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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 8月


1958/8/1
米政府原子力委員会と国防総省がジョンストン島付近でミサイル用核弾頭の爆発実験を実施と発表
1958/8/1
吉田元首相がインタビューで「自衛のために持つ核兵器は憲法違反にはならない」「持っていけないという根拠はどこにもない」と言明
1958/8/1
ホノルル発東京行きの日本航空機がジョンストン島北方で米核実験を目撃。「見上げるような高空で深紅の火の玉広がる。約20分間」
1958/8/3
鳥取県原爆被爆者協議会が発足
1958/8/4
原爆の被害と被害者のその後の社会的研究などを網羅した科学的総合研究としての「原爆白書」作りの必要性が叫ばれる。中国新聞社が主催し座談会
1958/8/4
東京・赤坂のラジオ東京スタジオで、広島市で被爆した青年(広島市在住)が、広島県山県郡の女性とテレビ結婚式。仲人は日本原水協理事長の安井郁夫妻。原水爆禁止世界大会出席のため来日中の外国代表も出席し祝福
1958/8/5
米水爆実験抗議船ゴールデン・ルールのアルバート・ビジェロ船長ら乗組員5人から広島市へメッセージ。「ハワイ刑務所を釈放されたばかりのわれわれは、罪なき犠牲者の追憶にふけり、種々の障害を受けた人々に対し同情を新たにする。あらゆる国の核兵器の製造、所有、実験の中止を要求する」
1958/8/5
文通を通じて手を結んだ全国高校、中学生の集い「第10回郵便友の会全国大会」(松山市)で原水爆禁止のアピール
1958/8/5
十河信二国鉄総裁が国労、国鉄機関車労組に原爆記念日の8月6日正午の汽笛吹鳴中止を申し入れ。機関車労組は規定方針通り、国労広島地方本部も実施を決定
1958/8/5
大竹市玖波町で原水爆禁止大竹市大会。市民ら1,000人が参加。谷本清牧師が「世界の原水爆禁止運動」と題し講演
1958/8/5
広島訪問中のインド艦隊旗艦マイソール司令官、A・ベルティー少将らが原爆慰霊碑に献花
1958/8/6
広島市水主町の旧県庁跡で広島県職員原爆犠牲者慰霊碑の除幕式と法要。遺家族や県職員500人が参列。慰霊碑は県職員586人、警察官300人の計886柱の霊をまつる▽広島護国神社で学徒動員、女子挺身隊、義勇隊関係死没者の慰霊祭▽西本願寺広島別院が本川相生橋下流で船上大法要、夜は5,000個のとうろう流し
1958/8/6
「ヒロシマと平和」で岸首相と糸川成辰中国新聞編集局長が対談
1958/8/6
午前6時半から広島市中島本町、平和記念公園の戦災供養塔前で広島戦災供養会主催の合同供養祭。米ネブラスカ州など8州の教会の牧師17人も参列。続いて各宗派別の法要、慰霊祭
1958/8/6
被爆13周年。高松宮夫妻ら3万人が出席し広島市中島本町の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式。渡辺市長が新しく判明した死没者173人を含む計6万66人の原爆死没者名簿を慰霊碑に奉納。任都栗司市議会議長の式辞に続き岸首相(代理灘尾弘吉文相)、遺族代表の原爆孤児らが花輪を奉呈。市長の平和宣言の後、原爆乙女の山本晶子、前田満子さんの2人が平和の鐘を打ち、首相メッセージなどが読み上げられる
1958/8/6
渡辺市長平和宣言「13年前に起こった原爆の悲劇は人類史上、類のない、まことに不幸な出来事であって、いまなお被爆市民の生命をおびやかし、犠牲者は後をたたない。こうした悲惨な現実に直面しつつ、われわれは平和への祈りをこめて、人類永遠の平和を象徴する平和都市『ひろしま』の建設に努力してきた。いまや原水爆禁止の世論はようやく高まり、核実験停止決議や査察専門家会議開催など前途にわずかながらも曙光を見いだし得るかの感があるが、われわれはさらに声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」▽岸首相メッセージ「世界恒久平和の確立と人類の福祉増進に深く思いをいたし、核兵器所有国に対し、原水爆実験の即時無条件停止はもちろん、原水爆の製造、使用の禁止を繰り返し呼びかけてきたが、さらに強力にこの運動を推進しなければならない」
1958/8/6
