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ヒストリー

ヒロシマの記録1957 7月


1957/7/2
国連軍縮小委員会で西側4カ国(米英仏加)がソ連の軍縮提案に対する共同声明。「核兵器実験の一時的中止を実現可能の領域に持ち込んだものと考える。だが、一時中止は、期間や時期、査察を含む管理機構の設置などについてさらに交渉を進め協定が成立して初めて実行できる」。米は新たに核兵器の生産禁止と結びつけた実験の10カ月間一時中止を提案
1957/7/3
日本原水協が派遣を計画している原水爆禁止国民使節団への旅券交付に外務省が難色
1957/7/3
法政大教授会が原水爆実験反対の声明
1957/7/4
東大と東工大教授が原水爆実験反対の声明。米英ソをはじめ世界の各大学に呼びかけようと署名集め
1957/7/4
湯川秀樹博士ら世界平和アピール7人委員会が、8日からカナダのパグウォッシュで開かれる国際科学者会議に、人類の平和と幸福のために科学者が団結して原水爆禁止を訴えるようアピールを送ることを決める
1957/7/5
米がネバダで原爆実験。TNT火薬で6~8万トンの威力とみられ、原爆としては最高限度に近い
1957/7/5
国連軍縮小委員会で米が核兵器使用の完全禁止案を拒否
1957/7/6
日本赤十字社が広島原爆病院の現状を映画にまとめる。10月ニューデリーで開かれる国際赤十字総会で原水爆反対を提案するための資料
1957/7/8
国連軍縮小委員会でソ連が核兵器の生産禁止と結びつけた西側の核実験10カ月間中止提案を拒否。ソ連のゾーリン代表は「実験中止と核生産を結びつけることは価値がない」と述べ、2、3年間の実験中止を求める従来のソ連案を強調
1957/7/8
カナダのパグウォッシュで国際科学者会議(第1回パグウォッシュ会議)開く。バートランド・ラッセル、湯川秀樹博士ら10カ国22人の科学者が参加。11日に「核兵器の国際管理制度実現への第一歩として原水爆実験を中止すべきである。放射能灰が人類に及ぼす影響ははかりしれない」との共同声明
1957/7/10
電源開発会社(電発)が原子力発電の受け入れを正式表明。「原子力発電が商業ベースに乗るまでの過渡期は、国家資金により電発が担当すべき」。原子力発電振興会社の設立準備を進めている電力9社は11日、電発に対抗し、原子力委員会に原子力発電を9電力の手で実現したいと申し入れ
1957/7/11
米政府原子力委員会が、放射性降下物のためにこれまで人体に蓄積されたストロンチウム90は許容量よりはるかに少ないとの報告書を発表
1957/7/12
モスクワで開かれる世界青年学生平和友好祭に参加するため旅券を申請した500人のうち150人しか交付が認められず、参加予定者300人が外務省前で座り込み
1957/7/15
米が6月末不発に終わった原爆ディアブロの実験をネバダ実験場で行う。今期7回目
1957/7/15
世界青年学生平和友好祭に参加するため東京で旅券取得運動をした児島市の職員が懲戒免職処分
1957/7/16
世界青年学生平和友好祭参加者の旅券問題で、日本実行委員会は外務省の150人案を受諾。残る350人については訴訟に持ち込み、政府に損害賠償請求へ
1957/7/16
ダレス米国務長官が記者会見で「NATOに原子兵器のストックを持たせる可能性を検討」と語る
1957/7/16
広島市職員の原爆犠牲者遺族会が結成
1957/7/16
共同映画社製作の原爆児童映画「長崎の子」の試写会が国際文化会館で行われる(「長崎年表」)
1957/7/18
日本原水協の米英ソ国民使節団派遣問題で、外務省はひとまずソ連に行く6人の旅券交付を了承
1957/7/19
モスクワの世界青年学生平和友好祭に参加する代表155人が新潟から出港
1957/7/19
米政府原子力委員会がネバダ実験場で初の空対空原子弾頭つきロケット弾の実験。ロケット発射にあたったジェット戦闘機の乗員3人が放射能を浴びる。爆発点の9,000メートル直下では5人の将校が無防備のままで実験状況を観察。参加した大佐は「爆風は軍服をそよとも動かさなかったが、カマの戸を開けた時のような熱気を1秒の何十分の一ではあったが感じた」
1957/7/19
原子力委員会が英から大型動力炉、米から動力試験炉を輸入することで意見一致
