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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 8月


1956/8/1
広島市東観音町の南正坊が市社会課に「原爆犠牲者の遺骨1箱分を平和記念公園の戦災供養塔に合祭してほしい」と申し出。5日に合祭
1956/8/1
第9回日本カトリック学生連盟全国大会が広島市で開会。各地の大学生、高校生約400人が参加。最終日の4日、「原水爆禁止と原子力の平和利用を世界の人々に呼びかけ、同時に祈りの活動を行う」と声明
1956/8/1
広島平和問題談話会、平和と学問を守る大学人の会などが主催し、第4回平和問題講座が広島市中央公民館で開会。3日まで
1956/8/1
被爆者の吉川清氏ら有志で作る原爆資料出版会が「広島は訴える-原爆広島11年の記録」を発刊(「奥付」)
1956/8/2
東京・品川区の志賀如真氏が、原爆犠牲者の慰霊に書き上げた血書「慰霊菩提」を広島市に寄贈
1956/8/3
第2回原水禁世界大会の実行委員会に、世界各国の要人から次々メッセージ。3日までにノーベル賞受賞者バートランド・ラッセル氏ら約20通
1956/8/4
第2回原水禁世界大会に出席する中国代表団5人が来日。代表の中華全国民主婦女連合会副主席の許広平女史(魯迅未亡人)が「原爆被災者の救援金5万元(約750万円)を持ってきた」と語る
1956/8/4
原爆犠牲者のめい福を祈り、新制作派会員の角浩画伯が広島県庁に100号の大作「ねはんの図」を寄贈
1956/8/4
生長の家青年会が広島市中央公民館で「平和祈願見真会」を開く。市内行進の後、原爆慰霊碑に参拝
1956/8/4
第2回平和美術展が平和記念館で開催、7日まで
1956/8/4
広島県安佐郡町村長会が、原爆犠牲者救援資金を1世帯当たり最低5円集めることを決める
1956/8/4
インドがボンベイ近郊のトロンベイに自力で建設した実験用原子炉1基が操業を開始。アジアでの原子炉運転は初めて
1956/8/5
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦連)の原爆被災者調査の中間報告がまとまる。広島県内の被爆者4万7,461人のうち三分の一強の1万5,690人が死亡
1956/8/5
広島陸軍病院原爆慰霊碑の入魂式が広島市基町の病院跡地で営まれる。病院関係犠牲者800人と患者犠牲者2,000人の霊を祭る
1956/8/5
英ロンドンの高校教師パレーシ氏から広島の被爆者、日詰忍さんに「原爆の子の像」建設のため「2,625円を集めた。建設資金の一部に充ててほしい」と手紙
1956/8/5
カトリック教会広島布教本部の原爆犠牲者慰霊・世界平和祈願式が原爆慰霊碑前を中心に行われ、市内をちょうちん行列
1956/8/5
「8・6学生平和会議」が広島市児童文化会館で開会、7日まで。第2回原水禁世界大会の成功を目指し、今後の学生平和運動の方向を探る目的。地元や全国80大学、高校から約500人が参加。大国間の軍縮協定や原水爆禁止協定の即時締結についての国連要請など8項目を決議。「世界の平和運動は学生が基盤になるべき」との大会宣言を発表
1956/8/6
渡辺広島市長の平和宣言「凄惨を極めたあの運命の日の体験に基づいて、『広島の悲劇をくりかえすな』と叫びつづけてきたわれわれの声に応じ、今日漸く世界各地より共鳴と激励が数多く寄せられ、原水爆禁止運動は次第に力強い支持を得ており、ひいては、永く十分な医療も受け得ず相次いで斃れて行きつつあった被爆生存者に対する救援も漸次軌道に乗りつつあることは、われわれに新たな勇気を与えるものである。しかしながら原子力の解放が一方に於て人類に無限に豊かな生活を約束する半面、その恐るべき破壊力は人類の存続を根本からおびやかしている。人間が自滅の道を捨て、繁栄の道につくことを決断するには、なお真に平和を認識し、これを追求する者の絶大な努力を要するであろう。われわれはこの重大な決意のなされる日まで、われわれの体験の教える所をくりかえし宣べ伝え、自らも世界平和樹立の礎石となることを誓うものである」
