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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 1月


1956/1/1
原子力行政の最高機関として原子力委員会が発足。原子力局を総理府に設置し、原子力平和利用の第一歩を踏み出す。委員長に正力松太郎国務相、委員に石川一郎、藤岡由夫(常勤)、湯川秀樹、有沢広巳(非常勤)の4氏
1956/1/3
中国新聞紙上で「原子力時代と日本の進路」の座談会。お茶の水女子大学長・蝋山政道、日本学術会議会長・茅誠司、世界経済調査会専務理事・木内信胤の3氏
1956/1/3
ニューヨーク・タイムズの科学記者ウィリアム・ローレンス氏の「輝かしい人類の将来」と題する評論が中国新聞紙上に掲載。原子力利用について「今後10年間以内に問題はすべて解決され、その結果、人類は史上最大の技術革命による恩恵を摘み取ることができるようになるだろう」。ロ記者は第二次大戦で米軍当局に選ばれた唯一の従軍科学記者で、長崎の原爆投下を機上から目撃。その模様を報道して1946年、ピュリツァー賞を受けた
1956/1/3
渡辺広島市長が中国新聞紙上で柴田重暉市議会議長と対談。渡辺市長「選挙で公約したように私は従来の『平和都市建設』をさらに進めて『産業都市建設』へすべての施策をもっていきたい」
1956/1/4
原子力委員会が初会合。原子力受け入れのための国内態勢整備や原子炉の購入、日米原子力協定に基づく細目協定の取り決めなどに取り組みへ
1956/1/5
原子力委員会委員長の正力松太郎国務相が「5年後の1959年度末までに実用原子力発電所を建設する。できるだけ早い機会に実用化された動力としての原子力受け入れ協定、すなわち動力協定を米国と結びたい」。動力協定締結発言について、他の4委員は「原子力基本法の自主、公開、民主の3原則を覆す」と意見は対立
1956/1/5
原水爆禁止を祈願し、大阪市東淀川区国次町の青年中田栄一氏が平和記念公園の原爆慰霊碑横で断食を開始
1956/1/6
参院社会労働委員の山下義信(社会・広島)、谷口弥三郎(自民・熊本)両氏が原爆患者の健康管理、弔慰金の支給状況など調査のため広島市を訪問
1956/1/6
原対協が被爆生存者健康調査の中間報告をまとめる。「調査した一般市民2万4,308人、児童9,698人のうち3割が体に何らかの異常と不安を持っている」
1956/1/6
米ニューヨーク市在住のプリーズ女史から、戦災孤児のために280ドル小切手5枚(総計50万4,000円)が渡辺広島市長に届く
1956/1/7
小林英三厚相が広島市を訪問。広島赤十字病院で原爆患者9人を見舞う。「広島は原爆の地として特殊な所で、困っている人はこれからも出るだろう。何か援護法が考えられないことはないだろう。法律として作ることを研究したい」
1956/1/9
原爆積載が可能な米空軍の最新鋭戦術爆撃機B57の配備第1陣5機が埼玉県入間川の米軍ジョンソン基地に到着。B57は1955年秋の米原子戦争演習にも参加。在日米空軍は「同機は原爆を積載しておらず、日本国内に原爆は貯蔵していない」と言明
1956/1/9
原子力委員会が国連科学委員会の政府代表に都築正男東大名誉教授を正式承認
1956/1/11
広島大理学部品川放射能研究室の測定で、9日夜から10日朝に降った広島地方の雪から1リットル当たり毎分220カウントの放射能を検出。4日154カウント、6日145カウント。島根県衛生研究所も松江市内の雪から4日381カウント、5日222カウントを検出
1956/1/11
ダレス米国務長官が記者会見で「国際的な兵器管理協定が成立するまで、水爆実験の中止に応じない」と言明
1956/1/12
原水禁広島協議会にフランスのフォール首相から返書。1955年12月、米英仏ソ4カ国と国連に水爆実験停止要請書を送った反応第1号。「フランスの原子力政策は産業応用の方向に向けられていることを保証します」
1956/1/12
