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ヒストリー

ヒロシマの記録1957 5月


1957/5/1
政府特使として渡英しその後各国を歴訪した松下正寿立教大総長が首相官邸で帰国報告。岸首相に「核爆発実験は公海自由の原則を犯すため、国際司法裁判所へ提訴すべき」と進言
1957/5/1
ドイツの新聞記者ロベルト・ユンク氏が広島訪問(「ヒロシマの記録」)
1957/5/2
日本政府のネバダ核実験中止要請に対し、「国際的に完備された監視機構がない現状では、核爆発の実験を中止できない」との米政府の意向が明らかになる
1957/5/2
被爆者のための広島「憩いの家」が開所式。アイラ・モリス(国際ペンクラブ理事)夫妻が私財を投じて広島市宇品町に設立
1957/5/3
北大西洋条約機構(NATO)理事会がコミュニケ発表。「ソ連が同盟諸国に行っている警告は、欧州大陸における核兵器独占を狙ったものであり、NATO諸国はこれを受け入れず、最新の防衛兵器(核兵器)で対抗する」
1957/5/6
渡米治療の選からもれた原爆乙女ら18人の治療が広島原爆病院で始まる
1957/5/7
岸首相が参院内閣委員会で「自衛の範囲なら原子力兵器の保有は違憲ではない」と発言、波紋広げる(5・7夕、5・8)
1957/5/8
アイゼンハワー米大統領が記者会見で「国連軍縮小委員会でソ連が提案した空中査察案を真剣に検討している」と語る
1957/5/8
日本原水協がクリスマス島水爆実験抗議船団の派遣を断念。高知県原水協が単独派遣へ
1957/5/8
日米原子力細目協定に調印。1957年度中に完成するCP5型実験炉の燃料として、濃縮ウラン4キロの貸与を取り決め
1957/5/10
ソ連最高会議が「米英両国議会に向けての原水爆実験即時禁止のアピール」を採択
1957/5/10
日本原水協が石田博英官房長官に首相の核兵器合憲発言の撤回申し入れ
1957/5/12
イズベスチヤ、プラウダなどソ連各紙が、「ソ連政府は日本政府に米英に対する原水爆実験禁止の共同提案を正式に申し入れた」と伝える。日本政府は、無警告実験を続けているソ連とはまだ共同提案する時期ではない-などの理由から逆に日本が主張している「事前登録制」に対するソ連側の正式見解を求める
1957/5/13
米が「ネバダ核実験を中止しない」と、政府の中止要求に回答
1957/5/13
日米原子力産業合同会議が東京で始まる。日米及び東南アジア諸国から約400人が出席、原子力開発について討議。15日まで
1957/5/14
ウィルソン米国防長官とダレス国務長官が在韓米軍と韓国軍へ原子兵器を送ることを考慮していると語る
1957/5/14
湯川秀樹、朝永振一郎博士ら原子物理学者25人が、西ドイツの物理学者集団が出した「ゲッチンゲン宣言」の支持を表明
1957/5/14
岸首相が記者会見で「自衛のための核兵器保有は合憲」と重ねて言明。さらに15日の参院本会議でも「原水爆など現在の核兵器は自衛権の範囲に入らないが、原子力は発達の道程にあり、単に核兵器の名のゆえに反対するのは当たらない」と答弁
1957/5/15
英がクリスマス島で第1回水爆実験
1957/5/15
日本山妙法寺の尼僧らが原爆慰霊碑前で英水爆実験に抗議の座り込み。英の原水爆実験禁止全国協議会が「わが国ははかり知れないほど多くの人々に死刑を宣告した」と声明
1957/5/16
マクミラン英首相が下院で「今後も実験を継続する」と言明
1957/5/16
外務省は駐英大使へ英政府に水爆実験の抗議をするよう訓電
1957/5/17
原水禁広島協議会が、クリスマス島水爆実験反対の声明書を英政府に送付。「英国政府の暴挙は日本国民に限りない憤激を呼び起こし、全世界から非難されるものである。今後、英国が計画している実験をただちに中止することを要求する」
