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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 4月


1956/4/1
ローマ法王ピオ十二世が原子兵器競争の中止を呼び掛け(「ヒロシマの記録」)
1956/4/1
米フォード自動車会社が創設する「原子力平和利用賞」の詳細を発表。平和利用に最も寄与した個人、団体を世界各国から選び、メダルと最高7万5,000ドルを贈る計画。第1回受賞者は1957年中に決定
1956/4/2
ストロース米政府原子力委員長が「ソ連は最近、新しい核爆発実験を行った」と発表。米がソ連核実験について発表したのは過去8カ月で6回目
1956/4/2
渡米治療中の原爆乙女25人に付き添っている広島の高橋定医師から渡辺広島市長に第1報の手紙。「治療は好調で70%方終わっている」
1956/4/2
米政府原子力委員会と国防総省が、5月にエニウェトク環礁で行う核実験に新聞記者、カメラマンの立ち会いを許可すると発表。同環礁での実験に記者が立ち会うのは1946年以来初めて。ネバダ実験では数回立ち会い
1956/4/3
湯川秀樹京大教授ら「世界平和アピール7人委員会」が米ソ英3国首脳に原水爆実験禁止を勧告。「人類の不安と世界の世論を無視して原水爆実験を強行することは全人類への挑戦である。実験を中止するとともに原水爆禁止の国際協定を作れ」
1956/4/3
ロンドンの国連軍縮小委員会で、スタッセン米代表が核実験の制限などを盛り込んだ新軍縮案を提出。既に提出されているソ連と英仏各軍縮案の折衷案。米が同委で原子力兵器の制限を提案したのは初めて
1956/4/3
米ニューヨークのノーマン・カズンズ氏から渡辺広島市長に手紙。「治療中の原爆乙女25人のうち3人は看護法などの研究のためアメリカに残る」
1956/4/3
英政府が「5月1日以降、オーストラリアのモンテベロ島で3回目の原爆実験を行う」と発表。島の周囲240キロ区域が航空機、船舶の航行禁止に。レディング国務相が西駐英大使に4日、通報。日本外務省は6日、内容を公表
1956/4/3
ビキニ水爆実験(1954年3月)の1年半後でも日本近海の黒潮水域に放射能が残留している-との調査結果を、気象研究所研究員の亀田和久氏が日本化学会(京都)で発表
1956/4/3
原子力研究所の敷地問題で、政府が横須賀市武山には設置しない方針を閣議決定
1956/4/4
日本原子力産業会議が東京・丸の内工業クラブで第2回理事会。全米原子力産業会議など諸外国の原子力6機関に加入を決める
1956/4/5
米政府原子力委員会が原子力発電研究を進めるため新型実験用原子炉を建造すると発表
1956/4/5
原爆犠牲者の霊を慰めるため元広島市立商業の同窓生で組織する「五・五会」が平和記念公園と平和大橋横の堤防に桜の苗木150本を植樹
1956/4/5
軍縮と原子兵器禁止問題を討議する世界平和評議会特別総会がストックホルムで開会
1956/4/6
インド赤十字社の戦時厚生官シーラー・コークバラ、ローション・ガスダー両女史が広島市を訪問。7日に広島赤十字病院など視察
1956/4/6
英ロンドンの平和主義者ルース・フライ女史から広島の植樹資金2,000円が渡辺広島市長に届く。米のアルフレッド・パーカー氏が提唱した広島に果樹を植える運動に共鳴
1956/4/6
「水産物に対する放射線の影響に関するシンポジウム」が東京学芸大付属小で関係者約200人が出席して開会。1954年のビキニ水爆実験による魚類の放射能汚染研究などを発表、討議
1956/4/6
原子力委員会が日本原子力研究所の敷地を茨城県東海村に決定。当初の横須賀市武山を放棄
1956/4/8
原爆被害者広島県大会実行委員会が代表者会議で(1)県内全地区を組織化した広島県原爆被害者連合会の結成大会を行う(2)被害者援護法の立法化促進-などを決議(4・10)
1956/4/8
「原爆の子の像」建設のため広島市内の児童、生徒が市内2カ所で街頭募金。初日は約20人が参加
