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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 12月


1958/12/4
ジュネーブの3国核実験停止会議で米英ソが起草委員会を任命。5週間の討議の後、協定のまとめに入る
1958/12/5
「原子力時代の人類への放射能の影響をどうするべきか」で東京・上野の日本学術会議がシンポジウム。気象研究所の三宅泰雄氏が「核兵器実験による汚染の広がりと蓄積」と題し、「前年に比べストロンチウム90などは2倍の蓄積量」と発表
1958/12/5
国連総会第1委員会が、日本などから提案の放射能の影響に関する決議案の討議を開始。決議は「核兵器爆発による放射能汚染は、現在及び将来の人口に、新たなそして広範な危険をもたらす」とし、この年8月に国連科学委員会が公表した「放射能に関する提案と意見」に関係国が留意するよう求める
1958/12/6
広島県被団協が「被爆者福祉センター」の建設決める。国内はじめ米英ソなどから贈られた被爆者援護資金600万円をもとに建設へ
1958/12/7
ソ連がジュネーブで開催中の奇襲防止専門家会議に提出したソ連案の内容を発表。東西両ドイツ内への大量破壊兵器の貯蔵禁止と日本を含めた東西境界地帯を空中査察地帯とする-など
1958/12/8
国連総会第1委員会が「放射能の影響に関する国連科学委員会」の存続と機能の拡大強化を総会に勧告する12カ国決議案を採択
1958/12/9
広島市を訪問中のダグラス・マッカサー二世駐日米大使が原爆慰霊碑に参拝。駐日米大使では初の参拝。夕刻、新広島ホテルで演説。「日米両国は核兵器実験を不要にするような信頼できる制度が生まれることを望んでいる。実験中止、軍縮とも有効な国際管理、査察制度が不可欠である」
1958/12/9
日本青年団協議会の招きで来日したソ連青年団体委員会のグラディスラブ・シュブチェンコ氏らが、広島市を訪れ原爆病院など慰問
1958/12/13
米核実験抗議船フェニックス乗り組みの三上仁一氏から渡辺広島市長に手紙。「米英ソ3国核実験停止会議の代表団に会議の継続進展を要請するため、米の核実験抗議船ゴールデン・ルールの乗組員やフェニックスの船長レイノルズ氏夫人とともにジュネーブに来ている。3国の代表団とも会見し、核実験禁止に最善の努力をする」
1958/12/15
日本原水協が、東京・参院議員会館で「核兵器武装禁止被爆者援護法制定国会請願大会」を開く。広島、長崎をはじめ各地から200人が参加。原爆医療法を援護法に改正せよ-などを要求
1958/12/16
日本原水協が東京・芝の本部で第5回全国総会。総括と情勢、任務の採択を意見の違いから持ち越す。運動方針は採択。これまでの核実験禁止一本やりから日本の核武装阻止が打ち出され、日米安保条約破棄をめざす
1958/12/17
広島の原爆乙女、村戸由子さんと川本佐智子さんがジュネーブで米英ソ3国核実験停止会議代表に会い、実験の即時永久停止を求めた陳情書を提出▽23日、2人が広島に帰着
1958/12/18
原水爆禁止広島市協議会(会長、渡辺広島市長)が、ジュネーブ会議へ原水爆禁止を求める第3次署名1,932人分を送る。ジュネーブの国際フレンド本部を通じて会議代表へ
1958/12/30
広島、長崎原対協調査で1958年の原爆症死亡者は両市で60人

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