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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 3月


1956/3/1
日本原水協主催の「ビキニ被災2周年記念原・水爆実験禁止の集い」が東京・豊島公会堂で開会。労組、文化団体など約1,300人が参加
1956/3/1
原水禁広島協議会主催の「ビキニ被災2周年記念水爆実験阻止広島集会」が広島県教育会館で開会し、約150人が参加。2日、米ソ英3国の大統領、首相に原水爆禁止要望書を集会名で送る
1956/3/1
国連信託統治理事会のゲーリグ米代表が、「米国は現段階では核爆発実験を行う必要がある。実験の際は信託統治領の住民の安全を期するため、できる限りの危険防止措置を取るつもりである」
1956/3/1
米政府原子力委員会が「4月20日以降8月末までに、マーシャル諸島ビキニ海域で核爆発実験を実施」と発表。付近海域37万5,000平方カイリ(約128万6,000平方キロ)を危険区域に設定し、船舶の航行禁止
1956/3/1
中国電力が調査課に「原子力係」新設
1956/3/1
日本原子力産業会議が発足。創立総会を東京・丸の内工業クラブで開き、会長に東京電力会長の菅礼之助氏(電気事業連合会長)を選任。原子力開発、利用の調査研究など事業計画を決定
1956/3/2
原爆記録映画「生きていてよかった」の広島ロケ終わる。亀井文夫監督らが出演者約20人と広島県教育会館で座談会。3日、長崎へ
1956/3/2
インドが米の水爆実験に関し、「国連信託統治地域内で米が実験を行う権利を持つかどうか」国際司法裁判所の裁定を要求する意向を国連事務局に通告。インドのメノン国連代表「統治領の破壊ないしその住民を危険に陥れるようなことを行う権利は統治国にはない」
1956/3/2
アジア・ユネスコ会議でソ連提案の原爆製造実験禁止決議案に日本代表が反対した問題で、社会、労農党が根本龍太郎官房長官に抗議。「国会で原水爆実験禁止要望決議を満場一致でしたのに、反対するとは何事」
1956/3/2
米の核実験実施発表に、外務省が見解。「実験は遺憾だが、東西両陣営の対立が続く現在の国際情勢からみてやむを得ない。日本としては米が危険防止と損害補償に万全の措置を取るよう改めて希望せざるを得ない」
1956/3/4
原爆被害者連絡協議会世話人会が広島市内5カ所で原水爆被害者救援の街頭署名と募金。2月26日の1回目と合わせ、募金8万2,962円、署名1万2,774人に
1956/3/4
広島子どもを守る会の3周年を記念し、精神養子レクリエーション会を広島県教育会館で開催。原爆孤児約50人や玉野市の子どもを守る会代表も参加
1956/3/5
政府が「日本原子力研究所法案」を衆院に提出
1956/3/6
アイゼンハワー米大統領がブルガーニン・ソ連首相の書簡(2月1日付)に答えて送った覚書(3月1日付)を、ホワイト・ハウスが発表。原水爆戦争の脅威を除去するよう訴えた内容。ブ首相はモスクワで「書簡は多くの検討を要するが、できるだけ早くこれに答える」
1956/3/6
日本原水協が緊急幹事会。米水爆実験阻止のため、鳩山首相にダレス米国務長官(18日来日)と実験禁止協議をするよう求める要望書の発送を決定
1956/3/6
放射能影響調査のため新設された国連科学委員会の初会議に出席する日本代表、都築正男東大名誉教授ら3人が羽田を出発。委員会は14~30日。都築名誉教授「広島、長崎、ビキニと3度、原水爆の被害を受けた日本には多くの貴重なデータがある。これを人類のために大いに役立てたい」
1956/3/7
山口県議会が「原水爆実験禁止に関する要望決議案」を満場一致で可決
1956/3/7
米のビキニ核実験について参院本会議で重光葵外相が答弁。「今後、原水爆実験にあらゆる予防措置と損害に対する補償を要求すべきだと思っている」
1956/3/7
ビキニ海域での米核実験で魚類汚染が予想されるため、厚生、農林、運輸各省が協議。実験後、フィリピン東方海域で魚類汚染調査を実施することに決定
1956/3/7
衆参両院の原水爆実験禁止要望決議について英政府が回答文。「英およびその同盟国が核兵器を所有することが、侵略と大規模戦争の発生を防止するため主要な要素であると考える。実験はこれら兵器の発達過程における不可欠の部分にほかならない。…今後の実験に際しては、人命、財産に対するいかなる被害をも回避するため、可能なあらゆる手段を講ずる」。10日に日本外務省が回答を発表
1956/3/8
英がオーストラリアのモンテベロ島で4月に核実験を行うと外務省へ通告。英原子力委員会は「この実験では水爆実験は行わない」と言明
1956/3/8
