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ヒストリー

ヒロシマの記録1957 8月


1957/8/1
広島市で原爆医療法に基づく被爆者健康診断が始まる。広島原爆、広島県立、広島市民の3病院と東、西両保健所、開業医で。8月31日までに2,625人が受診。このうち精密検査が必要と認められたのは517人
1957/8/2
第3回原水爆禁止世界大会へ参加予定の共産圏代表に、政府が通常の入国手続きに加えて在日経歴と犯罪経歴の記入を要求したため、各国代表が反発。大会国際準備センターは政府に善処を要望
1957/8/2
正力松太郎国務相(原子力委員長)が、参院商工委員会で「原子力委員会は1970年度末までに300万キロワットの原子力発電計画を内定している」と答弁
1957/8/3
原爆慰霊碑の周辺に「平和の池」が完成。日本青年会議所が寄贈
1957/8/3
第3回原水爆禁止呉大会が市民約1,000人を集め中央公園広場で開く
1957/8/3
第3回原水爆禁止世界大会へ参加を予定している中国代表団に、外務省が無条件で入国許可
1957/8/4
旅券問題がこじれ派遣が延期されていた日本原水協の原水爆禁止国民使節団訪英班の森滝市郎原水禁広島協議会事務局長が出発。外務省が歩み寄り1日に旅券交付(「平和運動20年運動史」「ヒロシマ四十年・森滝日記の証言」)
1957/8/4
社会党の鈴木茂三郎委員長が広島市で記者会見し自衛隊の核武装化に懸念を表明。「岸首相は核兵器の持ち込みは憲法違反とならないと言明。自衛隊も誘導弾の購入計画を進めており、小型核兵器が日本に持ち込まれる危険性が極めて高い」
1957/8/5
立命館大が原水爆実験の即時停止を要請する声明を発表。米英ソの各大使館に声明書を送るとともに京大、阪大をはじめ関西各大学にも呼びかける
1957/8/5
道家忠義立教大助教授と斎藤信房東大教授らが、大気中のチリから初めてプルトニウム239を検出。許容量の二百分の一から四十分の一
1957/8/5
広島大の長田新名誉教授ら12人が、「核兵器の実験、使用研究には参加しない」というゲッチンゲン宣言にこたえ、世界平和を訴える声明を発表
1957/8/5
原水爆禁止訪ソ国民使節団がクレムリンでブルガーニン・ソ連首相と会見。米などが主張している原水爆実験の10カ月中止案について、首相は「諸国民の警戒心を緩めさせる一時的なごまかし」と回答
1957/8/5
身元の分からぬまま広島市寺町の西本願寺広島別院に仮埋葬されていた原爆犠牲者の遺骨を平和記念公園内の戦災供養塔に合祭。1955年8月以降市内の区画整理の現場などで発掘された約200柱と推定
1957/8/5
原子力委員会が実用発電炉の最初の1基ないし2基は電発、電力9社、電気メーカーの3者でつくる新会社で導入することを決定
1957/8/6
被爆12周年。原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊式・平和記念式。三笠宮夫妻、鈴木茂三郎社会党委員長をはじめ市民2万人が出席。この年原爆症で死亡した15人をはじめ1年間にわかった185人を原爆死没者名簿に追加、慰霊碑に眠る犠牲者は5万9,893人に
1957/8/6
渡辺広島市長が平和宣言。「原爆の高熱と爆風による瞬時の破壊力はまさに空前のものであって、広島市は人々の想像に絶する廃虚の街と化した。そのガレキの上に市民のたゆまざる努力により新しい広島市は生まれつつある。しかし、被爆生存者の体内にはなお目に見えぬ破壊力が働いているという恐るべき事実が明らかとなった。われわれは放射能が人間の体内に入れば、徐々に身体をむしばむだけでなく、その害悪は遺伝により子々孫々に伝えられることを知っている。世界はすでにこの放射能の渦の中に置かれている。原水爆の実験はおびただしい放射能を大気中に放出し、徐々にではあるが、刻々に人類生存の基盤を脅かしている。本日原爆死没者が払った尊い犠牲を象徴する慰霊碑の前に立って諸霊を弔うにあたり、原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が、愚かな幻に過ぎないことを指摘し、世界の人々がすみやかに真実の平和の道を選んで、人類をその最大の危機から救うべきことを訴えるとともに、自らも微力を尽くすことを誓う」