平和記念公園の「原爆の子の像」前で、広島YMCAと平和をきずく児童生徒の会が主催し、第1回「平和を祈る青少年の集い」。約2,000人が参加し、インドのネール首相らのメッセージが披露され、「原爆の子の像に希望を託し世界中にほほえみの友をつくりたい」と平和宣言
1958/8/6
世界各地でヒロシマ・デー。<ニューヨーク>米核政策健全化委員会ニューヨーク支部の約100人が国連本部前でデモ。広島の被爆者で在ニューヨークの新本しげ子さんに花束贈る<サンフランシスコ>第1ユニテリアン教会で平和祈願24時間黙とう集会。約800人を前に核実験抗議船ゴールデン・ルールの船長らが講演<西ドイツ>各都市で原爆死反対運動のデモ。ミュンヘンのデモ隊のビラは「ヒロシマの警告を思い出せ」
1958/8/6
西ドイツ・ミュンヘン市当局が、市の広場オデンスプラッツに広島被爆記念碑の建立を求めた核武装反対委員会の要請を拒否
1958/8/6
原爆の子の像建立までの子どもたちの動静をまとめた豊田清史氏の「千羽鶴」出版。昭森社(「奥付」)
1958/8/6
米田栄作氏作詞、山崎登氏作曲の「千羽鶴に捧げるレクイエム」を中国放送で発表(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1958/8/6
広島県教育会館で県内の短歌10結社が8・6記念合同短歌会
1958/8/6
国労広島地方本部と機関車労組広島支部など全国各地で正午に一斉に汽笛を鳴らして平和を祈願 1958/8/6
原水爆禁止広島市協議会が市公会堂で原水爆禁止広島市大会。西ドイツ・フンボルト大学神学部長のフォーゲル博士ら外国代表10人をはじめ被爆者、市民、婦人団体、労働組合代表ら2,000人が参加。渡辺市長が「この日を機会に一段と禁止運動を進めよう」とあいさつ、ネール・インド首相らからのメッセージ披露に続き、森滝市郎原水禁広島協議会理事長が「原水爆禁止運動のすうせいについて」と題し講演。大会は(1)実験禁止はもう一息です(2)この力で日本の核兵器による武装を食い止めましょう(3)原爆医療法を援護法に-の3議題で論議▽米サンフランシスコ市広島デー委員会代表デイビッド・ブラウン氏の仲介でジョージ・クリストファー・サンフランシスコ市長と沖野悟広島市助役が国際電話で対談▽ラジオ中国が広島-東京平和行進中の西本敦さんを神奈川県江の島から実況中継、会場と結び3元放送▽大会出席のフランスのキリスト教会のトロクメ師と広島の少年が精神養子縁組▽ネール首相メッセージ「広島は13年前に起きた悲劇だけでなく今日の世界が直面する重大な危険について警告と象徴となった。もし人類が生き残ろうとするならば、また文明を継続しようとするならば核兵器は捨てられなければならない。それにはまず核実験が中止されなくてはならない」
1958/8/7
国際地球観測年の赤道海流調査中、ビキニ西方で強い放射能汚染を受けた海上保安庁の拓洋とさつまが東京港に帰港。東大の桧山義夫、立教大の田島英三、東京教育大の池田長生教授ら「船体検査測定班」が放射能調査。最高100カウントで軽微。乗組員、観測員の健康診断は8、9日に実施▽「原爆被害対策に関する調査研究協議会」(会長、塩田広重日本医科大学長)が11日に「放射能障害はなく精密検査も必要ない」
1958/8/8
長崎県原水協が、長崎市国際文化会館で結成式(「朝日新聞」)
1958/8/8
長崎原爆被災者協議会の被爆者総決起大会が平和祈念像前で開かれ、被爆者1,200人が参加(「長崎年表」)
1958/8/8
米原子力潜水艦ノーチラスが北極海の潜航横断に成功。8月1日潜水、同5日浮上
1958/8/8
広島市の平和記念館で第4回原水爆禁止世界大会広島県代表者大会。原水爆実験、核武装禁止、被爆者援護対策を決議
1958/8/9
長崎市で被爆13周年の原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。2千数百人が参列し、田川務市長が平和宣言(8・9夕、8・10)
1958/8/11
広島-東京平和行進と長崎-広島-東京自転車平和リレーの一行が東京の入り口六郷橋に到着。社会党の浅沼稲次郎、共産党の宮本顕治氏らが出迎え。延べ70万人が参加。夕方、日比谷公園で両行進・リレーに加え青森-東京、北陸-東京、千葉-東京の自転車平和リレー到着歓迎も合わせ約5,000人が参加し、「核武装阻止、民主主義を守る中央集会」
1958/8/12
