25
「米の核実験は憲法などに違反」と米の法律家グループが訴訟へ。原告への参加を求めロサンゼルスのA・ウィルソン氏から渡辺広島市長、任都栗司広島市議会議長に手紙
1958/3/26
ジュネーブで開かれている国際海洋法会議で公海での核実験を禁止するソ連案に日本は棄権方針 1958/3/26
社会党が衆院議員会館で原水爆禁止運動特別委員会を開き当面の運動案決める。日本の核武装禁止宣言に関する決議案を国会に提出へ
1958/3/27
広島市牛田町南区に原爆孤児の憩いの家「少年ホーム」が完成し開所式。ヒロシマ・ピース・センターが同センター米国協力会から送られた130万円で購入
1958/3/27
世界平和アピール7人委員会がハマーショルド国連事務総長に「公海での核実験は国際法違反」と勧告。ジュネーブ海洋法会議に出席している米、英、ソ、仏、インド、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、タイ、日本代表にも写しを送る
1958/3/28
国際海洋法会議の公海核実験禁止決議(ソ連案)への日本棄権について参院予算委員会で論議。岸首相「より幅広く公海自由を決議するユーゴ案に賛成を決めていたため、ソ連案は棄権した。ソ連案は同国が自国内の核実験を行わないことを確約する場合にのみ賛成する。両院で核武装禁止宣言は賛成」
1958/3/28
ソ連が米に公海での核実験に対し抗議の覚書。(1)米政府はマーシャル諸島住民の抗議にもかかわらず強制的に立ち退きを実施し土地を取り上げた(2)太平洋での核兵器の実験は公示された危険区域内の島々に住む住民の生命と健康を重大な危険にさらしているだけでなく、その害ははるかに広い範囲に及んでいる。
1958/3/28
長崎市議会がトルーマン発言に抗議決める
1958/3/30
原水禁広島協議会がトルーマン返書と米ソ両国の核実験に抗議文発送へ
1958/3/31
ソ連が核実験の一方的中止を宣言。グロムイコ・ソ連外相が最高会議合同会議で発表。会議後、同外相は「これは米英がわれわれに習うことを期待して行う第一段階の措置である。これら諸国がもしソ連の例に習わず、核実験を継続する場合には、ソ連は自国の安全に照らしてさらに別の措置をとらざるをえないだろう」▽日本政府が歓迎の談話▽米国務省はソ連の決定に疑念を表明「ソ連政府は、平和を愛好するソ連という幻想を作り出すことをねらっている」
1958/3/--
大阪市立大医学部が婦人の子宮と卵巣からセシウム137を検出
1958/3/--
広島県、市医師会が広島市内と周辺部の開業医を原爆医療法に基づく指定医療機関に認定するよう要望へ。指定医療機関は国立、公立、大学、原爆病院、日赤病院に限られ全国70カ所、広島市内5カ所で、健康診断低受診率の原因となっている
1958/3/--
国立大竹病院が原爆患者の指定病院に
1958/3/--
広島県教委が原爆で焼けた国の文化財「頼山陽の居室」を52万4,000円で県社会館内に復元へ 1958/3/--
群馬大工学部分析化学教室が広島市と群馬県内の学童の尿の残留放射能を比較検査。大差なし
1958/3/--
土門拳氏が写真集「ヒロシマ」を出版。研光社(「原爆文学史」)
1958/3/--
長崎市、同市民生委員協議会、長崎被団協が平和祈念像近くに建設していた原爆死没者慰霊納骨堂が完成。無縁仏8,430柱を安置(「長崎年表」)

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