1957/7/21
広島子どもを守る会青年部が原爆で犠牲になった肉親の13回忌法要。80人が原爆慰霊碑に花束をささげ、戦災供養塔に参拝、広島市左官町の本覚寺で法要
1957/7/23
日本原水協の原水爆禁止国民使節団の訪ソ班6人が羽田からモスクワに出発
1957/7/24
ロスアラモスの米核兵器研究所の科学者たちが「きれいな水爆論議が米の軍縮努力を妨げている」と声明
1957/7/24
記録映画「世界は恐怖する-死の灰の正体」(日本ドキュメント・フイルム社製作、亀井文夫監督)の広島ロケ始まる
1957/7/24
米がネバダ実験場で今期9回目の原爆実験。威力はTNT火薬1万トン以上とみられる
1957/7/24
英政府がブルガーニン・ソ連首相からマクミラン英首相あて書簡を発表。「英は軍縮討議を続けながらその裏で核兵器を集積している」と非難
1957/7/25
正力松太郎国務相(原子力委員長)と内海清温電源開発総裁が輸入動力炉の受け入れ態勢を協議した結果「従来の行きがかりを捨てて、電発、電力9社、電気メーカーで新会社をつくる」ことで意見一致。26日の閣議ではまとまらず新会社構想は宙に
1957/7/25
米がネバダ実験場で今期10回目の原爆実験。威力はTNT火薬1万トン程度とみられる
1957/7/27
浄土真宗本願寺派の第8回仏教青年大会が広島市公会堂で始まる。京都西本願寺の常夜灯の火を広島まで500人がリレー。大会では原水爆禁止の決議文を米ソ大使館に送ることを採択
1957/7/28
第6回世界青年学生平和友好祭がモスクワで始まる。8月11日まで。日本代表団は「ノーモア・ヒロシマ」のプラカードを掲げ14万人以上の観客を収容したレーニン競技場を行進し、総立ちの拍手を浴びる
1957/7/29
アイゼンハワー米大統領が国際原子力機関(IAEA)批准文書に署名。5大国のうち米英ソの批准が完了し、国際原子力機関が正式に発足
1957/7/29
ノーマン・カズンズ氏から渡辺広島市長に手紙。「治療を希望する原爆症患者が少なくなった。内科的、外科的治療は打ち切り、今後は孤児収容施設に食品を送るなど一般的な厚生活動に移るのが賢明と思う」
1957/7/31
国際原子力機関(IAEA)の準備委員会は日本など13カ国を理事国に選ぶ。日本は極東地域の代表
1957/7/--
米政府原子力委員会が放射能被害の研究を拡大し、遺伝や放射能拡散などの問題も調査する計画。米上下両院合同原子力分科委員会の勧告により、遺伝の調査では広島、長崎の原爆犠牲者の子孫、とくにいとこ同士の結婚などを調べる
1957/7/--
東京教育大の三宅泰雄教授が放射能汚染分布図を作製。「日本がある北半球の東半分のストロンチウム90蓄積量は地球全体の57%を占める」
1957/7/--
日本原水協が8月に開かれる第3回原水禁世界大会をきっかけに、被爆外国人留学生の救援問題を取り上げることを決め、被爆当時旧制広島文理科大に入学していた南方特別留学生を世界大会に招く準備を始める
1957/7/--
武谷三男立教大教授が新しい著作「原水爆実験」の中で、米が研究を進めている「きれいな水爆」を批判。「起爆剤にどのような物を使っても爆発は中性子が出る。中性子照射により遺伝的に障害の大きい放射性炭素14や放射性コバルト60などが作られコバルト爆弾になる可能性がある」
1957/7/--
原爆死した米航空兵の遺骨が平和記念公園の戦災供養塔に納められていることが、広島市職組の「原爆記録」の編集作業中に判明
1957/7/--
前年産の玄米から許容量の五分の一という高濃度のストロンチウム90とセシウム137を検出。文部省のストロンチウム90濃度研究班(主任、桧山義夫東大教授)が測定、国連科学委員会に報告するとともに厚生省は原爆協議会食品衛生部会を開く
1957/7/--
広島市内の養護施設を巣立った原爆孤児の生活実態を市社会課がまとめる。1,114人(7月末現在)のうち就職しているのは81%。他は学生、養子縁組、結婚など。不明者は91人
1957/7/--
広島市民病院の村上基千代小児科部長らのグループが、乳児から4、5歳の幼児の被爆状況と死亡状況、被爆小児と当時胎内にいた小児の身体発育の状況と末梢血管像の調査結果をまとめる

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