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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 4月


1958/4/1
原水禁広島協議会がソ連の核実験停止に感謝の手紙。米英にはソ連の呼びかけに応じるよう要請 1958/4/1
日本赤十字社がソ連の核実験中止宣言を歓迎しソ連赤十字社にその旨伝え、米、英赤十字社にはその努力が無駄にならないよう要請
1958/4/1
広島大医学部付属原子放射能基礎医学研究施設がオープン(「広島大学原爆放射能医学研究所概要」)
1958/4/1
三菱原子力工業会社の設立総会開く。社長に関義長氏。三菱電機社長を兼任
1958/4/1
広島復興大博覧会始まる。市制施行70年も記念。第1会場平和記念公園、第2会場百メートル道路東詰め空き地、第3会場広島城。5月20日まで。原爆資料館内の原子力商船の模型、アイソトープを扱うマジックハンドなどが市民の目を奪う。100万人でにぎわう
1958/4/1
気象庁内に国際地球観測年(IGY)放射能部門の世界資料センターがオープン。1957年のトロント会議で日本とスウェーデンに設置が決まる
1958/4/1
広島県が被爆者検診充実のため出張検診をスタート。医師会の協力を得て4、5人の健康相談班と生活相談班をつくり約50カ所で実施へ
1958/4/2
岸首相がソ連核実験停止で政府の公式見解を発表。「ソ連声明は実験再開の自由を留保しているにせよ歓迎する。他の保有国が実験を行うと否とにかかわらず、一方的中止措置を継続するよう期待する。ソ連声明を糸口とし関係国が国際管理を伴う原水爆兵器の無条件禁止、生産の中止、貯蔵の完全廃棄に関する協定に達するよう努力しすみやかに合意に到達するよう要望する」
1958/4/4
英で原水爆反対の大デモ行進。ロンドン・トラファルガー広場で6,000人集会の後バートランド・ラッセル卿を先頭に英政府核兵器研究所のあるオルダーマストンまでの80キロを4日かけ2,000人が行進▽ニューヨークでも平和行進。250人が参加
1958/4/4
フルシチョフ・ソ連首相がアイゼンハワー米大統領に親書。「核実験中止に米英が同調しないのならソ連は約束に縛られない」
1958/4/4
原子力委員会が天然ウランなど核燃料物質を暫定的国有とする方針を正式決定。11日の閣議で了解へ
1958/4/4
京大基礎物理学研究所長湯川秀樹博士、早川幸男教授、木庭二郎教授ら7物理学者がカナダで開かれているパグウォッシュ会議に原水爆実験無条件即時禁止などのアピール送る
1958/4/4
米のノーベル賞学者ライナス・ポーリング、英の哲学者バートランド・ラッセル、日本の賀川豊彦氏ら18人がワシントンの連邦地裁に米の核実験中止を求め提訴。英ソでも提訴へ。日本からは賀川氏のほか高知県の3人の漁民も参加
1958/4/5
原爆訴訟の岡本尚一弁護士が病没。67歳。和歌山県生まれ。戦後の極東国際軍事裁判で元陸軍省軍務局長の弁護を引き受け、この間、連合国側が原爆投下に対して何らの反省も示さなかったことから原爆訴訟の提訴を決意した。アララギ派歌人でもある。歌集に原爆の悲惨を歌った「人類」がある(「広島県大百科事典」)
1958/4/5
広島の2少女がソ連に感謝の手紙。原爆症で母を失い映画「世界は恐怖する」のモデルとなった広島市南三篠町、沢田律子さん。佐々木禎子さんと広島赤十字病院でベッドが隣り合わせだった同市富士見町、大倉記代さん
1958/4/5
広島県被団協が広島市の農協ビルで原爆医療法制定1周年記念集会。被爆者ら300人が参加。「8月6日までに原水爆実験の禁止協定締結を要求する」との決議文を米英ソ3国とインド、西ドイツ首相に送る
1958/4/7
全電通労組の招きで中国郵電工会代表団5人が広島市を訪問。原爆病院を慰問し原爆資料館を見学
1958/4/8
1954年のビキニ水爆による海洋汚染の分布まとまる。東京教育大の三宅泰雄博士、気象研究所の猿橋勝子博士、原子力研究所の亀田和久研究員が東大で開かれた日本海洋学会年会で発表。「ハワイ以西から日本近海にかけての太平洋にはストロンチウム90に換算して300~600万キュリーの人工放射性物質がとけ込んでいる」
