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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 7月


1956/7/1
原水爆禁止広島大会実行委員会が同大会と世界大会の資金集めのため、広島市内6カ所で第1回街頭署名募金。青年、婦人団体、労組、学生ら約200人が参加。募金額は1万7,314円
1956/7/2
8月6日を前にカナダ・リジャイナ市のサスカチワン平和会議から渡辺広島市長のメッセージを要望する手紙が届く。「本年のヒロシマ・デーを記念し、今こそ平和の教訓を学びたい」
1956/7/2
瀬戸内海の小豆島大角鼻、安芸白石の両灯台の雨水放射能測定を実施した広島大理学部放射能研究室が、安芸白石の雨水から1リットル当たり毎分90カウントを検出。許容量22カウントを超えており、第六管区海上保安本部に警告。六管は再ろ過を指示
1956/7/3
日本各地の気象台、測候所が3日午前6時から同7時の間、異常微気圧振動を観測。発生は日本の南東約4,000キロ、時刻は午前3時(日本時間)と推定
1956/7/3
国連軍縮委員会が7カ月ぶりにニューヨークで軍縮討議を再開。ソ連のグロムイコ代表が「国連加盟国は国際問題の解決に武力を使わず、原水爆は使用しないことを宣誓する」との決議案を提出
1956/7/5
広島市が米から帰国した原爆乙女8人を招き、市社会館で渡辺市長を囲み座談会。乙女は「就職への協力と広島での治療」を要望
1956/7/5
広島戦災供養会が理事会で、慈仙寺鼻にある無縁塚の数体を戦災供養塔に納骨合祭を決める
1956/7/6
「世界」8月号に「原爆から起ちあがる人々-広島市の復旧事業につくした一商人の話」と題し、同市北榎町、久保辰雄氏の手記が掲載され、中国新聞社で感想を語る。「原爆で死んだ人の気持ちを忘れぬ広島商人の意気だけ分かってもらえば本望」。久保氏は原爆、枕崎台風被災後、広島県庁の委嘱で土のう用かます入手などに奔走
1956/7/6
米の原爆乙女援助委員会の日本側協力機関として「原爆障害者救援事業広島委員会」が結成され、平和記念館で初会合。渡米できなかった乙女の治療問題などを協議、事務所は原対協に設置
1956/7/7
広島市を訪問中の正力松太郎国務相が原爆乙女3人に会い、要望を聞く。乙女たちは涙ながらに原爆障害者の生活保障などを訴え
1956/7/7
広島市を訪れた正力松太郎国務相が原子力問題について記者会見。「広島市民が原子力に敏感であるのもよく分かる。広島を訪れたのも平和利用に理解を求めるためであり、広島、長崎に落ちた原爆のエネルギーも、平和利用に転換すれば台所の火も同じ」などと語る
1956/7/9
日本各地の気象台、測候所が9日午前6時から同7時の間、異常微気圧振動を観測。発生場所は日本の南東約4,000キロ、時刻は午前3時(日本時間)ごろ
1956/7/9
米のノーマン・カズンズ氏から渡辺広島市長に手紙。「原爆障害者の治療計画を協議するため9月上旬、バースキー博士ら3人が広島市を訪れる。市および原対協からも招請状を送ってほしい」
1956/7/10
原水爆禁止広島大会実行委員会が財政委員会を開き、同大会と広島県原爆被害者大会の募金目標を180万円にし、街頭、個別、特別、労組の4方法を決定
1956/7/10
広島の会社経営者らでつくる「広島清交会」が、帰国した原爆乙女8人を総会に招き、就職を斡旋。その後、4人の就職が決まる
1956/7/11
日本各地の気象台、測候所が11日午前6時から同7時の間、米水爆実験によるとみられる異常微気圧振動を観測。過去最大。この年6回目
1956/7/11
放浪の画家、山下清氏が原爆慰霊碑と原爆ドームを写生
1956/7/11
仏国民議会が欧州原子力共同体(ユーラトム)計画を賛成342、反対182で承認。共同体は欧州石炭鉄鋼共同体に加盟の仏、西ドイツなど6カ国が設立、加盟国は1961年まで原子兵器の生産に着手しない構想。モレ首相は「計画は仏の原子兵器研究を妨げるものではない」と言明
