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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 10月


1956/10/1
渡米治療中の原爆乙女13人が退院。8日、ハリマン・ニューヨーク州知事を訪れ、謝辞を述べる。10日にはワグナー・ニューヨーク市長が乙女を市公会堂に招き、全快祝いの言葉を贈る
1956/10/1
日本被団協の理事会などに出席した藤居平一事務局長が広島に帰り、語る。「全国社会福祉協議会が決める原爆被害者援護法案を日本被団協の正式案とする」
1956/10/2
原爆災害調査研究班会議に出席した塩田広重委員長(日本医大学長)ら一行17人が、広島原爆病院で米から帰国した原爆乙女6人と面会。治療経過などを聞く
1956/10/2
第9回原爆災害調査研究班会議が呉市広町の広島大医学部付属病院で開会。塩田広重委員長(日本医大学長)や都築正男、中泉正徳、河石九二夫氏ら原爆医学関係者約50人が参加。後障害研究などを発表
1956/10/2
広島県議会が「原爆被災者援護立法の促進」を決議。「広島は被爆11年後の今日なお、ケロイドや原爆症になやまされ、生活にあえぎながら死の恐怖と戦い続けている…政府は、原爆被災者に対して、積極的援護の手段を講じ、治療費の全額国庫負担と生活援護を目的とした原爆被災者の総合的援護立法を早急に制定し、人類史上最初の犠牲者を国の力において救護されんことを要望する」(「1956年広島県議会9月定例会会議録」)
1956/10/3
英労働党大会が原水爆禁止など3決議案を満場一致で採択
1956/10/5
原水爆禁止賀茂地区協議会の結成総会が広島県賀茂郡西条町で開かれ、約50人が参加。「平和を願う世界のすべての国民が結集して原水爆禁止の一大国民運動を展開する」との宣言を決議。(1)政府が原水爆実験禁止と国際協定を速やかに締結(2)原爆犠牲者の国家補償確立-などの実現を要望
1956/10/5
アイゼンハワー米大統領が原水爆実験に関する米政府の政策について特別声明を発表。「核兵器実験は米国の防衛計画の欠くべからざる一部」。大統領選挙で核実験などが政争になったため政策を明確化
1956/10/6
原水禁広島協議会が総会で、今後の運動方針を決める。(1)原水禁運動の推進(2)町村ごとの運動団体設置(3)県内外に被爆者を派遣して実相を訴える(4)他の平和運動との連携-など
1956/10/6
「広島子どもを守る会」青年部の原爆乙女、山田綾子さん(20歳)が、日本青年団協議会の国際交歓海外派遣代表として渡米するため広島を出発
1956/10/8
ビルマ・ラングーン市のウー・モン・モン市長やビルマ日日新聞のウー・キント主筆ら一行4人が広島市を訪問。9日、原爆慰霊碑に参拝
1956/10/8
広島市が発送した平和宣言に、米ケンブリッジ市のベル・モンタギュー女史から返書。「原爆投下を私の国の指導者が行ったことを非常に恥ずかしく思います。…米国の費用負担による原爆症患者の治療を要望する米市民の強い声があることを、ぜひ広島の人々に伝えて下さい」
1956/10/8
原水爆禁止全国市議会議長大会が小倉市体育館で開会。全国172市議会議長ら約450人が参加。広島、長崎の被爆者4人が被害者援護を訴え(10・10夕、「広島新史・歴史編」)
1956/10/9
原爆死没者の慰霊に広島で初の薪能が原爆慰霊碑前広場で開催。広島喜多会が「羽衣」など披露 1956/10/9
福山保健所が、広島県東部地区の被爆者のため、15日から毎月3回、同保健所で無料精密検診を決める
1956/10/9
米ニューヨークで開会中の国際原子力機関設立総会の規約審議委員会が、中国を加盟させるソ連提案を否決
1956/10/10
「平和をきずく児童生徒の会」の第5回総会が広島市幟町中学校で開かれ、「原爆の子の像」の制作者に東京芸大教授の菊池一雄氏(新制作)を決める
1956/10/10
広島大で開かれた日本水産学会秋季大会2日目、ビキニ近海で放射能汚染調査をした国立予防衛生研究所の河端俊治氏らが研究発表。太平洋のメバチから半減期の長い放射性物質が検出され、1954年3月のビキニ水爆実験の放射能が残存と推定。東大の森高次郎教授らも北赤道海域のカツオからストロンチウム40などの放射性物質を微量検出
1956/10/11
放射能雨などを重視し、原子力委員会が定例会議で、常時測定態勢を整える必要性を申し合わせ
1956/10/11
社会党が中央執行委員会で、アイゼンハワー米大統領、イーデン英首相、ブルガーニン・ソ連首相の3国首脳に原水爆実験禁止の書簡を送ることを決める
1956/10/11
オーストラリアのビール供給相が「11日午後3時半、英がオーストラリア・マラリンガで行っている一連の核爆発実験中、3回目の実験を空中で行った」と発表。英としては初の空中投下実験
1956/10/12
広島に果樹植樹運動を提唱している米オークランド市のアルフレッド・パーカー氏から、果樹資金35ドル(1万2,600円)が渡辺市長に届く
1956/10/15
広島市が送った平和宣言に、米コネティカット州のヘレン・ケラー女史やラクソン・マニラ市長ら4人から返書。ケラー女史「平和宣言には心から共鳴し、全く同感です。広島市民ならびに貴下に深い敬意をささげます」
1956/10/16
原爆乙女の治療に当たったマウント・サイナイ病院副院長ウィリアム・ヒッチグ博士から中国新聞社に手紙。「広島の若い美しい娘さんたちほど米国民に感銘を与えたものはない」
1956/10/17