1957/8/6
被爆13回忌を記念して旧制広島市女の遺族会が「広島市原爆追憶の記・流灯」を出版
1957/8/6
6月の日米共同声明に基づく「安全保障に関する日米委員会」が発足。日本側委員は藤山愛一郎外相と津島寿一防衛庁長官。社会党は「米の新しい原子戦体制に組み込まれる」と反対声明
1957/8/6
日本原水協の第3回原水爆禁止世界大会広島大会開く。広島市公会堂にインド、米など4カ国6人の海外代表を含む1,500人が参加。「広島県民が世界の先頭に立って原水爆禁止の悲願達成に立ち上がり、被爆者救援のため国際的な援護組織を確立させよう」とアピール。東京では原水爆禁止世界大会予備会議が始まる
1957/8/6
モスクワで原爆記念集会。10万人の群衆を前に長崎の被爆者永田尚子さんらが原爆の悲惨さ訴え 1957/8/7
米がネバダ実験場で今期11回目の原爆実験。威力はTNT火薬2万トン。6日に実験に反対する11人のデモ隊が実験場に侵入しようとして逮捕
1957/8/9
長崎市で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。平和祈念像前に遺族や市民約2,000人が出席。田川市長が平和宣言。「業苦と悲惨の洗礼を受けた長崎市民は真の世界平和と人類愛を求めて全世界の良心に訴え続けること十有二年、今や世界の良識と正義は原水爆禁止と世界平和の確立に向かって一歩一歩前進しつつあり、長崎市民は12周年の原爆の日を迎え世界秩序の確立、和解と信頼による恒久平和実現の聖なる使徒たらんとの心を新たにすると共に崇高な悲願達成のため忍耐と勇気をもってまい進することを誓う」
1957/8/9
旅券問題で来日が遅れていた第3回原水爆禁止世界大会ソ連代表団が羽田に到着
1957/8/10
米ロスアラモスで原爆製造にかかわったジョセフ・ロットブロット博士(ロンドン大教授)が広島市を訪問。「予想以上の惨害に驚いた。広島への原爆投下には大きな責任を感じている」
1957/8/10
長崎市が、第1回原爆被爆者健康診断を実施(「長崎年表」)
1957/8/11
伊藤忠男広島市議会議長ら原水爆禁止国民使節団の訪米班が出発。旅券交付問題がこじれ1カ月出発が遅れる(「平和運動20年運動史」)
1957/8/12
日本原水協の第3回原水爆禁止世界大会開く。東京都体育館に22カ国94人の外国代表と約5,000人の国内代表が参加。南原繁前東大学長が「時は迫っている。原水爆の製造と実験の中止。人類はただこの一つのことにかかっている」と演説
1957/8/12
茨城県東海村の日本原子力研究所の第1号湯沸かし型原子炉(熱出力50キロワット)の臨界実験が始まる
1957/8/15
英で水爆を恐れて一家5人が心中したとUP通信が伝える。遺書には「子供たちを水爆戦争の悲劇にあわせてはならない」
1957/8/16
日本原水協の第3回原水爆禁止世界大会が閉幕。大会期間中に2カ国4人増え、外国代表は24カ国98人に。「人類にはかりしれない災害を及ぼす原水爆実験を原子戦準備の危険な表現と認め、関係政府が実験の即時かつ無条件禁止のために国際協定締結を要求する」との東京宣言を発表
1957/8/17
シンガポールに住む哲学者S・M・アルサゴフ博士から、南方特別留学生として旧制広島文理科大に在学中被爆死した弟のサイド・オマールさんの死亡証明書が欲しいと、広島市に手紙
1957/8/17
広島県医師会原爆医療法特別委員会が発足。原爆医療法の完全運営に向け協力体制を整える
1957/8/18
東京の原水爆禁止世界大会に出席したオーストラリアのウィリアム・モロー代表(元上院議員)ら海外代表29人が広島訪問
1957/8/18
米はネバダ実験場で今期12回目の原爆実験。威力はTNT火薬約1万トン
1957/8/19
第3回原水爆禁止世界大会大阪大会が大阪プールで、外国代表18人をはじめ1万5,000人が参加して開く。原水爆禁止の国際協定締結を求めた東京宣言を確認
1957/8/20
第3回原水爆禁止世界大会に参加した中国、インド、ソ連、日本など10カ国の代表が、核兵器禁止に向け団結を強める「アジア、アフリカ共同宣言」を発表