参院外務、農林、水産連合審査委員会が、米の予定する核実験について学者ら5人の参考人から意見を聴取。安井郁氏(法政大教授、日本原水協事務総長)「マーシャル諸島で行われる実験は国際法上、違法である。第1は実験が国連信託統治区域内で行われること、第2は公海の広範囲に危険を及ぼすこと、第3に実験が他国民の生活に深刻な影響を及ぼすこと」。田村幸策氏(中央大教授)「信託統治区域内での原水爆実験については、国際司法裁判所で結論を出すまでは一応、中止するのが妥当と思う。ただ国際政治の上から見て、現在、自由陣営の立場は原水爆保有が戦争を防止しているとの考えに立脚しているので、原水爆問題はこの見地からも考慮すべきだ」
1956/3/9
原子力委員会が原子力研究所の実験用原子炉の建設地を横須賀市武山に決定。敷地は米軍接収地で正式に返還交渉に入ることを決める
1956/3/12
原水爆禁止を要望したラッセル・アインシュタイン宣言(1955年7月9日)を支持する日本の科学者の集いが東京・学士会館で開会。湯川秀樹博士、茅誠司日本学術会議会長らが学士会員全員と学術会議第1、2、3期会員に呼び掛け、朝永振一郎博士ら10余人が出席。原水爆禁止を広く世界に訴えることを決定
1956/3/13
ラッセル・アインシュタイン宣言の署名者の1人でノーベル賞受賞の英原子物理学者、パウエル博士が来日。記者会見で「宣言をさらに発展させ、原子戦争が起こった場合の結果を調査し、その恐ろしさを世界に知らせたい」
1956/3/13
広島市議会が3月市会で、戦傷病者戦没者遺家族等援護法を被爆生存者にも適用するよう決議
1956/3/14
米の核実験に備え、原子力委員会が厚生省、水産庁、海上保安庁、気象台の担当官らを集め「原爆実験影響調査打合会」を開会。国内に及ぼす影響を総合的に調査し、実験直後に科学調査船を派遣する準備へ
1956/3/14
国連の放射能科学委員会が国連本部で初会合。日本など15カ国が参加。放射能の影響を遺伝、体内照射、大気汚染など7項目に分けて必要資料を集めることなどを決め、23日閉幕
1956/3/15
日本カツオ、マグロ漁業協同組合連合会と日本カツオ、マグロ漁業者協会が、米がビキニ海域で予定している核実験中止を米政府に要望を決定
1956/3/15
米国際協力局がフィリピンのマニラにアジア原子力センター設置発表。医学、農工業用の研究設備を備え、技術者、物理学者らを訓練へ
1956/3/16
ノーベル化学賞受賞の仏ラジウム研究所長、イレーヌ・キュリー女史がパリの病院で死去。58歳。ラジウム発見者キュリー夫人の長女。1934年、夫とともに人工放射能研究でノーベル賞を受賞。死因は長年の放射能研究による急性白血病
1956/3/16
原子力研究所の敷地として原子力委員会が決定した米軍接収地の横須賀市武山について、正力松太郎国務相が米軍との非公式交渉の経過を閣議で報告。米側は代替地および施設費を含め100万ドルの経費が必要との意向。改めて建設地を検討へ
1956/3/17
「科学の国際交流」と「研究機構に関する会議」が京大基礎物理学研究所で開かれ、原水爆の実験と使用禁止を要望する声明を決議。来日中の英物理学者パウエル博士や湯川秀樹博士ら約60人が水爆時代の科学者の立場など意見交換
1956/3/18
元極東軍事裁判の中国判事で中国政治法律学会理事の梅氏が人民日報に「国連信託統治地域での米の水爆実験は国際法違反」との論文を発表。「現在の国際法では公海における自由の原則が基本的ルールの1つになっており、いかなる国も国際水域を支配することは許されない」
1956/3/18
日本原水協の第1回全国総会が東京・神田の教育会館で開会、約200人が参加。太平洋地域における水爆実験の中止を米政府に訴える要望書を、来日したダレス米国務長官に提出することを決議
1956/3/18
原爆被害者広島県大会が広島市の千田小学校で代表約300人が参加して開会。原水爆禁止運動の推進、原爆被害者への国家補償などを討議。「原水爆実験より原爆症の治療法を確立することが先」との宣言を採択
1956/3/19
ビキニ海域での米核実験に関する日本政府の申し入れと国会の原水爆実験禁止要望決議に対し、米側が正式回答。核実験は「自由世界防衛のため中止できない」としたうえ、実験を行う場合は(1)危険区域設定による日本側の海洋活動に対する諸影響を日本とともに検討(2)放射能の基準、最大許容量、海洋生物に対する放射能の影響など情報交換を行う(3)実験後、日本が経済的損失を被ったという証拠が提出されれば、補償を考慮する-と約束
1956/3/20
日本原水協の原水爆禁止国会請願デー。広島、長崎両市の原爆被災者約50人らが国会の衆参両院で「太平洋地域での水爆実験禁止」「原爆被災者医療費の国庫負担」などを請願。21日には被災婦人20人が鳩山首相私邸で薫子夫人に「国家で治療と看護の道を講じて」と訴え
1956/3/21