1956/8/6
広島戦災供養会が主催し、戦災供養塔で各宗派合同慰霊祭
1956/8/6
被爆11周年。原爆死没者慰霊式・平和記念式。市民ら約2万人が参列。新たに680人の原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に追加奉納、名簿総数は5万9,708人に。渡辺広島市長が平和宣言、鳩山首相のメッセージ(代読)
1956/8/6
死の床から鳩山首相に原爆症の恐ろしさと原水爆禁止を書きつづった広島県安佐郡祇園町の故八坂秀雄氏の遺書が、原水禁東京大会で発表。7月29日の同郡原爆被害者の会結成大会でも公表
1956/8/6
「原爆の子の像」建設のきっかけになった佐々木禎子さんの遺族が、原爆慰霊碑に千羽づるをささげる。広島赤十字病院で禎子さんと励ましあっていた大倉記代さん(国泰寺中3年)が折ったつる
1956/8/6
大竹市原爆被災者同志会(日野義隆会長)が原爆被災者大会。「被災者の完全治療、遺族への年金即時支給」を決議。大竹市では軍命令で建物疎開に徴用された約1,000人が被爆
1956/8/6
広島市幟町の世界平和記念聖堂で、平和祈願の原爆犠牲者追悼ミサ
1956/8/6
爆心の広島市中島本町の被爆生存旧町民が平和記念公園に建立した「平和観音像」の開眼除幕式
1956/8/6
米ロサンゼルス・タイムス紙が8月6日付で「広島の原爆と復興」の1ページ特集を掲載
1956/8/6
日本向けモスクワ放送が被爆11周年に当たり「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題したクルジューモフ解説委員の解説を放送
1956/8/6
平和記念式典に参列したインドの世界宗教団会長スワミ・バリブラジャック氏が、渡辺広島市長に平和の旗と平和メッセージを渡す
1956/8/6
広島市が被爆当時、救援や防災、応急復旧に功績のあった113人を市長表彰
1956/8/6
運輸省が原子力船建造とアイソトープ活用構想を原子力委員会と科学技術庁原子力局に説明。原子力船を1966年度までに2隻建造目指す
1956/8/6
原水爆禁止東京大会が東京・両国の国際スタジアムで開会。国内外代表約3万人が参加。広島、長崎の被爆者代表が2度と悲劇を繰り返さぬよう訴え、東京アピールを採択
1956/8/6
原水爆禁止広島大会が広島市公会堂で開会。同県内の団体代表や県外者約2,000人が参加。(1)原水爆禁止と世界の軍縮(2)被害の実相と被害者救援(3)原子力の平和利用-の3議題を討議。「われわれ広島市民は全世界と手をつなぎ、原子力兵器の禁止、軍備の縮小を実現し、世界の恒久平和を達成する日まで原水爆禁止運動を続ける」との決議文を発表
1956/8/7
広島県原爆被害者大会が広島市公会堂で開会。約500人が参加。「私たちは今こそ、勇気と確信をもって、皆さんの歩みの先頭に立って生きていける自信をもちました」と大会宣言。(1)原水爆禁止の国際協定締結(2)被害者援護法の制定促進(3)根本治療法の確立(4)被害者救援のための生活実態調査-などを決議
1956/8/7
キリスト教伝道のため来日中のラクーア音楽伝道団一行7人が、原爆慰霊碑前で賛美歌を演奏。犠牲者のめい福を祈る
1956/8/7
広島大の今堀誠二教授が中国新聞の「中国論壇」に「私たちは歴史を作っている」と題した一文を掲載。「一見、無力と見える日本の民衆が、恒久平和の実現という世界歴史の1ページを飾る大事業に向かって、一致協力して前進する日は間近に迫っている」
1956/8/7