1956/4/8
広島市比治山公園内の千本松広場で世界平和広島仏舎利塔の建設地鎮祭。フォンセイカ・セイロン大使ら関係者約500人が参列。地上7階、地下2階、最頂部に仏舎利奉安室。5月23日に熊谷組と工事契約
1956/4/9
義宮が4月3日、長崎国際文化会館を訪れた際、原爆被災者のケロイド模型3体が長崎県の指示で取り除かれたことに対し、モデルの山口仙二長崎原爆青年会会長が同会館に抗議(「長崎日日新聞」)。8月4日、長崎市原爆資料保存会が、はずされていた模型を陳列することを決定(「長崎日日新聞」)
1956/4/10
スウェーデンのストックホルム・ティドニンゲン紙文化部長グスタフ・レイストロム氏が広島市を訪問
1956/4/10
英がモンテベロ島で行う原爆実験に関し、レディング国務相が西駐英大使に覚書。実験で人命に危害を及ぼさないよう万全の予防措置を取ることを保証
1956/4/12
米政府原子力委員会のトーマス・マレー委員が上院外交特別小委員会で「米は大型の水爆実験を停止し、国際原子力協定の成立を待たずに貯蔵水爆数と大きさを自発的に制限するよう」提案
1956/4/13
広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が任意団体から財団法人に切り替わり、認可。名称も「広島原爆障害対策協議会」と改め、再発足(「広島原爆医療史」)
1956/4/14
第7回広島、長崎原爆都市青年協議会が広島市で開会。15日、広島赤十字病院講堂での本会議で「原水爆禁止は原爆被害1、2号地の青年から盛り上げる」ことを決議、閉幕
1956/4/14
戦争中、日系米人の権利訴訟を扱った米国自由人権協会のウイリン弁護士が広島市を訪問。原爆被害者が米を相手取って損害賠償請求の提訴を決めた問題について「非常に難しい問題だが、訴訟を起こすこと自体に意義がある」と語る
1956/4/14
外務省が衆院外務委員会で英原爆実験に関する英側の回答を発表。(1)実験はオーストラリア気象台と同政府安全委員会の両者の安全条件に関する意見が一致した場合だけ実施(2)災害防止にあらゆる努力を払うので補償問題は生じない
1956/4/15
原水禁広島協議会、広島中央魚市場商業協同組合主催の太平洋水爆実験阻止広島集会が広島市草津中央魚市場で開会。水産関係者約1,000人が参加。「今年に入り6人を原爆症で失ったわれわれ市民は再びこの悲惨事が起こることを阻止する。死のマグロはもうゴメン」と決議
1956/4/15
広島県の「三次地区原爆被害者の会」結成大会が三次市十日市小学校で開会、約120人が参加
1956/4/15
「原爆被災者の会」の初の集いが東京で開催。東京、群馬、神奈川の被災者、家族ら約100人が参加。原爆被災者の医療保護と対策の拡充などを申し合わせる。会は関東の被爆者が1955年4月に設立
1956/4/16
政府派遣で米の原子力平和利用状況を視察した建設省建築研究所部長の久田俊彦博士ら3人が帰国。滞米中、オークリッジ原子力研究所などを視察、原子炉建設に関する資料を収集
1956/4/17
日本原子力研究所が理事会で国産原子炉委員会と動力原子炉委員会の設置を決定。国産炉の設計、建設に踏み出す
1956/4/17
大日本水産会など水産漁業10団体主催の「原水爆実験反対国民大会」が東京・新橋駅前ステージで開かれる。13都県の漁業者や広島、長崎代表12人ら約700人が参加。米英の原水爆実験中止や禁止に向けた日本政府の強力措置を求める決議を採択。米英両大使館と国会に陳情(4・18、4・18夕、4・20)
1956/4/18
米英仏ソなど12カ国代表による「国際原子力機関」規約起草会議がワシントンで再開。規約草案に基本合意。構成国は23カ国で、広範な査察権を認める。草案は国連で25日発表
1956/4/18
在米ソ連大使館が米国務省に覚書を送り、マーシャル諸島の米核実験計画は国連憲章違反と抗議。「国連信託統治区域ならびに太平洋諸国の住民の生命と福祉を脅かす原水爆実験は、国連憲章第12章に述べられている国連信託統治制度の目的、原則と両立しない」
