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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 2月


1956/2/1
長崎市原爆障害者治療対策協議会(長崎原対協)が長崎大医学部と共同で第1回原爆被災者の総合診察を行い、2月25日までに5,920人が受診(「長崎年表」)
1956/2/1
原対協が広島市内6病院に依頼し、被爆者7,700人を対象にした精密検査を開始。初日は広島市民、広島赤十字、逓信の3病院で血液、尿検査、内科診察など
1956/2/1
米気象局が核爆発から生じる放射能灰の降下予想地点を全米に知らせる「放射能予報」を開始。原子兵器攻撃に備えて毎日2回予報。これまで国内主要70都市で実施していたのを全国に拡大
1956/2/1
ハンガリーのブダペストにある世界民主青年連盟本部から広島県青年連盟に「原爆被害者のため500ドル(18万円)を送金した」と手紙が届く。県青連の斎木貞暁会長が世界民青連大会(1955年7月、ワルシャワ)に出席、原爆の惨禍を訴えたことに反響
1956/2/3
重光葵外相が衆院外務委員会で米の原水爆実験に関して答弁。「政府は機会あるごとに実験中止を要請している。実験に際してはあらゆる予防措置を講じて他国の被害を防止するのは当然である」
1956/2/4
原爆症で死んだ清見義登君の母親から1,000円を添えた手紙が原水禁広島協議会に届く。「痛い痛いとベッドでもがいていた悲しい声が今でも耳を離れません。私たちのような不幸な人々が集まって、原爆禁止を叫び、平和の道を歩むことが、犠牲者たちへささげる最大の哀悼の念であると思います」
1956/2/4
1955年12月、米英仏ソ4大国と国連に水爆実験停止の要望書を送った原水禁広島協議会の森滝市郎事務局長に、米政府からの公式返書。「米は1945年以来、一貫して原子兵器が国際管理下に置かれることを提唱してきた。…米は原子エネルギーの平和利用を推進する国際体制を探求し、平和目的のため原子物質の世界的共有に貢献してきた」。実験禁止には触れず
1956/2/4
社会党が国会対策委員会で「原水爆実験禁止要望決議案」を衆院本会議に上程を決定
1956/2/4
日本原水協中国ブロック代表者会議が広島県教育会館で開催。労組関係者ら約60人が参加。ノーモア・ビキニ運動の強力な展開などを協議
1956/2/4
日教組第5次教育全国集会に招かれたインド大教職員総連合のセン書記長が原爆資料収集のため広島市を訪問。原爆慰霊碑の碑文について「繰り返しませぬではなく、繰り返させませんと叫ぶべきだ」と強調
1956/2/6
広島市社会課が同市中島町の戦災供養塔前で原爆犠牲者慰霊法要。被爆後に大竹市に逃げて死亡し、引き取り手のない遺骨9柱を新たに合祭
1956/2/6
米学士院‐学術会議原子力傷害委員会のウォーレン委員長(ハーバード大教授)ら4人が広島、長崎の現地調査のため来日。両市の原爆災害状況調査やABCCの研究視察へ
1956/2/6
東京・墨田区の広島被爆者招へい実行委員会に招かれた広島の被爆者4人が、同区内の「原水爆禁止、被災者救援のための懇談会」で被爆体験を話す。約1週間、区内17カ所の懇談会に出席。墨田区は1945年3月10日の大空襲で20万人の生命を失う
1956/2/6
原爆被害者連絡協議会世話人会の岡本嵯峨次代表ら5人が「原子力平和利用博覧会に原爆資料館を使用するのは反対。善処してほしい」と広島市に陳情。岡本代表「博覧会に反対するのではない。原爆資料の背後には20数万の犠牲者がいる。この貴重な資料を同時に見てこそ博覧会の意義が高まる。資料移転は解せない」
1956/2/8
米学士院‐学術会議原子力傷害委員会のウォーレン委員長ら4人が小林英三厚相、清瀬一郎文相に会い、「ABCCを通じて広島、長崎のその後の症状を調査し、日米両国が協力して今後の原子力平和利用に伴う障害の予防や衛生教育に貢献したい」と日本側の協力を懇請
1956/2/9
衆院本会議で自民、社会両党共同提案の「原水爆実験禁止要望決議案」を全会一致で可決。参院も10日、各派共同提案の決議案を可決
1956/2/9
米学士院‐学術会議原子力傷害委員会のウォーレン委員長ら4人が広島市入り。10日、ABCCで記者会見。「来日の目的は広島、長崎のABCCを視察、協議し、10年間の災害調査資料について研究するためだ。ABCCでの研究は将来、原子力が平和利用される際、非常に役立ち、世界人類のために貢献できるものと信じている」
1956/2/9
衆院の原水爆実験禁止要望決議について米政府当局が言明。「決議の意図は分かるが、米としては原子力の国際管理が実現するまでは実験は中止できない」
1956/2/10
電力9社が常務会議を開き、原子力発電に関し各社が25カ年の長期電力需給計画作成を決定
1956/2/11
国際ライオンズクラブ会長バレンズエラ氏(元チリ銀行頭取)が広島市を訪問
1956/2/11
欧州石炭鉄鋼共同体の加盟6カ国外相会議がベルギーのブリュッセルで開幕し、欧州原子力共同体(ユーラトム)設立計画を討議。1日目の会議後、議長のベルギー・スパーク外相が会見。「6カ国の外相は、各国が原子兵器を造る権利を留保すると言明した」
1956/2/12
英映画協会が映画「原爆の子」(新藤兼人監督)を1955年度世界最優秀映画の国連賞授賞作品に決定。「この映画が国連憲章の精神を十分表している」が授賞理由