米政府原子力委員会と国防総省が「今年春にエニウェトク環礁で新たな原子兵器の実験を行う」と共同発表。目的は原水爆攻撃に対する防衛手段の研究促進
1956/1/13
原子力委員会が正力松太郎委員長声明を発表。日本の原子力平和開発の方向と目標を明らかにし、国民の協力を求める。「日本は原爆の恐ろしさを身をもって体験した国だけに、原子力基本法の定めるところに従い、すべての努力を平和利用の一点に集中し、戦争の具に供することのないよう誓いを新たにしている」「20年後には現在水準の2倍近いエネルギーが必要と推測される。今後5年間に原子力発電の実現に成功したい」
1956/1/14
京大科研原子核研究所で日本最大のサイクロトロン完成。科研、阪大に次ぎ戦後3台目
1956/1/14
社会党の代表が根本龍太郎官房長官に、エニウェトク環礁で行う水爆実験計画の即時中止を米政府に申し入れるよう要請書
1956/1/14
原対協が進める被爆生存者健康調査のうち、児童、生徒の調査結果が判明。小学生=4万人中3,020人(9%)が被爆。精密検査、治療希望者は760人▽中学生=1万8,000人中、被爆4,649人(21%)、希望者809人▽高校=1万5,000人中、被爆1,988人(12%)、希望者323人
1956/1/15
広島原爆病院が広島赤十字病院の敷地内で起工式。お年玉年賀はがき寄付金で建設、鉄筋コンクリート3階建て120床
1956/1/15
米の原子科学者ラルフ・ラップ博士が「米が今春、エニウェトク環礁で行う一連の実験では、1954年のビキニ水爆より2、3倍の放射能灰を伴う核兵器を爆発させるだろう」と述べる。「米政府原子力委員会は事実を広く伝えるべき」とも
1956/1/16
原爆乙女25人の外科手術に当たっている米ニューヨーク市マウント・サイナイ病院の整形外科医ウィリアム・ヒッチグ博士から渡辺広島市長に手紙。「手術は順調で乙女たちは立派な生活態度で日々を送っている。9月ごろには帰国することになろう」
1956/1/17
日本原子力研究所が第2回理事会。参与に朝永振一郎東京教育大教授ら学界、民間、官界の34人を決める
1956/1/17
岡山県川上郡川上町の山宝鉱山でウラン新鉱山がみつかり、同県が通産省工業技術院地質調査所に現地調査を申請
1956/1/18
「原爆の子の像」建設の準備会を広島市の幟町中学校で開き、市内の公私立小中高校の児童、生徒約100人が参加。像の建立運動を全市に広げるため、同中学に委員会本部を設け、全国へ募金を呼びかけ決定
1956/1/18
米学士院医学部長キャナン氏から広島市議の土岡喜代一氏に手紙。ABCCのホームズ所長が外国人記者団に行った原爆障害者の実態調査報告(1955年11月29日)は実情とかけ離れている、と土岡氏がアイゼンハワー米大統領に抗議書(同12月21日付)を送ったことへの回答。「ABCCの研究は日米はもとより世界の医学文献に定期的に発表され、客観的に評価され、現在の研究も定期刊行物に載せられている。ホームズ所長の研究発表もこの集積によって行われたものである」
1956/1/20
広島、長崎両市に1955年人権アカデミー賞が贈られ、外務省で伝達式
1956/1/20
広島、長崎両市の原爆障害者治療費が1956年度予算案で2,568万2,000円計上されることに閣議決定
1956/1/21
渡米治療中の原爆乙女の親ら約40人を招き、原対協が乙女の近況を聞く会を開催。帰国した原田東岷氏、谷本清牧師が近況を報告、スライドを上映
1956/1/22
原水禁広島協議会、広島原爆被害者の会、シオン会(原爆乙女の会)など諸団体が広島県教育会館で原爆被害者連絡協議会世話人会を開催。「3月に広島県内被爆者大会を開く」などの声明書を発表
1956/1/22
米が今春、太平洋海域で核実験を予定していることに対し、日本政府が(1)実験期間や危険区域の事前通告(2)漁船などに被害を及ぼさない万全の予防措置(3)損害の十分な補償-の3項目を米政府に申し入れ
1956/1/23
