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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 11月


1958/11/1
日本原水協が核武装禁止全国行動デー
1958/11/1
国連総会第1委員会が米英ソ3国の核実験中止に関する西欧側17カ国決議案を、賛成49反対9棄権33で採択▽ジュネーブ会議の成功を希望する日本など3国決議案を、賛成52反対9棄権19で採択。インド、ソ連案は撤回
1958/11/2
第20回日本臨床外科医学会で、放射能に関するシンポジウム。都築正男日赤中央病院長が被爆者の肝臓に異常が出始めていると指摘
1958/11/4
原水爆禁止広島市協議会(会長、渡辺広島市長)が、ジュネーブの3国核実験停止会議へ訴願文送る。「一切の核兵器実験を即時無条件で永久に停止するため、国際協定を成立させ、核兵器全面禁止協定の前提にしていただきたい」
1958/11/6
ジュネーブの核実験停止3国会議の4草案出そろう。(1)実験禁止に関するソ連草案(2)ソ連の議題草案(3)米の議題草案(4)査察機関設置に関する英草案
1958/11/6
戦後の混乱期に韓国に渡った原爆孤児の望郷の訴えが、広島の祖母と警察に届く
1958/11/7
エルランデル・スウェーデン首相がベルリンで「核実験と生産に関する国際管理機構について大国間で話し合いがつかなければ、小国も核兵器を所有せざるを得まい。スウェーデンは核兵器を生産できる態勢にある」
1958/11/7
米政府原子力委員会が「ソ連は11月1日と3日の2回、ソ連南部で核実験を行った」と発表▽アイゼンハワー米大統領が「ソ連が実験をした以上、米は核実験停止に関するこれまでの提案に拘束されない」と声明
1958/11/9
岩国市で原水禁広島、山口協議会主催の核武装阻止岩国基地平和大行進山口、広島両県民集会開く。2,700人が参加
1958/11/9
演奏旅行で広島市を訪れたリカルド・サントス管弦楽団の45人が原爆慰霊碑に参拝
1958/11/10
原対協に対するお年玉年賀はがきの収益金配分が正式決定。原爆被爆者福祉センターに2年分割配分で5,000万円
1958/11/11
広島の原爆乙女村戸由子さん、川本佐智子さんの2人が西ドイツ原爆反対青年勤労者行動同盟に招かれ西ドイツへ出発
1958/11/11
日本原水協が「原水協には共産圏から工作資金として1億500万円程度が流れ込んでいる」とした愛知揆一法相の衆院予算委員会での発言(10月29日)取り消しを要求▽12日、広島県被団協も法相発言に抗議
1958/11/15
ジュネーブの3国核実験停止会議から帰国した米代表のアルバート・ゴア上院議員(民主党・上下両院合同原子力委員会委員)が、「ソ連は会議の失敗を望んでいる。米は核実験停止に対する政策を変えるべきだ」
1958/11/16
東京都原爆被爆者団体(東友会)が発足
1958/11/17
ソ連の作曲家でカチューシャの作者でもあるブランテル氏らが、広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝
1958/11/18
広島原爆病院でこの年30人目の犠牲者。広島市基町の岡本昭夫さん。22歳。死因は再生不良性貧血
1958/11/18
米核政策健全化委員会のノーマン・カズンズ氏から渡辺広島市長に手紙。「(同委員会の)核実験禁止公開状の署名は11万人を超えた。委員会の代表が署名簿を持ってジュネーブに出発した」
1958/11/22
東京・八王子市の熱帯植物生育研究会が世界各国から寄せられた苗木68本を広島市の平和記念公園に植樹。ブルガーニン・ソ連元首相から贈られた欧州ナラなど
1958/11/24
原水爆禁止を呼びかけて日本全国を小型車ルノーで回っていた広島市の大木たけし、中島康秀氏の2人が広島帰着。75日間、1万7,200キロを走破
1958/11/24
原水爆反対を訴えて鹿児島から北海道稚内まで平和行進中の枕崎市の丸尾晃秀氏が広島市入り
1958/11/25
東ドイツの作家ハーバート・ブルム氏から渡辺広島市長に「原爆の子の像の写真を見、佐々木禎子さんの話を聞いて感動した。小説にしたいので資料を送ってほしい」と便り
1958/11/26
核兵器搭載の米戦略空軍B47爆撃機がルイジアナ州の基地で火災、炎上。基地要員全員退避。空軍当局が発表
1958/11/--
西ドイツを訪問した広島市の原爆乙女、村戸由子さんらから原水禁広島協議会に便り。「デュッセルドルフではルール地方の炭鉱に働く羽織、はかま姿の日本人の出迎えを受け感激した」
1958/11/--
呉市の尼鉄呉製鋼所で、製品検査に使う工業用放射性アイソトープ操作の検査係5人のうち2人が白血球減少症と分かる

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