×

ヒストリー

ヒロシマの記録1956 11月


1956/11/1
日米親善野球で広島市を訪れた米ドジャース球団のウォルター・オマリー会長が広島カープの伊藤信之社長に「ノーモア・ヒロシマズ」と刻み込んだ記念碑銅板を寄贈
1956/11/5
広島、長崎両市が作成した「原爆障害者援護法(試案)」の法案要綱が、東京で開会の広島市建設促進協議会で発表。(1)国は原爆障害者の医療、被爆者の健康管理を行う(2)医療を受けることで生活が困難になる者に医療手当の支給(3)被爆者健康手帳の交付-など。「原爆障害は国の責任において遂行した戦争による犠牲であり、治療ないし健康管理は国家の責任で行われるべき」との両市、市議会連名の陳情書を作成、運動展開へ
1956/11/5
英政府が編集した第二次大戦史第6巻で、大戦末期に英が米の原爆投下に賛成していたことが判明。筆者アーマン氏が「チャーチル首相は1945年7月1日にロンドンで新兵器の使用承認覚書に署名し、この情報は直ちにワシントンの共同政策委員会に送られた」と記す
1956/11/6
1955年5月に渡米し、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療を受けていた原爆乙女の第2陣13人が広島市に帰る。渡米治療を推進したノーマン・カズンズ氏や同病院副院長ヒッチグ氏、外科部長バースキー氏、外科医師サイモン氏ら米側の7人も同行
1956/11/7
帰国の原爆乙女に同行したノーマン・カズンズ氏やマウント・サイナイ病院副院長ヒッチグ氏ら7人の歓迎交歓会が広島市の新広島ホテルで開かれ、渡辺広島市長が感謝状を贈る。県医学会も表彰状
1956/11/8
広島原爆病院で原爆障害者の日米合同診察会。米側から広島滞在中のヒッチグ、バースキー、サイモンの3医師。日本側は原対協治療研究部外科班など10数人が参加。渡米治療の選に漏れた原爆乙女10人はじめ、45人が受診。9日も診察、3人に手術を勧める
1956/11/8
原子力委員会が「日米原子力協定細目協定」の最終案調印で意見一致。日本原子力研究所の実験用原子炉の燃料にする濃縮ウランの受け渡し細目を決めた協定。政府も22日の閣議で協定調印を決定
1956/11/9
ノーマン・カズンズ氏が広島精神養子委員会の懇談会で、原爆孤児、野村政博君(神戸大卒業)の渡米留学を約束
1956/11/9
米オークランド市のアルフレッド・パーカー氏から渡辺広島市長に手紙。「今、世界は最も重大な危機に直面している。全世界の国々とその指導者に、広島市民の名において、種々の紛争を武力でなく平和な手段で解決するよう要求する声明書を送れ」
1956/11/9
渡米治療から帰国した原爆乙女と家族が、広島滞在中のノーマン・カズンズ氏らを招き、平和記念館で感謝の晩さん会
1956/11/9
原水禁広島協議会が常任委員会で組織強化対策や救援運動の促進を決める。(1)広島県内で原水禁組織がない大竹、庄原2市と9郡で早急な組織化を図る(2)被害者救援運動を進めるため原爆記録映画「生きていてよかった」の一般映画館での上映促進-など
1956/11/9
原爆障害者救援事業広島委員会が、今後の障害者治療計画を協議。まず渡米治療の選に漏れた原爆乙女18人の手術を広島で開始することを決定
1956/11/11
厚生省が非公式省議で、通常国会に「原爆障害者援護法」案を提出する方針を決定。これを受け、13日開いた広島、長崎両県選出国会議員連絡会議も社会党案の臨時国会提案見送りへ
1956/11/11
米原爆乙女治療委員会の医師2人が田川務長崎市長の招きで長崎を訪れ、7人の長崎原爆乙女を診察(「長崎年表」)
1956/11/14
広島大理学部の佐久間澄教授ら素粒子論グループが、「少なくとも国際機関の発足するまでは特定国と原子力動力協定を結ぶべきではない」との声明を発表
1956/11/15
米デトロイト市のウェイン大がノーマン・カズンズ氏を表彰
1956/11/15
国際協同組合同盟アジア地区交換留学生として来日中のインドのワテル氏(全インド協同組合連合会参事)とジャベリ氏(ボンベイ州バロダ購買販売連合会参事)が広島市を訪問。原爆被害者と懇談 1956/11/16
広島市議会の各派代表者会議が、政府提案予定の「原爆障害者援護法」の早期制定を図るため、国会各党に働きかけることを決定
1956/11/16
東京、神戸で原爆障害者救援の特別興行をしたイタリア歌劇団が利益金206万2,500円の伝達式を東京・NHK会館で行う。広島の原対協分は137万5,100円
1956/11/17
モスクワ放送が「ソ連で核爆発実験が行われた」と放送。日本各地の気象台、測候所も17日夜、異常微気圧振動を観測。爆発時間は同日午後4時ごろ、場所は中央アジアのバルハシ湖からアラル海付近
1956/11/17
広島市議会厚生委員会が、通常国会に提案される「原爆障害者援護法」に被爆学童の救済など地元要望を盛り込むため、厚生省に陳情を決める
1956/11/17
ソ連政府がモスクワ放送を通じ、米、英、仏、ソ、インド5カ国軍縮巨頭会談を開くよう求める新しい軍縮案を提案
1956/11/19
原子力委員会が、英原子力発電調査団(石川一郎団長)から入った「英型動力炉は購入に適する」との最終結論の公電を発表。英製動力炉購入は確定的に