原水禁広島協議会が広島県、市、ABCCの協力で原爆被害者傾向調査の実施を決定。県内5,000~6,000人を対象に、被爆後10年間の生活を精神、医療、経済面から調査。被害者救援運動の一環で、久保良敏広島大教授を中心に実施へ
1956/1/24
広島赤十字病院に入院中の広島県山県郡千代田町、清見義登君が急性白血病で死去。10歳。この年初の原爆症犠牲者。前年は16人が死亡
1956/1/25
原水爆の恐ろしさを人類に知らせる国際科学者会議開催に日本の学者の協力を求める「世界科学者連盟」執行委員会議長パウエル博士の書簡に対し、日本学術会議が「賛成」回答を決定
1956/1/26
米議会合同原子力分科委員会が秘密会議で、海軍の原子力巡洋艦建造計画推進を承認
1956/1/26
広島市が世界各国に発送した1955年の被爆10周年平和記念式典の平和宣言に対し、ソ連のスターリングラード市副議長から渡辺広島市長に返書。「スターリングラード市民は世界の民主的諸力と協力して平和確立の第一線を進みたい」
1956/1/27
広島平和記念施設運営委員会が、5月開催予定の原子力平和利用博覧会の会場に平和記念館、原爆資料館を使用する計画を了承
1956/1/28
日本原水協の常任委員会が東京で開催。(1)ビキニ被災2周年の3月1日に米水爆実験阻止の国民大会中央集会を東京・豊島公会堂で開催(2)3月20日を原水爆禁止国会請願デーとする-ことを決める
1956/1/28
「原爆の子の像」建立のため、広島市内の公私立小中高校55校の代表約120人が幟町中に集まり、「平和をきずく児童生徒の会」を結成。「私たちは戦争の犠牲となった亡き児童、生徒の霊を心からとむらい、傷ついた友を慰めるために『原爆の子』の像を建て、再び戦争を繰り返すことのない平和な住みよい世界を打ちたてるべく、努力することを誓います」との宣言文を採択
1956/1/28
「ヒロシマに緑を」との広島市観光協会の呼びかけに、反応第1号として鳥取市からナシの苗木が届く。全国の観光協会からも寄贈申し込み相次ぐ
1956/1/30
広島市幟町中教諭の豊田清史氏が中国新聞に「『原爆の子』の像に思う」と題し寄稿。佐々木禎子さんへの哀悼と平和の像を作る意義を訴える
1956/1/31
鳩山首相が参院本会議で「軍備を持たない現行憲法には反対」と答弁。2月2日には取り消し釈明(「近代日本総合年表」「平和運動20年運動史年表」)
1956/1/--
米政府がセイロン、日本、タイ3国に対し、アジア初の原子力研究訓練センターの設置場所はフィリピンになると通告
1956/1/--
広島市内の原爆被災者有志が歴史写真集「広島アルバム」(B5判、70ページ)を刊行。広島の戦前、原爆、復興を写真200枚でたどる。原爆関係文献の収集家、山崎与三郎氏らが編さん
1956/1/--
四国電力が2月1日から社長室企画課に「原子力係」を新設、専門研究へ
1956/1/--
欧州石炭鉄鋼共同体の加盟6カ国の技術代表が原子力平和利用に関する統合機関として欧州原子力共同体(ユーラトム)設置案を決定。米は同案を強く支持。英などは「原子力を1国で自由に利用できず、すべて機関の統制を受ける」と批判的立場
1956/1/--
原子力船調査会(会長、山県昌夫東大教授)が第1回技術委員会。原子力船の設計着手を決定
1956/1/--
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」第10部「署名」が完成。原水爆禁止の署名をする農民や主婦らを描く。中国平和評議会から「北京で展覧会を」と招待状が届き、アムステルダム美術館に保管の3部作と日本にある7部作を合わせて展示へ
1956/1/--
立教大が米キリスト教団聖公会から寄贈申し出のあった実験用原子炉の受け入れ問題で、維持費の援助を正力松太郎国務相に要請。同相は「維持費を政府が負担して原子力研究所内に設置したい」と回答
1956/1/--
米ニューズ・ウィーク誌が1955年米出版界の「年間10大良書」のひとつに広島逓信病院の蜂谷道彦院長の「ヒロシマ日記」を推薦

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