第4回原水爆禁止世界大会日本大会が東京・早稲田大記念会堂で開幕。全国代表6,000人と15日からの国際会議に出席する米、英、ソはじめ34カ国130人の外国代表のうちこの朝までに到着した西ドイツのフォーゲル博士、ソ連のボダーノフ教授ら24カ国45人がオブザーバーとして出席。安井郁日本原水協理事長あいさつ。「(世界の)核武装は急速に進んでおり、行動性を持たない紙の上の決議だけの大会では意味がない。現実政治を平和の方向に動かすような『諸国民の共同行動』を認め、実践するときだ」▽大会議題(1)原水爆実験の即時全面停止、原水爆禁止と軍備縮小(2)日本の核武装禁止(3)原子戦争準備と国民生活(4)放射能被害とその対策(5)原水爆被害の実相と被害者救援(6)原水爆禁止運動と平和運動▽広島、長崎の被爆者を代表し竹内武(広島)、福田須磨子(長崎)、渡辺千恵子(長崎)氏らが訴え▽中国代表は出席しなかったが、中国保衛世界和平委員会から5万元(750万円)の被爆者救援金
1958/8/12
原爆被災後の救援や市政運営に当たった市職員百数十人が「原爆広島市の友の会」を結成
1958/8/12
橋本龍伍厚相が松江市で原爆診療手続き簡素化の必要性に触れる。「戦後13年たった現在、症状が現れたものは一応原爆症と認定してもいいはずだ。これをとやかくいって保健所の診断後、6カ月以上も診断内容を検討してから入院を認める現在の制度運営は納得できない」
1958/8/13
厚生省公衆衛生局が原爆医療法に関連し「原子爆弾後障害治療指針」示す(「広島原爆医療史」)
1958/8/14
日本学術会議が「米が核実験を続けるならIGYの赤道海流調査に協力しない」と決定。米国に抗議(「近代日本総合年表」)
1958/8/15
第4回原水爆禁止世界大会日本大会が、東京・早稲田大記念会堂で閉会。引き続き32カ国9国際組織98人の海外代表と113人の日本代表が参加し国際大会開幕。中国代表は欠席
1958/8/16
米バーモント州バーリントンで開かれていた第1回国際放射能研究会議終わる。米政府原子力委員会ブルックヘブン国立研究所のコナード博士が、「マーシャル諸島ロンゲラップ島民は体内に核実験に伴う放射能を持つ。一部は食べた魚肉から吸収」と発表
1958/8/17
横浜港湾労連が地対空ミサイル・エリコンの荷揚げを拒否。自衛隊が研究目的でスイスから輸入
1958/8/18
ABCCの生物統計学者R・サイモン氏が、広島市の被爆女性の娘を養女にして帰国
1958/8/18
英が太平洋クリスマス島で実施する核実験の危険区域を通告▽19日、日本政府は英に抗議
1958/8/18
広島大助教授の青盛和雄氏が統計学的推論として「広島原爆の死者は約17万人」と中国新聞に発表
1958/8/19
東京・霞が関で日本原子力船研究協会設立総会。初代会長に山県昌夫氏(日本海事協会長、東大教授)を選ぶ
1958/8/20
第4回原水爆禁止世界大会終わる。勧告で「平和運動は人道的見地に立っており、政党政治には属さない。しかし、平和運動を現に存在する政治情勢から切り離し、一線を画することは不可能」と政治との結びつきを強調。国際会議はキリスト教友和会(FOR)が、核兵器禁止をめぐり異論を出したことから、宣言草案をめぐり激論。FOR代表のトロクメ師、書記長関屋正彦氏らが草案に反対(8・21、「原水爆時代 下」)
1958/8/20
生活苦と「死の灰」ノイローゼで第五福竜丸の元乗組員が妻子を残し家出
1958/8/20
原水禁世界大会に参加した東ドイツ放送協会編成局長ヘルタ・クラッセン女史、ウールリッヒ・マコシュ解説者が、広島市を訪問
1958/8/21
ABCCが1950年の国勢調査で把握した広島、長崎在住被爆者から抽出した固定人口集団を対象に、寿命、成人健康、病理学的調査を根幹とする調査計画を策定。国立予防衛生研究所長とABCC所長が同意書交換。日米共同研究体制の基礎固まる(「放射線影響研究所10年の歩み」)
1958/8/21
ジュネーブで開かれていた核実験査察専門家会議終わる。「核実験が中止された場合、違反を探知することは限られた範囲内で可能である」で意見一致し、全世界的核実験監視制度を国際管理下におくよう勧告
1958/8/22
第4回原水爆禁止世界大会に参加した森滝市郎原水禁広島協議会理事長が広島に帰り記者会見。「原爆医療法を援護法に、という訴えが大会に大きな反響をもたらし、日本の被爆者救援運動の基本的問題として取り上げられたことはうれしい」
1958/8/22
原水禁大会参加のモンゴル代表、北ベトナム人民共和国代表らが相次ぎ広島市へ▽23日はカナダ平和協議会会長のJ・エンディコット師ら8カ国12人
1958/8/22