1957/8/21
米英仏カナダの西側4カ国は国連軍縮小委員会で、ソ連案に対する妥協案として、すべての核実験を2年間、2段構えの条件付きで中止する案を提出。部分的軍縮協定が発効してから1年間実験を中止し、うまくいけば第2段階に移り、さらに1年間実験を中止する。ソ連のゾーリン代表は「勝手な条件をつけることは協定成立へのチャンスを少なくする」と西側を非難
1957/8/21
アシリー米下院議員が「国防総省はネバダ実験場に勤務した経験を持つ2人の元兵士のがん死が原爆実験に関連があるかどうか調査を約束した」と発表
1957/8/22
原爆障害者救援事業広島委員会が、原爆乙女の治療を打ち切り、米ヒロシマ・ピース・センターからの援助は医療器具や入院中の原爆症患者の生活援助に切り替えを決める
1957/8/22
原水爆禁止国民使節団の代表として渡英中の森滝市郎原水禁広島協議会事務局長から広島市役所へ便り。「バーミンガム市で神学者のウッド博士や哲学者のバートランド・ラッセル博士らと会い広島の声を伝えた。コベントリー市では副市長らから平和のためにともに手をつなぐ都市であることを宣言しようとの提案があった」
1957/8/23
米政府原子力委員会が「ソ連はシベリアの実験場で核兵器の実験を再開した。相当な規模の爆発が22日起きた」と発表
1957/8/23
国連軍縮小委員会で、英代表が「西側が2年間の核実験停止を提案してから24時間もたたないうちにソ連が不意打ちに核実験を行った」と非難
1957/8/23
米がネバダ実験場で今期13回目の原爆実験。威力はTNT火薬1万トン相当
1957/8/24
広島市大手町8丁目、花岡俊男さんが被爆死した南方特別留学生サイド・オマールさんの最期をみとったと名乗り
1957/8/25
米上下両院合同原子力委員会が5月から開いた「放射能灰の人体に及ぼす影響に関する公聴会」の報告書発表。「きれいな核兵器というものはありえない。過去5年間に行われた実験の率で今後も実験を続けるなら、数世代後には人類は重大な危機に陥る」と警告
1957/8/26
米スタンフォードのヒロシマ・ピース・センターから広島市長あてに精神養子9人の指定養育資金225ドルと一般養育資金775ドルを送ったと連絡
1957/8/26
タス通信が「ソ連は数日前に大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験に成功。原水爆兵器を爆発させた」と発表
1957/8/26
英原子力公社が「ゼータ(ZETA)と呼ばれる核融合反応の平和利用化を目指す実験装置が完成」と発表
1957/8/27
「原子の火」が茨城県東海村の日本原子力研究所の湯沸かし型原子炉に初めてともる。26日午後からウラン235の注入を開始。午前5時23分、1,170グラムの燃料で炉心内部に持続的核分裂が始まり臨界に。アジアではインドに次ぎ2番目の原子炉保有国に
1957/8/27
正力松太郎国務相と河野一郎経済企画庁長官の間で調整がつかず難航していた発電用原子炉の受け入れ新会社は、出資割合を電源開発2、電力9社4、電気メーカー及び一般公募4で合意
1957/8/27
岡山、鳥取県境の原子燃料公社人形峠出張所が完成
1957/8/28
モスクワ放送が「現在のロンドン国連軍縮小委員会は軍縮達成という課題を解決できない」とのソ連政府声明を発表
1957/8/31
米がネバダ実験場で今期15回目の原爆実験。威力はTNT火薬12万トン以上
1957/8/--
原爆の後遺症と肺がんの発生が深い関係にある疑いが広島県衛生部の調査で浮上
1957/8/--
米海軍が初の原子力航空母艦(85,000トン)の建造をバージニア造船ドック会社に発注。8基の原子炉で動き、完成は1961年の予定
1957/8/--
西脇安・大阪市立大助教授が人間の筋肉から、群馬大の山県登助教授は血液からともに初めてセシウム137を検出。文部省のストロンチウム90濃度研究班に報告
1957/8/--
群馬大医学部の小川栄一博士が、世界で初めてセシウム137の体外排せつを促進する基礎研究に成功

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