1958/4/8
ニューヨーク滞在中のトルーマン前米大統領が原爆投下で再発言。「広島市民がいかにひどい目にあったにしても、私が最初の原爆投下を命令した事情をなぜまだ了承しないのかわからない。これは連合国として、ただ戦争を終わらせなければならなかったという問題だった」
1958/4/8
原爆乙女として渡米治療した広島市牛田町早稲田区の平田頴子さんが、入院中の広島大医学部付属病院で胃がんのため死去。34歳
1958/4/8
アイゼンハワー米大統領が核実験中止でソ連に回答。「(ソ連の核実験中止の)宣言の時期、言葉づかい、そのやり方は宣言の真の意義について疑問を提起せざるを得ない」
1958/4/8
ダレス米国務長官が核実験の継続を示唆。「十分な情報を得るまで核実験を続ける必要がある」
1958/4/8
広島県竹原町の河田武雄さんが原爆資料館に被爆した日本刀2振りを贈る。焼け跡整理で入市の際に白島町の旧工兵隊付近で氏名不詳の陸軍中尉から預かった
1958/4/9
アイゼンハワー米大統領が記者会見で「エニウェトク実験で満足な結果が得られたら、米国の一方的措置として核実験を中止するのが適当と考える」と言明。実験の目的は「きれいな爆弾を発展させること」
1958/4/9
広島市議会がトルーマン前米大統領に再抗議へ
1958/4/10
日本被団協が広島市で全国代表者会議。トルーマン前米大統領に抗議文の送付と、全国どこでも通用する被爆者手帳の交付促進など運動目標を決定。抗議文「トルーマン氏の考えはすべての点で誤っており恥知らずの見解。原爆の使用が国際法違反は明らか」
1958/4/11
琉球立法院が原水爆基地化反対を決議。すべての国が直ちに核兵器の製造、実験、使用を禁止するとともに、米は沖縄での原水爆基地建設を中止し、ナイキ、IRBM、および一切の核兵器を持ち込まないよう要請
1958/4/11
米海軍がIRBMポラリスの海中発射に成功と発表
1958/4/11
米核政策健全化委員会がニューヨーク・タイムズに著名47人の連名で、「太平洋上の核実験を停止させるためアイゼンハワー大統領に訴願書を提出する。国会議員、編集者、放送機関にも訴える」との意見広告。同委員会は前年11月、作家、牧師、教育者などの有志で結成、ノーマン・カズンズ氏が臨時議長に就任。その後、参加者はルーズベルト夫人、パール・バック女史、仏の作家アルベール・カミュ氏など多彩に
1958/4/12
科学技術庁原子力局が上野-札幌、東京-広島間の大気中の放射能を調査。原子力発電による大気汚染に備える。広島は24、25日に調査
1958/4/13
英トラファルガー広場で労働党主催の水爆反対大会。1万人が参加。ゲイッケル党首が「ソ連提案を宣伝と決めつける前に、まず英も水爆実験を停止し、ソ連との会談を始めその上でソ連提案の誠実さを試すべき」
1958/4/15
米政府原子力委員会が1954年、1956年の未発表核実験を公表。54年=3回、56年=4回。いずれもエニウェトク環礁で実験
1958/4/15
フルシチョフ・ソ連首相が核実験中止で日本原水協にメッセージ。「現在なすべき重要なことは原水爆を所有する他の諸国をソ連の例に習わせることである」
1958/4/16
社会党が参議院に核実験禁止、日本の非核武装、沖縄施政権の返還の3決議案を提出
1958/4/16
ロイド英外相が下院で「ソ連との広範な軍縮協定が成立するまで、核爆発実験を中止できない」
1958/4/17
故佐々木禎子さんをモデルにした映画「千羽鶴」の広島ロケ始まる。監督、木村荘十二氏。製作、共同映画、平和をきずく児童生徒の会。佐々木禎子さん役は菅井美智子さん
1958/4/17
ブリュッセル万国博日本館に展示の広島原爆写真が注目を集める
1958/4/18
日本学術会議が原水爆実験禁止についてあらためて各国の科学者に要請決める。「ソ連の措置が恒久的なものになることを切望するとともに、米英両国政府も直ちに核兵器実験を中止し、この措置が全世界的なものになることを要望する」
1958/4/18
