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ヒストリー

ヒロシマの記録1957 4月


1957/4/1
日本遺伝学会と日本人類遺伝学会が人類に及ぼす放射線の遺伝的影響について共同声明。「放射線は少量でも遺伝的に有害である。原水爆実験などについては人類に与える遺伝的悪影響を十分警戒しなければならない」
1957/4/1
ハンナ・ミシガン州立大総長が米上院公聴会で「韓国駐留米軍を早急に原子兵器で武装しなければ対韓援助がムダになる」と証言
1957/4/1
ストロース米政府原子力委員長は水爆(熱核)エネルギーの平和利用を実現するため「ステラレーター」と呼ぶ新実験装置の建設を発表
1957/4/1
ノーマン・カズンズ氏から原爆乙女ら18人の治療費(3,280ドル)が渡辺広島市長に届く
1957/4/1
「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が施行。3月31日に国会通過。全文24条。第1条(目的)「この法律は原子爆弾の被爆者が今なお置かれている特別な状態にかんがみ、国が被爆者に対し健康診断及び医療を行うことにより、その健康の保持及び向上をはかることを目的とする」
1957/4/1
広島市は原爆医療法の施行に伴い厚生局内に原爆被害対策課を新設
1957/4/2
「ストロンチウム90を中心とした原水爆実験の降下チリによる放射能汚染が世界的規模で進行」。松下正寿特使の随員、道家忠義立教大講師の携行資料を、東京で武谷三男立教大教授らが発表
1957/4/2
原水禁広島協議会が水爆実験阻止のアピールを広島県内の各市町村や各種団体に送ることを決める
1957/4/2
マクミラン英首相が下院で「核実験中止は防衛戦略の放棄となり、英を永久に弱い立場に陥れることになる」と言明。さらにクリスマス島の実験で米、カナダなど4カ国にオブザーバーを派遣するよう招待したと言明
1957/4/2
松下正寿特使がマクミラン英首相と会見、岸首相の書簡を手渡す。マ首相は遠回しに拒否。松下特使の訪問で英国内に水爆実験反対のの機運高まる
1957/4/3
英労働党がクリスマス島水爆実験の一時延期を決議
1957/4/3
米政府原子力委員会が、「5月15日ごろからネバダ州で一連の核実験を開始する」と発表
1957/4/4
日本血液学会で被爆者の血液像所見をめぐり日米の学者が対立。米側の「年月とともに健康人と大きな差がなくなっている」という報告に対し、日本側は「末梢血液に変化がなくても骨髄に異常がある。白血病の発生率は下がっていない」と反論
1957/4/4
英が国防白書を発表し「軍縮に関する国際協定ができるまで、大規模な侵略に対する唯一の保障は核兵器で報復できる力にある」と強調
1957/4/5
広島県内の11市議会正副議長会がクリスマス島の英水爆実験中止を求める決議
1957/4/5
関西電力が工業技術院などと共同し、わが国で初めて加圧水型および天然ウラン重水型各1万キロワットの発電用原子炉の設計を完成
1957/4/5
米政府原子力委員会と英国防省が「ソ連は3日、核爆発実験を行った」と発表
1957/4/6
英の哲学者バートランド・ラッセル博士が松下正寿特使に日本国民へのメッセージを託す。「私は今後も積極的に原水爆反対を主張し続ける。日本国民も辛抱強く反対運動を続けてほしい。私は反対運動が実を結ぶことを確信している」
1957/4/6
広島県原爆被害者大会開く。原爆慰霊碑前に広島、山口、岡山、愛媛各県の代表100人が参加。「クリスマス島水爆実験を中止させるため、岸首相は渡英折衝せよ」との決議採択
1957/4/7
AP通信が伝える。「米は北大西洋条約機構加盟国に対し、原子弾頭を発射できる誘導弾と原子砲弾と通常砲弾のいずれも発射できる200ミリ砲の提供を計画」
1957/4/7
広島県被団協が、米英ソ3国元首へ原水爆実験禁止の国際協定の締結と、協定成立まで実験を中止するよう要望書の送付を決定
1957/4/7
広島大医学部の渡辺漸教授が、放射性同位元素をハツカネズミに定期的に注射して白血病誘発に成功、被爆者と白血病の結びつきを明らかに
1957/4/8
英国防省と米政府原子力委員会は「ソ連は6日、新たな核爆発実験を行った」と発表。共産圏内の外交官情報によると、ソ連は「ロケット部隊」を新たに編成したと伝えられ、核実験の頻発と関連して注目を集める
1957/4/8
原爆障害者救援事業広島委員会が、渡米治療の選からもれた原爆乙女ら18人を、施行されたばかりの原爆医療法を適用し、4月中に広島原爆病院で治療へ
1957/4/9
資金難で建設工事が中断している「世界平和広島仏舎利塔」基金にセイロン政府が援助金1,000ポンド(約100万円)を贈る
1957/4/10
米政府原子力委員会が米最初の原子力商船の加圧水型原子炉エンジンを発注したと発表
1957/4/10
米政府原子力委員会と英国防省が「ソ連は10日、核兵器の実験を行った。過去8日間に3回目のものである。今回の爆発は前2回よりやや大きい」と発表
1957/4/12
ノーベル賞受賞者のオットー・ハーン教授ら西ドイツの原子物理学者18人が、「いかなる形においても核兵器の製造、実験、使用には絶対参加しない」と宣言(ゲッチンゲン宣言)
1957/4/12
米第7艦隊のビークレー新司令官が東京で、「第7艦隊の大型空母は原子戦力による強力な攻撃力を装備し、必要なら原子戦争を行える」と演説