ストロース米政府原子力委員長が「ソ連は数日前に新しい原爆実験を行った」と発表。英国防省も「ソ連は最近、原爆実験を行った」と発表
1956/3/21
京大工学部応用物理学教室が21日朝の雨から1リットル当たり毎分1万9,867カウントの放射能を検出。京都では1954年3月のビキニ水爆実験以来の最高値
1956/3/23
広島大理学部品川放射能研究室が、23日午後から夜にかけて広島地方に降った雨から1リットル当たり毎分9,520カウントの放射能を検出。ビキニ水爆実験以来、広島では最高
1956/3/24
渡米治療中の原爆乙女25人に家族の声を送るため、原対協がアメリカ文化センターで家族約30人の声を録音。渡辺広島市長も激励の言葉を吹き込み。4月20日渡米したABCC顧問の黒川巌氏に託す
1956/3/24
「ザ・ファミリ-・オブ・マン」写真展に出品中の長崎原爆被災写真5枚について、米側責任者スタイケンが撤去を申し入れ(「朝日新聞」)
1956/3/25
ビルマの中立系紙「ニュー・タイムス・オブ・バーマ」が社説で、「米国が太平洋の信託統治地域で行う核爆発実験は明らかに国連憲章に違反」と主張
1956/3/26
イタリア・ローマの国際美術協会画廊で丸木位里、俊夫妻の「原爆絵図展」が開催
1956/3/26
「原爆の子の像」建立運動を進める「平和をきずく児童生徒の会」が、会の新聞「平和」第1号を発行(「千羽鶴-原爆の子の像の記録」)
1956/3/27
政府の「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」(原爆協議会)の総括部会がビキニ海域での米核実験の対策を協議。調査船を派遣し、実験直後と魚類汚染ピーク時(実験後半年)の2回に分けて調査
1956/3/27
日本原子力研究所がノース・アメリカン航空会社と湯沸かし型原子炉購入の正式契約に調印を発表。1957年3月に試運転開始の予定
1956/3/27
原爆症で広島赤十字病院に入院中の森田省三さんが、慢性骨髄性白血病で死去。25歳。広島県内でこの年5人目の犠牲者
1956/3/27
米政府が「来月、エニウェトク環礁で原水爆実験を行う」と国連に正式通告。通告後、国連信託統治理事会特別請願委員会で、ソ連代表が信託統治領での原水爆実験禁止措置を直ちに講ずるよう要求。インド代表も「実験を中止できない理由は何もない」と反対
1956/3/29
故仁科芳雄博士の業績を記念し、原子物理学の優れた研究に贈る仁科記念賞の第1回受賞者に阪大の緒方惟一助教授、大阪市立大の西島和彦講師の2人が決定。緒方助教授は原子質量の精密測定、西島講師は素粒子研究に功績
1956/3/29
広島県安佐郡福祉協議会が「安佐郡原水爆対策協議会」の設置を決定。当面の活動として郡内の原爆被害者調査と原爆被害者大会の開催を決める
1956/3/29
広島県賀茂地区原爆被害者協議大会が広島県賀茂郡寺西町の真光寺で開催。(1)原爆障害者の治療促進と健康管理のため速やかに巡回診察の実施(2)診察、治療費を全額無料に-など決議
1956/3/29
広島市戦没者遺族大会が同市中央公民館で開催。遺族約1,000人が参列、代表が窮状を訴え。「遺族への公務扶助料、公務死の範囲拡大」などを決議
1956/3/29
国連信託統治理事会が太平洋での米原水爆実験を承認する決議案を賛成9、反対4(ソ連、インド、ビルマ、シリア)で可決。表決に先立ちインド、ビルマ代表らが決議案に強い不満の演説
1956/3/30
在日米大使館が映画「平和の哨兵」(11分)を公開。アイゼンハワー大統領が1955年7月のジュネーブ4国巨頭会談で提案した軍縮管理のための「空中査察」の方法を紹介。4月中旬から全国で一般公開へ
1956/3/31
ソ連が原子力潜水艦を完成。モスクワ放送でレーベデフ工学士が「原子炉を潜水艦に取り付けることも可能である。それは既にわが国でも完成された」
1956/3/--
大蔵省がビキニ水爆実験被災者が受けた慰謝料、補償金は非課税にする方針を決定
1956/3/--
広島を訪れる修学旅行生が、3月は中高校50団体、約7,500人、4、5月は70団体、約1万人の申し込み。交通公社広島案内所の調査結果で、中学の8割は近畿、高校の8割は関東
1956/3/--
日本学術会議原子力問題委員会が米核実験に関し、鳩山首相に申し入れ。「実験が行われた場合、被害防止に万全を期し、実験の影響を最小限にとどめるため、徹底的に科学調査を行うよう要望する」
1956/3/--
「核爆発実験による影響調査報告書」(日本学術会議放射能影響調査報告刊行委員会編)が日本学術振興会から発刊。ビキニ被災を機に国内の医科学界の権威者が調査研究した水爆実験の放射能影響や広島、長崎原爆の後障害など研究論文約200編を英文でまとめ収録

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