被爆11周年にあたり海外から渡辺広島市長に3通のメッセージ。米ニューヨークのカトリック・ワーカー副主事アモン・ヘナシイ氏、東ドイツ・ドレスデン物理学研究所長マンフレッド・アルデネ博士、オーストラリアのケーゼ・ハーゲン夫妻。アルデネ博士「原水爆が軍事目的に使用されることは絶対反対であり、原水爆禁止世界大会が大きな成果を上げるよう念願する」
1956/8/8
東京都の墨田区議会から広島市に「原爆被災者のため募金30万円を届ける」と手紙
1956/8/9
長崎で開かれた第2回原水爆禁止世界大会で、1954年の米ビキニ水爆実験によってマーシャル諸島住民267人が大量の放射能を浴びている状況が発表される(「反原爆のたたかい-広島原水爆禁止運動小史」)
1956/8/9
社会党が政策審議会で、原爆被災者の治療費、生活費を国庫負担とする法案を議員立法で臨時国会に提出する方針を決定。広島、長崎の被爆者およびビキニ原水爆実験の被災者が対象
1956/8/9
原爆症で広島赤十字病院に入院中の林恵美子さんが死去。14歳。急性骨髄性白血病。広島市古江で黒い雨に遭う。この年10人目の犠牲者
1956/8/9
第2回原水爆禁止世界大会が長崎市で開会。主会場の長崎東高校体育館に世界12カ国代表37人はじめ約3,000人が参加。11日まで。(1)原水爆実験禁止協定を米英ソ3国に要求(2)世界軍縮会議の開催(3)原子力平和利用の拡充努力(4)原爆被災者援護の立法化-など11項目を決議 1956/8/9
長崎被爆11周年。爆心地・浦上の平和祈念像前広場で約1万人が参列し、原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。田川市長の平和宣言。「われら市民は、ここに素志を新たにして愛と倫理に基づく世界秩序の確立、和解と信頼による恒久平和の実現に直進することを改めて誓い、人類の英知と勇気と正義に訴えるものである」
1956/8/10
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が発足。長崎市国際文化会館に全国800人の被爆者が参加。代表委員5人を選出、事務局を広島に置き、事務局長に藤居平一氏。「原水爆被災の体験を通じて人類の危機を救おう」と宣言。「原水爆被害者援護法と被爆者健康管理制度の実現を目指す」との決議を採択
1956/8/10
広島市青年連合会と長崎市青年団連絡協議会が、長崎市で開かれた原水禁世界大会の分科会で「広島、長崎原爆都市青年協議会」の発展的解消を発表。1948年から交歓会を開き、両都市の復興、被爆者対策、原水禁運動を続けてきたが、「当面の課題が全国規模で展開されるに至った」と協議会を解消
1956/8/10
米政府が米政府原子力委員会の調査資料に基づく放射性降灰についての報告書(1951~55年)を国連科学委員会に提出。「5年間に原水爆実験で生じた降灰による大気中のガンマ線増加は3%程度に過ぎず、大気中に含まれたストロンチウム90も人体に影響ない程度」と述べる
1956/8/10
原子燃料公社が正式発足。核原料物質の開発および核燃料物質の管理を行う
1956/8/10
茨城県東海村で日本原子力研究所の起工式
1956/8/11
ビキニ米水爆実験で死の灰を浴びた第五福竜丸が、東京水産大の実習船はやぶさ丸として生まれ変わり、同大の構内岸壁で披露。13日に初航海に出発
1956/8/13
米政府原子力委員会のリビー委員が米化学協会カリフォルニア支部で演説。「米が現在貯蔵しているプルトニウムは、今のところ原子兵器以外に役立たないことが判明した」と平和利用への転用が無理なことを指摘
1956/8/14
原水禁世界大会に参加した外国代表が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を視察。ソ連の作家ソフローノフ氏ら11カ国31人。チェコスロバキア代表フルベリバ女史「原爆は人間が犯した史上最大の罪悪」、ソフローノフ氏「全世界の人々はこの広島を見たとき、原水爆禁止の必要性を痛感するだろう」 1956/8/16
