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ヒストリー

ヒロシマの記録1957 12月


1957/12/1
ロンドンの外交筋が「フランスは最初の核爆発実験を来年6月ごろまでにサハラ砂漠で行う準備を進めている」と語る。仏の週刊誌「ラントルブリーズ」も11月29日付誌上で実験の計画を報道
1957/12/1
ソ連のミハイロフ技術大佐が「原子力モーター航空への応用」と題する本の中で、2種類の原子力飛行機の構想を発表
1957/12/2
長崎の原爆孤児(15歳)が養父母一家とともにブラジル移住を決意、横浜港を出発
1957/12/3
原爆映画「世界は恐怖する」で障害児出生率の数字に誤りがあると資料を提供した林一郎長崎大医学部教授が、製作会社に訂正申し入れ
1957/12/5
オーエウイング英空軍次官が「英空軍の爆撃隊はメガトン級の水爆装備を進めている」と言明
1957/12/5
ソ連は世界初の原子力砕氷船レーニン号(16,000トン)を進水させた、とタス通信が伝える
1957/12/6
広島県山県郡加計町で52歳の被爆男性が自殺。男性は家族に「最近原爆患者が次々に死んでいくので自分も必ず死ぬ」と漏らしていた
1957/12/8
尾道市美ノ郷町の土生ウメノさんが慢性骨髄白血病で死去。70歳。この年の原爆症死者は38人
1957/12/10
ブルガーニン・ソ連首相が米、西ドイツ、インドの首脳に書簡。アイゼンハワー米大統領に送った書簡は、NATO諸国が戦争準備を強化していると指摘し、核実験の禁止と戦争を外交政策に使わないための首脳会談を提唱。米の外交筋はNATO会議への牽制とみる
1957/12/11
日本赤十字社が原爆後障害研究推進のため「原子力放射能障害対策委員会」設置を決め、委員に都築正男日赤中央病院長、重藤文男広島原爆病院長ら選ぶ
1957/12/12
ソ連が国連全加盟国へ書簡。「核戦争の危機が増大している。東西両機構は不可侵条約を結ぶなど国際関係が向上する措置を直ちに講じねばならない」
1957/12/13
英原子力公社が「ロンドン西方のバークシャー州オルダーマストンにある核兵器研究所で11日、原子炉事故が発生し研究官1人死亡、数人が軽傷」と発表
1957/12/15
故久保山愛吉氏の妻すずさんにカイロで開かれる第2回アジア・アフリカ諸国会議への招待状届く
1957/12/17
米国防総省が大陸間弾道ミサイル(ICBM)「アトラス」の発射に成功。射程は8,800キロ
1957/12/18
パリで開かれているNATO首脳会議で、NATO14カ国は中距離弾道ミサイル(IRBM)基地と核弾頭貯蔵所を設置する米の申し入れを受諾
1957/12/19
第4回日米委員会の共同コミュニケで米から空対空ミサイルサイドワインダー供与が明らかになる
1957/12/20
日本化学会の第1回放射化学討論会が東京で始まり、食物放射能汚染の進行実態を報告
1957/12/23
英紙デーリー・エクスプレスは「英は来年2月にクリスマス島で水爆実験を行う計画」と報じる
1957/12/23
米の空対空ミサイル供与をめぐり参院本会議で社会党が「核兵器導入の第一歩」と政府を追及。岸首相は「核兵器の持ち込み、自衛隊核武装は絶対にない。供与は断らない」と答弁
1957/12/24
モスクワ放送がトルコ紙の報道として「米はトルコ領内で原爆実験を行った」と伝える
1957/12/25
西ドイツのノーベル化学賞受賞者P・ヘルマン・シュディンガー博士らノーベル賞科学者51人が署名した平和宣言(マイナウ宣言)の写しが原爆資料館に届く
1957/12/26
カイロで始まった第2回アジア・アフリカ諸国会議で、安井郁日本代表が核実験即時停止を訴え、アジア・アフリカを核兵器のない平和地帯にと呼び掛け
1957/12/27
広島市内の被爆者健康手帳の交付数は7万1,651人(11月末現在)で、健康診断の受診者は1万600人と低調。うち415人が厚生省へ入院治療を申請
1957/12/28
米政府原子力委員会は「ソ連が28日シベリアで核爆発実験を行った」と発表。米軍事専門家は大陸間弾道ミサイルの弾頭のような特殊水爆と推測
1957/12/--
防衛庁が「自衛隊の核兵器装備は現在はもとより近い将来も不必要」との国防白書案
1957/12/--
英紙ファイナンシャル・タイムズの報道によると、原子炉事故は10月の英ウィンズケール原子力工場第1号事故のほか、大きいものは過去15年間に米、カナダ、仏、英、ソで7回発生
1957/12/--
マケルロイ米国防長官と英政府首脳の会談で、米の中距離弾道ミサイル(IRBM)基地を英国内に設けることを原則的に決定
1957/12/--
原爆映画「世界は恐怖する」(日本ドキュメント・フイルム社、三映社)が広島上映。亀井文夫監督(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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