グロムイコ・ソ連外相が米原水爆積載機のソ連国境飛行を非難。国連安保理が同問題でソ連提訴を取り上げる
1958/4/18
世界平和アピール7人委員会が米政府、国連に原水爆実験中止の勧告書送る。アイゼンハワー大統領あて「ソ連がすでに実験中止を宣言しているのに貴国がなお実験中止の態度を明らかにしないのは遺憾」。ハマーショルド国連事務総長あて「国連はすみやかに臨時総会を開き核実験の即時中止勧告を」
1958/4/18
衆院が自民、社会共同提案の「原水爆実験禁止決議案」を可決。1954年、1956年に続き3回目
1958/4/19
長崎市議会臨時会が、ソ連の核兵器実験停止宣言に対する感謝決議と米、英両国に対する核兵器実験禁止要請決議を可決(「長崎年表」)
1958/4/19
世界連邦平和都市連絡協議会第5回全国大会が岡山県庁で開催。エニウェトク米核実験反対と、核兵器開発競争中止のための大国巨頭会談開催を呼びかけるメッセージを採択
1958/4/19
エニウェトク環礁での水爆実験抗議船ゴールデン・ルールがハワイ・ホノルルに立ち寄る。抗議の仮泊は1カ月か1カ月半の予定。トルーマン発言は「大変恥ずかしい」
1958/4/21
原爆症研究のため西ドイツ赤十字社から4人の医師が広島市を訪れる。1957年に続き2度目。原爆放射能障害の防護研究が目的
1958/4/21
参院が自民、社会、緑風会の3会派共同提案の「原水爆禁止の決議案」を可決。参院では4回目
1958/4/21
日本政府の核実験中止要請に米政府が拒否回答。「今回の一連の実験は不可欠。慎重に計画されたもので、実験を放棄できない」
1958/4/21
米の原水爆積載機パトロール問題で国連安保理開く。軍縮問題討議に終始し、最後にソ連が米国非難決議を撤回
1958/4/22
英マクミラン首相が下院で核実験について答弁。「実験の目的は核兵器の研究改善にある。今度行う一連の実験では不十分。実験は近い将来に行われよう」
1958/4/23
広島訪問中の中国法律家代表団8人が原爆慰霊碑に参拝し、原爆病院に患者を見舞う
1958/4/23
米政府が「フルシチョフ・ソ連首相からアイゼンハワー大統領に再度、核実験中止を呼びかける書簡届く」と発表
1958/4/24
米国連代表部がハマーショルド国連事務総長を通じて国連科学委員会の14カ国を太平洋核兵器特別実験に招待。放射能の少ない「きれいな水爆」実験。日本は不参加へ▽7月26日、米は実験中止を決定。「悪天候のため実験は8月25日までに実施できない」
1958/4/25
全学連が「エニウェトク水爆実験禁止、勤務評定粉砕全日本学生総決起行動デー」。広島大など全国34カ所で10万人の学生を動員。広島大生は原爆慰霊碑前で約300人が集会、京都では警官隊と衝突
1958/4/26
外務省が英にクリスマス島の水爆実験中止を要請
1958/4/28
英が太平洋クリスマス島付近の高空でメガトン級の水爆実験。航空機から投下。「きれいな水爆」を強調
1958/4/28
米がエニウェトク実験場でシリーズ第1回核爆発実験。5月7日に米政府原子力委員会が発表
1958/4/28
ワシントンで日米原子力一般協定(動力協定)が仮調印
1958/4/28
アイゼンハワー米大統領がフルシチョフ・ソ連首相に書簡。「北極圏の国際査察、核実験中止、同生産禁止、奇襲防止、大気圏外平和利用のための査察を討議する専門家会議」を提案
1958/4/30
社会党が英のクリスマス島核実験に抗議声明
1958/4/--
トルーマン発言に対し米から広島市へ「広島の抗議は正しい」との手紙。知識層中心に20数通
1958/4/--
米の社会・歴史学者のハリー・エルマー・バーンズ博士がトルーマン発言に対する反論を歴史的に論じた論文が岡山商科短大講師、鳥越一太郎氏に届く。「原爆投下は対ソ外交のため。ルーズベルト大統領は日本の降伏の意思を伝えたマッカーサー報告を無視した」など
1958/4/--
日本原子力産業会議・原子力船懇談会で4,000トン級原子力商船の建造決める。造船各社も本腰

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