1956/4/19
ビキニ海域での米核実験の影響を調べる科学調査船に農林省水産講習所(下関市)の練習船俊鶻丸の使用が決定。5月26日、調査団21人を乗せ東京を出港
1956/4/20
米核実験のため、エニウェトク環礁を中心とする128万平方キロの危険水域が発効。8月末日まで4カ月余にわたり船舶航行を制限
1956/4/20
気象学会が中央気象台で開いた「原水爆実験と気象」の研究発表会で、新潟大理学部の小山誠太郎教授が「3月中旬に行われたソ連の核爆発実験は新型トリウム水爆ではないか」と放射能雨の分析結果を発表
1956/4/20
東宝の女優瑳峨三智子、大映の男優夏目俊二の2人が広島赤十字病院で原爆患者を見舞う。広島県庁落成記念で広島市を訪問
1956/4/21
インドネシア政府が水爆など核兵器実験禁止を世界に訴えることを決定。議会も提出された禁止決議案の支持を表明
1956/4/22
「原水爆禁止芸北協議会」結成大会が広島県山県郡中野村の中野中学校で開会。同郡八幡、雄鹿原、中野、美和4村と戸河内町松原の青年団、婦人会が参加
1956/4/22
8月6日を原爆犠牲者の追悼と自粛の日にするため、発起人有志8人が広島電通会館で初会合。木村隆氏を代表に選任。「追悼日の市条例制定」を広島市議会に申し入れることに
1956/4/23
英労働党系のレイノルズ・ニュース紙が社説で米の原水爆実験中止を要求。「水爆実験をやったからといって、冷戦の中での力の均衡が大きく崩れるわけではなく、逆にソ連に西欧側と同じ威力の水爆を爆発させる気を起こさせるのが関の山だ」
1956/4/25
総評が乱立、分散する平和運動を整理し、今後、各種平和団体のうち3団体のみを支援する方針を決定。憲法擁護国民連合、日本原水協、日中・日ソ国交回復国民会議の3団体。鎌倉・建長寺で開いた政治討論集会で明らかに
1956/4/26
日本学術会議のエネルギー小委員会が将来のエネルギー問題で「原子力発電は急がず」との結論を出し、同会議総会で報告。産業界の推進姿勢とは一線を画す
1956/4/27
米政府原子力委員会がビキニ海域で5月に行う水爆実験で、「放射能灰が危険区域から出ないよう厳戒措置をとる」と発表
1956/4/28
日本学術会議が、「核エネルギーの平和利用に関する声明」を発表。1954年4月の声明に次ぎ、改めて原水爆実験禁止と核エネルギー利用を平和目的に限る国際的取り決めの実現を世界の科学者に呼び掛け
1956/4/28
米ニューヨークの原爆乙女救済委員会から渡米できなかった原爆乙女に贈られてきた衣類130点を広島市が配分
1956/4/29
米ワシントン・ポスト紙が社説で、大量破壊をもたらす水爆実験を中止せよと論評
1956/4/30
米政府原子力委員会と国防総省がビキニ海域で開始する水爆実験に伴い「世界70カ所で放射能調査を行う」と発表。日本政府に広島、長崎、三沢を中心に行う調査結果の比較研究を申し入れ
1956/4/30
原子力3法が参院本会議で成立。日本原子力研究所法、核原料物質開発促進臨時措置法、原子燃料公社法
1956/4/--
山下義信参院議員(社会・広島)が提出したABCCの日米合同運営や原爆障害者治療などの質問書に、ABCCのホームズ所長が回答。(1)日米合同運営の提案はわれわれの現在の政策を確認するもの(2)治療活動の拡大はいかなるものでも米学士院、日本顧問審議会および日本医師会の承認を得ねばならず、われわれは日本で医療行為を行う免許を持っていないので定められた規則に従わねばならない-など
1956/4/--
米のニューヨーク、ボストン各近代美術館から丸木位里、俊夫妻に「原爆の図」の公開申し入れ。夫妻の知人、オランダの彫刻家ハーベルマン氏の音頭で世界一周展覧行脚を各国に呼び掛けた反応の一つ
1956/4/--
愛媛県教組が同県内の原爆被害者、被災児童の実態調査に乗り出す。19日現在の松山市内の被災児童28人。児童らの悩みを訴え、原水爆禁止運動を推進へ

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