1956/7/12
国連軍縮委員会でインドのメノン代表が原水爆実験の即時禁止と軍備競争の中止を要請。「実験禁止が軍縮の近道」と強調
1956/7/12
原水爆禁止広島大会実行委員会が、原水爆禁止の国際協定や援護法制定など3項目の決議要請書を、広島県内の市町村、青年団、労組など500カ所に発送
1956/7/12
米政府当局者が「太平洋で8月後半まで続く。個々の水爆実験は発表しない」と言明
1956/7/13
国連軍縮委員会でワズワース米代表がインド・メノン代表の原水爆実験禁止提案に対し発言。「適当な安全保障の協定がない場合は、米と自由世界の安全のため核兵器実験を続けることが必要」
1956/7/13
広島市社会福祉協議会が、原水爆禁止広島大会と広島県原爆被害者大会の資金50万円を29地区で集めることを申し合わせ
1956/7/14
原子力委員会が原子燃料公社の監事に宮原幸三郎(元衆院議員)、村田八千穂(内閣賞勲部長)の両氏を内定
1956/7/14
8月6日に広島市で開かれる学生平和会議の実行委員会が、広島駅前など市内6カ所で原水爆実験反対署名と募金運動を開始
1956/7/16
核実験禁止・制限などを議題にした国連軍縮委員会が討議を終了、無期限休会に入る。東西間の衝突を避ける妥協案として、軍縮委に提出された各国案を一括して軍縮小委に付託する-とのペルー提出決議案を採択
1956/7/16
長崎市原爆障害者治療対策協議会が「被爆者白書」を発表。被爆者は5万6,466人、原爆障害者は3,896人(「長崎年表」)
1956/7/16
衆参両院の原水爆実験禁止要望決議の呼びかけに対し、ソ連最高会議が決議支持の声明を可決
1956/7/17
「原爆の子の像」を建てる運動を続ける「平和をきずく児童生徒の会」に、海外から援助資金第1号が届く。英ヨークシャー州の学生ジョフリー・ダービー氏が小遣いをためたクーポン2枚(約500円)。同会にはこれまで全国から約150万円の寄付金
1956/7/18
広島県安芸郡原爆被害者団体連合会の結成大会が矢野町公民館で被爆者ら約1,000人が参加して開会。同郡内の被爆者2,800人が入会。会長に桧垣益人氏を選任。(1)国家による被爆生存者の健康管理(2)原爆被害者の治療費の全額国庫負担(3)被害者への弔慰金と年金制度の制定-などを決議
1956/7/19
ストロース米政府原子力委員長がビキニ海域での水爆実験の成果を公表。「米は核爆発から起こる危険な放射性灰(死の灰)の降下範囲を極小化する手段を発見した」と発表。ソ連の原水爆実験禁止協定の提案に対抗し、放射性降灰の影響軽減を示すことで非難を和らげる狙い
1956/7/20
ユーゴのブリオニ島で会談したインドのネール首相、ユーゴのチトー、エジプトのナセル両大統領の3国首脳が共同声明を発表。「原水爆実験禁止と原水爆を含む軍縮」を求める
1956/7/20
渡辺広島市長が原爆乙女の治療計画などについて米のノーマン・カズンズ氏に手紙で伝える。「渡米治療の選にもれた18人の乙女は広島で手術する」
1956/7/21
原対協治療部会の医師20人が、米から帰国した原爆乙女9人を、帰国後初めて広島市民病院で総合診察。「いずれも大変よくなって帰ってきたことは事実。今後定期的に診察する」
1956/7/21
米の詩人ジョージ・シルベスター・ビアレック氏が広島原爆の惨禍を怒った長編詩「ザ・バンクラプト」(破産者)の和訳文と原文を原爆資料館に献納。広島逓信病院長、蜂谷道彦氏の「ヒロシマ日記」を読んでつづった詩で、広島女子短大の大原三八雄教授が和訳
1956/7/21
全国の気象台、測候所が21日午前6時すぎ、米核実験によるとみられる異常微気圧振動を観測。22日午前6時すぎにも観測
1956/7/21
原水爆禁止を願いながら56歳で死亡した広島市仁保町、藤原ミツノさんの被爆時の衣類、防空ずきん、眼鏡を原爆資料館に展示。遺志を継ぎ夫が寄付
1956/7/22
法政大広島県人会が原爆孤児の救済資金を集めるため、広島市公会堂で「軽音楽の集い」