英の本格的な原子力発電所、コールダーホール発電所が開所式。工費165億円。日本から石川一郎原子力委員らが出席。ソ連に次いで2番目の原子力発電所
1956/10/17
ソ連のソボレフ国連代表が国連本部で記者会見。「核爆発実験即時禁止について、米英両国を含む他の大国と今すぐ協定を結ぶ用意がある」
1956/10/20
日本母親大会準備会が、国連総会にビキニ米水爆実験の被害者、故久保山愛吉氏の夫人すずさんの派遣を決定(その後、ビザが発給されず、渡米は中止)
1956/10/20
倉敷市の三吉鉱山で、日本初のウラン採鉱試掘の開発式
1956/10/21
オーストラリア・マラリンガ砂漠での英原爆実験が、4回目の爆発で実験終了
1956/10/21
原爆症で亡くなった広島市幟町中1年、佐々木禎子さんの1周忌法要が同市寺町、真光寺で営まれる。同級生の「こけしの会」や「平和をきずく児童生徒の会」、同中生徒ら約50人が参列
1956/10/21
ウラン採鉱に向け倉吉市小鴨鉱山で開発坑道開坑式。正力松太郎国務相が爆破スイッチ
1956/10/22
欧米原子力産業視察団に加わった長尾節造中国電力副社長から初の便り。米国内の原子力発電の現状について「近い将来訪れる原子力利用という産業革命に備えた具体的な実験時代だと言えよう」
1956/10/22
核兵器実験禁止を要望したブルガーニン・ソ連首相の書簡に対するアイゼンハワー米大統領の返書が、在ソ米大使館を通じてシェピーロフ・ソ連外相に手渡される
1956/10/22
広島市が平和記念館で「原爆障害者援護法制定に関する研究協議会」を開会。市、市議会、県関係者と山下義信参院議員(社会)らが出席し、具体案を検討。11月に広島、長崎両市長、市議会議長が国会などへ法成立を陳情することを決定
1956/10/23
原爆症の広島市荒神町、絹川春子氏が県立広島病院で死去。46歳。白血球増加などの症状。この年20人目の犠牲者
1956/10/23
米ニューヨークの国連本部で開かれている国際原子力機関の設立総会が、23カ条の同機関規約草案を全会一致で採択。26日、82カ国が出席して規約の調印式。日本政府も同日、加盟を正式決定
1956/10/23
アイゼンハワー米大統領が「原子兵器および軍縮に関する特別報告」を発表。「米は信頼できる国際的管理組織ができるまで、水爆実験を中止できない」
1956/10/24
米科学者連盟が声明を発表。「完全な国際査察管理協定の成立を待たず、直ちに水爆実験を禁止する国際協定を締結せよ」(「ヒロシマの記録」)
1956/10/24
原子力委員会がストロース米政府原子力委員長から、「原子力の非軍事利用に関する協力のための協定」(日米動力炉協定)草案を受理。要旨は(1)日本は燃料の操作記録を作成し、米国に報告する(2)日本は非軍事利用以外の目的に炉および燃料を使用しない-など
1956/10/25
全国赤十字病院長連盟の一行25人が広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1956/10/25
スイス・ツールーズ市のルイ・レガメイ氏から、原爆投下の日に誕生した広島の女児の成長を祝福し、平和の祈りをこめた自作曲の楽譜が、外務省に届く
1956/10/26
アイゼンハワー米大統領が、発足した国際原子力機関に対し「米はウラニウム235の5,000キロ提供を公約する」と発表
1956/10/26
原対協が研究協議会を開き、原爆障害者援護法の制定に伴う問題点を協議。法の対象被爆者の定義について(1)爆心から4キロ以内の被爆者(2)被爆日から30日以内に同区域内に入った者(3)原爆傷害者の判定は原対協治療専門部会の医師が行う-などを決める
1956/10/27
原子燃料公社と通産省地質調査所が鳥取県・小鴨鉱山と地続きの新しいウラン鉱床を岡山県側で発見。広範囲な鉱床と確認
1956/10/28
広島県被団協が常任委員会で、吉川清氏、日詰忍さんなど新理事10人を選任
1956/10/30
インド・ボンベイで開かれるアジア社会党会議第2回大会に出席する日本社会党一行が羽田を出発。「原子兵器の禁止に関する決議」などを提出へ
1956/10/--
広島原爆病院の受診者が、診療開始の9月20日から10日間で301人にのぼる。1日平均30人。うち1割強の37人が白血球4,000以下、赤血球300万以下の要治療者。外来入院者も出る
1956/10/--
広島市が広島県市長会(15日)に原爆障害者援護法の立法化支持を要請へ。骨子は(1)治療費の全額国庫負担(2)国家による被爆者健康管理-など4項目
1956/10/--
リオデジャネイロ国立大教授で臨床遺伝部長アントニオ・カバルカンテ博士が「原爆に見舞われた地方の日本人を移民として受け入れることは、放射能と人類遺伝の見地からブラジルにとって危険である。日本移民は入国を禁止すべき」と発言。元大統領秘書ロベルト・アルベス氏は「放射能問題と日本移民問題を結びつけた感情的な排日論」と反論。サンパウロの中国新聞通信員が伝える
1956/10/--
治療のため渡米した原爆乙女の倉本美津子さんが、滞在先のガーデナ市の親類の日系二世と結婚 1956/10/--
広島市議会が戦傷病者戦没者遺家族等援護法の一部改正を、政府に陳情を決定。3月13日の市議会決議に基づき、公務中だった被爆生存者への適用を求める
1956/10/--
日本原子力産業会議が、旧財閥を中心に結成されている国内の原子力研究7グループと連絡懇談会を設け、総合研究・開発を進めることを決定

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