広島市寺町で被爆した元広島医専教授の北村直次博士(岡山県衛生研究所長)が自らの体験を「原爆日記」にまとめ、中国新聞に掲載
1956/8/18
欧州3カ国から市民への激励メッセージ4通が広島市に届く。オーストリア・ウィーン市平和会議、東ドイツ・ラオタベルグ市化学工業職域平和会議、同国ベースコフ市地区平和会議、仏サンドニ市平和会議。ウィーン市平和会議「原水爆禁止に向け手を取り合って進もう」
1956/8/18
米政府公衆保健当局者が「太平洋地域で7月中に行われた水爆実験の放射性物質が、過去1週間にわたり米西部沿岸から東部に降下した」と汚染を認める
1956/8/20
英領植民地のモーリシャス島ポートルイス市のイスラエル・ダーダ氏から「原水爆関係の展覧会を開きたいので、資料を送ってほしい」と広島市に手紙
1956/8/20
原爆被害者援護法の制定推進協議会が広島市の平和記念館で開かれ、市、原対協、原水禁広島協議会などの代表15人が出席。山下義信参院議員(社会党)が同党の原爆症患者援護法案の要綱を発表。「原爆症は国の責任で行われた戦争の犠牲であり、治療も国の責任で行われるべき」として、(1)原爆症患者の治療はすべて国庫負担(2)国の全額負担で被爆者の健康管理-など。超党派で実現に努力することを申し合わせ
1956/8/21
原子力委員会が臨時委員会で1957年度原子力平和利用関係予算要求額を119億6,750万6,000円と内定。56年度36億円の約3倍
1956/8/24
中国電通局が西ドイツ郵政省に、原爆で全滅した広島市の電話復旧状況の資料を発送。西ドイツ側の要請にこたえる
1956/8/25
第3回中国ブロック「母と女教師の集い」(広島市公会堂)で、「生活を破壊する原水爆実験禁止の運動を進めよう」と申し合わせ
1956/8/26
アイゼンハワー米大統領が「ソ連は24日、シベリア南西部で核兵器実験を行った」と発表。ソ連実験に関する13回目の発表で、大統領自身の発表は初めて
1956/8/27
米の生態学者ウルフ博士が全米生物科学者協会の特別会議で演説。放射性ストロンチウム90の影響について、米政府原子力委員会の見解に反論。「原子力委は最近発表した半年間報告の中で、現在程度の核兵器実験ならストロンチウム90が全世界の生物に重要な影響を及ぼすとは思わない、と述べているが、生態学者としてこのような見解に反対する。結論は不当に楽観的である」
1956/8/29
社会党が中央執行委員会で、原爆被害者援護法立法化のため、党内に特別委員会設置を決定
1956/8/30
原対協が承認治療患者1,535人のうち、未治療の750人について、治療促進のため調査を開始
1956/8/31
アイゼンハワー米大統領が「ソ連は30日、シベリア南西部で新たな核爆発実験を行った」と発表
1956/8/31
タス通信がソ連の一連の核兵器実験を確認するとともに、ソ連政府の声明を発表。「米英が今年、核実験を行ったことは周知の通り。ソ連政府はこの種の事情を考慮して、核兵器の実験に努力せざるを得ない」
1956/8/--
被爆後、空前の災害に対処した広島県庁の公務記録「広島県戦災記録」の所在が明らかに。学童ノート2冊に鉛筆で被災報告や救援活動などを記録。筆者の1人、元広島市千田小学校長、横田健一氏が保存
1956/8/--
広島県被団協が、原爆犠牲者の子弟に奨学金を優先支給するよう日本育英会に働きかけへ
1956/8/--
原爆投下の3カ月前、広島市上空で米軍がまいたビラ3枚を原爆資料館に陳列。市民が宇品町で拾う。ビラは日本軍部の独裁を強調、国民の反戦思想を喚起
1956/8/--
日本原水協が原爆ドキュメント映画「生きていてよかった」に主題歌を吹き込むことを決め、作詞・阿部静子さん(広島県安芸郡東海田町)、作曲・村中好穂氏(広島合唱団指揮者)の「被害者の願い」が選ばれる

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