1956/2/14
ブラジル・サンパウロ州の「勝ち組」のボラ青年会が「原爆障害者に」と3万8,400円を広島市社会課に寄託
1956/2/15
原水爆禁止広島市協議会の結成大会が広島市公会堂で開催。市、各団体代表約800人が参加。会長に渡辺市長、副会長に柴田重暉市議会議長、白井市郎商工会議所会頭を選出。宣言を発表。宣言「広島市民は原爆の恐ろしさを身をもって体験した。ビキニにおける水爆実験についで行われたソ連の実験、近くエニウェトク環礁で行わんとしている実験といい、今や全人類は脅威と危険にさらされている。原子兵器による恐怖の実相をよく知っているわれわれはこれが人類の自滅の危険をはらむものであることを警告するとともに、製造、実験、使用がすみやかに禁止されるよう国際協定を急ぐことを関係各国に強く要望する」
1956/2/15
広島、長崎、焼津の原水爆被害者の実態を描く記録映画「生きていてよかった」の亀井文夫監督らスタッフ3人が広島入り。16日、広島県佐伯郡大野町のチチヤス牧場で広島ロケを開始
1956/2/16
原子力委員会が調達庁(防衛施設庁)を通じて米側に横須賀市武山の返還を要請。「武山は原子力研究所の敷地として最も適しているから、実験用原子炉建設のため少なくとも20万坪を接収解除されたい」
1956/2/18
衆院外務委員会で外務省が衆参両院の原水爆実験禁止要望決議について説明。「決議は関係政府および国連事務総長に伝達したが、その際、決議に表明された日本国民の真剣な要求に深甚な考慮を払うよう申し入れた」。各国の反応は米・マーフィー国務次官代理「世界情勢から困難な問題だが慎重検討したい」。英ロイド外相「この要望はよく承知した」。ソ連ソボレフ大使「決議に共鳴する。ソ連政府はこれを歓迎する」
1956/2/18
ソ連のジューコフ国防相が共産党大会で「ソ連は各種の原水爆兵器のほか長距離ロケット弾を含む諸種のロケット弾を保有」と言明。大陸間長距離ロケット弾の製造で米に対抗しつつあることを初めて明らかに
1956/2/20
第2回ABCC日本側評議員会を開催。▽ABCCの名称変更▽日本側学者、医師に調査研究資料の利用便宜を図る-などを要望
1956/2/21
広島港に20日入港したフランス軍艦ラ・グラシューズの乗組員が原爆ドーム、慰霊碑、原爆資料館などを見学
1956/2/21
第5回全国軍事基地反対代表者会議が大阪市で開催。「オネストジョン発射中止を政府、米軍に打電」などの緊急決議
1956/2/23
米ニューヨーク市のマウント・サイナイ病院で治療中の原爆乙女25人に付き添う広島市の藤井正和、高橋定の両医師が広島を出発。ニューヨーク市長らにあてた渡辺広島市長らのメッセージを携える。29日、羽田を出発、3月5日に同病院へ到着
1956/2/25
東ドイツ・ファルケンゼー市のビント市長から渡辺広島市長に「平和宣言」受理の返事届く。「開会の市会で全議員は感銘深く宣言を聞き、平和への願いを再認識した」。ブランデンブルクなど東ドイツの他の3市議会からも同様メッセージ
1956/2/26
ストロース米政府原子力委員長がテレビインタビューで今春予定の水爆実験について述べる。「小型防衛兵器の実験に重点が置かれることになろう。この防衛的な原子兵器には、来襲する飛行機ロケット弾に対抗する兵器が含まれている」
1956/2/26
原爆被害者連絡協議会世話人会が22団体400人の応援で、広島駅前など広島市内6カ所で原水爆被害者救援署名と国民募金運動の協力を呼びかけ。映画「生きていてよかった」ロケ隊も撮影
1956/2/27
原子力平和利用調査会が日本のアイソトープ利用実態調査の中間報告をまとめ発表。1954年度使用実績は2万キュリーで対前年度60倍と急増。55年度は4万キュリーとさらに倍増予測。中国地方の使用は全国の4.8%、ほとんどが広島、岡山両大医学部の診断、研究用
1956/2/29
東京で開会のアジア・ユネスコ会議2日目の自然科学分科会で、ソ連提案の「原爆製造および実験禁止」決議案否決。日本代表も反対。ソ連代表団は離日前の3月7日会見。「日本が反対したのには驚いた」
1956/2/29
ソ連のグルブヤーコフ国連代表が国連信託統治理事会で、太平洋水域での米の水爆実験禁止を要請する決議案を提出。「住民の生命に脅威を与え、信託統治制度に関する国連憲章の条項に抵触する」。各国代表は討議を拒否
1956/2/29
広島市東西両保健所が死亡者実態調査の結果を発表。1955年1年間の死亡者は2,381人で、死因は「がん」が363人でトップ
1956/2/--
デンマーク・コペンハーゲン大学のブロンドシュテット教授がユネスコ季刊誌「インパクト・オブ・サイエンス・オン・ソサエティ」で警告。「実験胎生学は原子時代には重要な役割を持っており…この学問の成果を真剣に考慮すべき。ヒロシマ、ナガサキで被爆した婦人から生まれた児童の調査報告は恐るべき警告となっている」
1956/2/--
広島県安佐郡婦人連合会が郡内の原爆被害実態調査を集計。生存者1,913人、死亡者1,639人。生存者の2割の392人が白血球減少、貧血、肝臓病などの訴え
1956/2/--
ABCCアイソトープ研究室で貧血研究が進む。前年10月末、3種類のアイソトープを導入以来、12人を診断

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