1956/11/19
「広島のうたごえ大会」が広島児童文化会館で開会。原水禁広島協議会、広島県被団協、広島合唱団の主催で約500人が参加。「世界の人に」(村戸由子氏作詞、山崎登氏作曲)も初めて発表
1956/11/21
広島市が世界に送った平和宣言に対し、ロンドン市ミドルエセックス中央病院ホレス・ジョールズ博士ら英、ドイツから4通の手紙が渡辺広島市長に届く。179通の宣言発送に対し、20通の返書
1956/11/21
原水禁広島協議会と広島県被団協が21日から広島市内の若草映劇(27日まで)、柳橋有楽座(23日まで)で原爆記録映画「生きていてよかった」を上映へ。利益金の一部が原爆障害者の救援資金に
1956/11/21
ネパール・カトマンズで開かれた第4回世界仏教徒大会が世界平和への決議を採択。「各国の政治家が平和5原則を守って世界平和を促進すること、国連がいかなる侵略をもやめさせること、各国政府がすべての核兵器使用を禁止することを要望する」
1956/11/23
「日米原子力協定細目協定」が米政府原子力委員会本部で調印。濃縮ウラン貸与の細目を決めた協定で、米から日本に賃貸される濃縮ウランは約10キロ。茨城県東海村に設置される研究用原子炉に使用
1956/11/23
「原爆の子の像」の制作者、菊池一雄東京芸大教授が構想をまとめるため広島市を訪問。像建設運動に全国から寄せられた総額は21日現在、532万9,000円余に
1956/11/24
渡米治療から帰国した原爆乙女の家族が渡辺広島市長や付き添い医師ら関係者25人を招待し、平和記念館で感謝の晩さん会
1956/11/25
兵庫県原爆被害者の会の結成総会が神戸市で開かれ、被爆者や遺族ら約50人が参加。被害者援護法の制定促進を満場一致で確認
1956/11/25
副島まち子氏著「母のヒロシマ原爆戦史あの日から今もなお」が東都書房から発刊(「奥付」)
1956/11/26
参院本会議で小林英三厚相が「原爆障害者の健康管理と治療の両面にわたって立法を考慮している」と答弁。山下義信参院議員の緊急質問に答える(「広島原爆医療史」)
1956/11/26
米オレンジ市のヒロシマ・ピース・センター同志会から広島市社会課に精神養親53組の名簿届く。1950年から始まった養子縁組数は53年の年間409組を最高に年々減少、会費未納による養親取り消しが増える
1956/11/26
日本原子力産業会議が、帰国した欧米原子力産業視察団の報告会を開く。「各国とも政府、学界、民間の3者が一体となって、原子力開発を進めている。日本も急いで3者の協力体制を整える必要がある」
1956/11/26
日本原子力産業会議の欧米原子力産業視察団に加わった長尾節造中国電力副社長が広島に帰る。「欧米諸国の原子力発電の分野に対する力の入れ方は大したものだ。研究面で一頭地を抜いているのは英、そして将来実用化の段階では米が力を出してくると思う。わが国では3、4年先に備えて、みっちり技術面その他の基礎研究を固めておくことが先決である」
1956/11/27
茨城県東海村の日本原子力研究所に設置される実験用沸騰水型原子炉の部品が、ロサンゼルスから横浜港に到着。米ノース・アメリカン社製で、熱出力50キロワット、1955年の原子力平和利用双務協定により輸入
1956/11/30
原爆障害者援護法制定陳情で上京した広島県医師会の正岡旭会長らから医師会事務局に連絡。「厚生省の山口公衆衛生局長は『原案を準備中で、必ず次期通常国会に提出する』と確約した」
1956/11/30
原水禁広島協議会に西ドイツから「原爆症に使ってほしい」と6種類の薬剤が届く。人類愛善会(本部京都市)発行のエスペラント語雑誌で原爆症を知ったドイツ開業医連盟機関誌主筆のメッツケス氏が愛善会広島県連合会を通じて贈る
1956/11/30
厚生省の原爆被害対策に関する調査研究協議会「広島、長崎部会」が長崎大医学部で開会。ケロイド治療など臨床実例や研究結果を発表
1956/11/--
下関福祉事務所が原爆被災者の実態調査をまとめる。被災者は126人(広島115人、長崎11人)。死亡者は59人(広島55人、長崎4人)
1956/11/--
広島市が行った被爆生存者の実態調査結果がまとまる。同市内の被爆生存者は8万4,932人で、総人口の25%、総世帯の46.3%。生存者のうち1万4,199人(16.7%)が治療を希望。市が国民健康保険調査の際、全市を個別に当たり集計。被爆生存者の実態が初めて明らかに
1956/11/--
原子力委員会が、英派遣(10月)に次いで米にも原子力発電調査団の派遣を決定。滞英中の石川一郎氏(原子力委員)ら3人が、帰途に米へ立ち寄ることに
1956/11/--
東京地方で10月までの22カ月間に降った放射能は、ソ連からが68%と一番多く、ビキニ21%、ネバダ10.5%などの順であることが判明。気象研究所地球化学研究室の杉浦吉雄、猿橋勝子両技官が、大地の表面に残った雨やチリの放射線量を測定分析
1956/11/--
「雨の放射能の減衰曲線」研究で文部省科学研究費を支給された福山工業高校の真壁芳夫教諭が、この研究過程で放射能によって植物に突然変異が起こることを突き止める

年別アーカイブ