英が核実験管理問題で10月31日からニューヨークで、米英ソ3国会議を提案。さらに「ソ連が交渉開始後1年間は実験を再開しない-などの条件が満たされれば、英は1年間核実験を停止」と発表。目前に迫った太平洋での核爆発実験シリーズは予定通り実施へ
1958/8/22
英がクリスマス島で核実験を実施したと発表
1958/8/22
アイゼンハワー米大統領が「ソ連が核実験を再開せず、世界的な実験禁止交渉に同意するなら、米も10月31日以降1年間実験を中止」と発表▽23日、岸首相が歓迎の談話を発表
1958/8/24
広島市内で被爆青年が自殺。原爆症を苦にとみられる
1958/8/24
地対空ミサイルエリコンを横須賀市の海上自衛隊横須賀地方総監部構内に陸揚げ
1958/8/25
広島市を訪問した原水禁世界大会ソ連代表が渡辺市長に「日本の原爆関係団体の要請があれば原爆障害者の治療を引き受けたい」と表明
1958/8/28
広島市議会がアイゼンハワー米大統領の核実験一時停止声明に感謝メッセージを送る
1958/8/29
日本原水協が米英両国の核実験停止声明を「全面的に支持はできない」と発表。理由(1)米英両国政府の声明は実験の即時停止ではなく、10月31日までは実験継続の余地を残している(2)1年間という実験停止期間は一連の実験を準備する必要期間で、実質的には停止にならない(3)実験停止継続は効果的な査察制度の確立と一般軍縮交渉の進展が必要、という条件は無条件停止を要求する原水協としては受け入れることができない
1958/8/29
フルシチョフ・ソ連首相が米英と核実験停止について10月31日に会談で合意。場所はジュネーブ
1958/8/30
ジュネーブ核実験査察専門家会議参加国が、報告書全文を発表。「核実験探知に必要な監視所は全世界で170~180カ所。探知は音波、放射能物質採取、地震波、電波の4方法」
1958/8/30
広島県被団協が、県教育会館で理事会。日本被団協代表委員に森滝市郎原水禁広島協議会理事長、藤居平一県被団協事務局長の推薦を決定。運動方針として(1)医療法を援護法に(2)被爆者福祉センター設置-を決め、陳情へ
1958/8/30
広島市を訪問中の橋本龍伍厚相に渡辺広島市長、任都栗司市議会議長が原爆被爆者の援護対策で陳情。(1)栄養物の補給(2)医療範囲の拡大と認定手続きの簡素化(3)医療中の生活保障の確立(4)医療交通費の支給(「広島原爆医療史」)
1958/8/--
広島県衛生部の中村照彦博士が原爆医療法に基づく一般検査の所見まとめる。「被爆者の血液像は正常範囲のものが比較的多く、造血機能の回復が順調に進みほとんど健康体に近い」
1958/8/--
栃木市富士見町の彫刻師鈴木賢二氏が原爆被災と核実験の放射能禍などを描いた木版絵巻「平和を世界に」を完成。全長13メートル。第4回原水爆禁止世界大会に参加の外国代表に贈る
1958/8/--
原子放射能の影響に関する国連15カ国科学委員会が報告書を発表。(1)核兵器実験などによる地球大気中の放射能の増加は、たとえ緩慢なものでも人類の将来に有害(2)微量の放射能も遺伝に有害な影響を与える▽核兵器実験の即時停止を要求したソ連の要請は委員会の多数が拒否
1958/8/--
第4回原水爆禁止世界大会国際準備委副議長のギュンター・アンデルス氏(米)「広島に来るまでに一番気がかりだったのは、こんなに人間が人間を損なったことが、現地でどんなに感じられているかということだった。ところが、昨夜いたましいケロイドの被害者らに会ったとき、その被害を地震とか洪水とか天災にあったように淡々と聞かされた。まるで人間によって受けた被害でないように憎しみを表さずに語った。その話し方の美しさに私は感動した。しかし、この憎悪の欠如は美しいけれど、人間性の問題としては誤解を招きやすい。被害が天災でなく人間が人間に対して与えた被害だという事実が忘れられがちになることは危険だ。現代戦が人間にどんな破壊をもたらすかを忘れさせないための破壊の跡は残しておいてほしいと思う」
1958/8/--
三次市の子供らが、同市三次町の故佐々木禎子さんの墓に、折りづるを手向け供養
1958/8/--
広島市医師会の原田東岷、広島女学院大の庄野直美氏らでつくる「広島原爆障害研究会」が英文の「広島原爆の物理的および医学的影響」をまとめる。B5判、117ページ。原水禁世界大会国際会議で配布

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