1956/7/23
米海軍省が最初の原子力巡洋艦を発注
1956/7/23
米上下両院本会議が世界最初の原子力商船建造を決める法案を承認
1956/7/23
米国防総省と米政府原子力委員会が「本年の太平洋における一連の原水爆実験中、最後の実験が既に行われた」と実験終了を発表。実験回数は未公表だが、日本側は10回の異常微気圧振動を記録
1956/7/25
広島逓信病院長の蜂谷道彦氏に、著書「ヒロシマ日記」のドイツ版とイギリス版が届く。これで米、英、独、オランダ、イタリア版が出版
1956/7/27
原爆症で死亡した広島市幟町中学1年、佐々木禎子さんの同級生で作る「こけしの会」が追悼文集「こけし-星の一つに」を作り、同中学図書館で追悼出版会
1956/7/27
原対協が研究治療部会の第1回総会。本年中に一般1万人、小中学校1,000人の被爆者精密検査を実施し、必要者に治療を行うことを決定
1956/7/28
愛媛県内の原爆症患者13人が広島市民病院で精密検査を受ける。広島県外からの集団受診は初めて。愛媛県原爆被害者の会が資金カンパ
1956/7/28
原対協が実施した被爆乳児の臨床統計調査まとまる。被爆当時、乳児だった生存児7,192人と死亡児213人を対象に長崎の調査と比較。(1)外傷率は広島23.8%、長崎26.6%(2)熱傷率は広島5.3%、長崎14.6%(3)乳児の原爆症出現率は幼児に比べて多い-など。さらに胎内被爆児766人についても調査へ
1956/7/28
全労会議が定期大会最終日で、「平和団体や総評などが中心となる原水爆反対運動には参加しない」との本部原案を全会一致で可決
1956/7/29
広島県安佐郡原爆被害者の会の結成大会が佐東町の緑井公民館で開会。郡内各町村の被爆者約200人が参加。原水爆禁止運動の促進や原爆被害者の援護法制定-などを盛り込んだ決議を採択
1956/7/29
全学連の帰郷運動として、東大、一橋大の自治会広島支部が広島市の天満屋前で原水爆禁止署名運動と街頭募金
1956/7/29
仏教青年会中国地区大会が広島市で開かれ、原水爆禁止を決議
1956/7/31
原水爆禁止呉推進連盟が呉市中通など4カ所で原水爆禁止運動の街頭募金。8月1日も
1956/7/31
原爆症で広島市民病院に入院中の広島市仁保町、川野クマさんが死去。67歳。亜急性骨髄性白血病、症候性紫斑病。この年、10人目の犠牲者
1956/7/31
ビキニ米水爆実験で投下水爆が的を外れたとの極秘情報を漏らした容疑で、米空軍当局がエニウェトク環礁に勤務中の空軍兵ジャクソン・キルゴア容疑者を逮捕
1956/7/31
兵庫県教組但馬支部が長崎での第2回原水禁世界大会参加のため、同県生野から自転車行脚に出発。4日には広島入り
1956/7/--
米ゼネラル・エレクトリック会社の生化学専門家ベングルスドフ博士が、「原水爆の爆発が気象に影響を与えないと断ずるのは科学的に正当でない」と論じる。原水爆と気象の関係について全米科学アカデミー気象学特別委員会や世界気象機関が影響を否定したのと一線を画す
1956/7/--
日展審査員の円鍔勝三氏が制作していた広島市幟町、世界平和記念聖堂の正面玄関の彫刻がほぼ完成
1956/7/--
科学技術庁が原子力研究推進のため、米英仏など欧米6カ国に32人の留学生派遣を決める。米英両国へは原子力駐在調査員の派遣も
1956/7/--
広島県内の各地で「原爆被害者の会」の組織化が進む。広島市内で竹屋、広瀬、己斐の3学区と安芸、安佐の2郡で近く結成大会。14日現在、広島県被団協の加盟団体は市内8団体4,000人を含め、県内で17団体6,330人
1956/7/--
原爆ドキュメント映画「生きていてよかった」が8月11日から2週間、広島市の福屋名画劇場で上映へ。全国主要映画館での上映を各配給会社に断られ、原水禁広島協議会が独自に同劇場と交渉。純利益の1割は同協議会に寄付

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