1957/5/17
原子戦争準備反対総決起広島大会開く。原爆慰霊碑前では広島大生1,000人が集会、原水爆実験中止を訴え市内をデモ行進。薫風寮など寮生400人はハンスト。全国65大学でも3万5,000人が抗議行動
1957/5/18
高知県原水協が人命尊重の立場から、クリスマス島付近への抗議船派遣を中止
1957/5/19
インドのネール首相とセイロンのバンダラナイケ首相が「原水爆兵器は人類の敵。いま直ちに破棄せよ」と声明
1957/5/21
マクミラン英首相が下院で「水爆実験は成功。爆発した火の玉は海面よりはるか上にあり、放射性降下物も無視できるほどだ。今後の実験には最小限にしたい」との意向を明らかにする
1957/5/22
原爆乙女治療で、ニューヨークのマウント・サイナイ病院のシドニー・カーン医師が広島入り
1957/5/22
全米PTA大会が核兵器の実験及び使用の禁止に関する国際協定の締結を訴える決議案を採択
1957/5/23
アジア諸国歴訪中の岸首相がビルマのウー・ヌー首相と核実験の禁止を訴える共同声明
1957/5/23
広島大学生自治会が広島市内で原水爆実験反対の署名と資金カンパを募る
1957/5/24
アジア諸国歴訪中の岸首相がインドのネール首相と共同コミュニケ。核実験の即時中止を訴える
1957/5/25
西ドイツ・ケルンのヨゼフ・フリングス枢機卿が広島訪問。翌朝世界平和記念聖堂でミサ
1957/5/27
米上下両院合同原子力委員会が原水爆実験による「死の灰」の被害を調査するため公聴会。日本やインドをはじめ、シュバイツァー博士ら世界の著名な学者が実験禁止を叫んでいるため、灰はほとんど無害だとするリビー政府原子力委員の学説の再検討を迫られたため。30人の米科学者が3週間意見を述べる。初日はダンハム政府原子力委員会生理医学部長が「ある程度放射能に照射されることは、原子力利用の代価」と証言
1957/5/27
茨城県東海村原子炉の濃縮ウランが日航機で米から羽田に到着
1957/5/27
長崎原爆被災協が、日本原水協の原水爆禁止国民使節団に長崎市被爆者代表として杉本亀吉長崎原水協副会長を決める。7月23日羽田を出発(「長崎年表」)
1957/5/27
「原爆乙女の治療をしたい」と、米の女性医師ゲニヤ・サキンさんが自費で広島入り
1957/5/28
米上下両院合同原子力委員会の公聴会で、米気象台のレスター・マクタ博士が「死の灰に含まれるストロンチウム90が北半球の温帯上空に集まっている」と証言。ストロンチウム90は地球上空にほぼ均等に分布しているというリビー説に反論
1957/5/28
米がネバダで原爆実験。威力はTNT火薬1万トン級
1957/5/29
米上下両院合同原子力委員会の公聴会で、チェスター大医学部のニューマン教授が警告。「原子兵器実験が生み出すストロンチウム90による大気の汚染度は既に危険水準に近づいている」
1957/5/29
ネバダの原爆実験で生じた放射性降下物が、これまで最高の600キロも離れた地点で検出
1957/5/29
政府がネバダ原爆実験で米に抗議
1957/5/30
原子力委員会が1957年度原子力開発利用基本計画を決定。米英と一般協力協定(動力協定)を締結する方針を明らかにするとともに、輸入する動力炉は実用規模以下との構想を示す
1957/5/31
英がクリスマス島で2回目の水爆実験
1957/5/31
アジア諸国歴訪中の岸首相がセイロンのバンダラナイケ首相と核実験即時停止を求める共同声明
1957/5/--
米ネバダ核実験の被害者が共同通信記者に対し被害の実態を証言。「何を食べても吐き出す。髪の毛は抜け体重は減る一方」
1957/5/--
原爆医療法施行令により、長崎市が被爆者調査を始める(「長崎年表」)

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