1957/4/12
国連軍縮小委員会でスタッセン米代表が、核分裂物質の平和利用を保障するような査察制度を確立するため、9月1日から小委員会に参加する5カ国(米、英、仏、ソ、カナダ)の専門家会議開催を提案
1957/4/13
「ソ連が12日ごろ4月に入って4度目の核実験」。米政府原子力委員会と英国防省が発表
1957/4/15
政府がソ連に無警告核実験の中止を申し入れ
1957/4/15
「核原料物質、核燃料物資および原子炉の規則に関する法案」が内定。精錬、加工事業から原子炉の設置、運転、使用済み燃料の再処理まで許可、認可の権限を総理大臣または所管大臣が掌握。原子力利用について国の強力な統制が目的
1957/4/16
映画「生きていてよかった」に出演した大竹市大竹町の有地寅吉さんが原爆症で死去。60歳
1957/4/16
気象庁が午後7時過ぎ日本各地で核実験の影響と思われる異常微気圧振動を観測したと発表。振動の波の方向からソ連の核実験とみられる。18日に米政府原子力委員会、英国防省も発表。4月に入って5回目(4・18夕、4・20夕)
1957/4/17
フランスで原爆博覧会の計画。原水禁広島協議会に仏国会議員マリー・クーチュリエ女史から資料請求の便り
1957/4/18
日本原水協の宮下太一常任委員らがソ連大使館を訪れ核実験中止を求める抗議文を手渡す。原水協のソ連への抗議は初めて
1957/4/18
ロイター通信が伝える。「国連軍縮小委員会のスタッセン米代表は、空中査察制度にソ連が反対しているため、部分的空中査察制度を認める用意があると述べた」
1957/4/19
政府が核実験に関する見解を国連軍縮小委員会に提出。「国連科学委員会または新たな核爆発管理委員会が、すべての核爆発実験が探知可能かどうかを検討し、探知可能なら国連総会または安保理事会の勧告によりすべての核実験を禁止する。探知不可能なら、すみやかに国際的探知機構を設置し、それまでは登録制を実施」
1957/4/19
西ドイツのノーベル化学賞受賞者のP・ヘルマン・シュディンガー博士が広島訪問。原爆資料館で水爆実験反対の署名
1957/4/19
クリスマス島水爆実験の抗議船派遣を検討していた日本原水協は、常任理事会で資金、効果面での意見が対立し結論を持ち越す。計画が白紙になる見通し強まる(4・21夕)
1957/4/20
フルシチョフ・ソ連共産党第一書記が門脇季光駐ソ大使と会見し、日ソ共同で米英両国に核兵器実験の即時禁止を訴えるよう提案
1957/4/20
日本原水協の呼びかけで原水爆実験阻止広島市民大会開く。原爆資料館下広場に市民、学生、被害者団体代表ら1,000人が参加。「英はクリスマス島水爆実験を中止せよ」など6項目の決議採択。東京でも原水爆実験禁止を訴える国民総決起集会を開き、米英ソ大使館に決議文
1957/4/22
厚生大臣の諮問機関である「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」(原爆協議会)の環境衛生部会が、各地で検出された強い放射能雨やチリを検討し「人体への危険はない」と結論
1957/4/22
米オークリッジ国立研究所のラッセル遺伝部長が全米科学アカデミー総会に提出する報告書で「放射能を浴びた人の子供も短命になる可能性がある」と警告
1957/4/23
ノーベル平和賞受賞者のアルバート・シュバイツァー博士が、オスロ放送を通じ核実験禁止をアピール
1957/4/25
広島県賀茂郡西条町の原爆被害者の会が発足
1957/4/26
日本学術会議が原水爆実験禁止を決議
1957/4/26
原爆医療法制定感謝会が山口正義厚生省公衆衛生局長を迎え広島市で開かれる。山口局長が「広島、長崎の特殊事情を考慮したい」と激励
1957/4/27
クリスマス島水爆実験反対を訴える全日本学生総決起中央大会が東京で開かれ、2,000人が参加
1957/4/27
長崎原水協が、長崎市の市民グラウンドで米英ソ3国の核実験に抗議して市民総決起大会を開催。1,000人が参加し、大会後、市内をデモ行進(「長崎年表」)
1957/4/29
岸首相の特使として渡英していた松下正寿立教大総長が帰国
1957/4/29
政府が米にネバダ核実験中止申し入れ
1957/4/29
アデナウアー西ドイツ首相がボン駐在のソ連大使に書簡を送り、核兵器を所有するつもりはないと表明。西ドイツ軍の核兵器武装や原子兵器部隊の駐留を警告した27日のソ連覚書に対する返書
1957/4/30
国連軍縮小委員会でソ連が新提案。核物質の貯蔵を査察するため米ソが自国領土約700万平方キロメートルを空中査察に開放、奇襲防止監視所の設置などが柱
1957/4/--
岡山、鳥取県境の人形峠第2坑道で高品位のウラン鉱石発見
1957/4/--
広島と長崎で被爆した「二重原爆被災者」の体験を基にした本「広島と長崎の9人の生存者」が米で出版。著者はニューヨーク・タイムズ東京支社長のロバート・トランベル氏
1957/4/--
ソ連の相次ぐ核実験のため、日本上空で記録的な放射能検出。広島大理学部放射能研究室が16日夕から17日朝の雨から毎分1リットルあたり1,246カウント、高知大では14万4,000カウント、気象庁でも東京2万5,300カウント、松江3万7,000カウント、鹿児島5万7,700カウント

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