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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 1月


1955/1/1
鳩山首相が「原水爆問題」で所感。(1)原水爆使用の可能性のある第三次世界大戦防止と、両陣営の平和共存の方法を考えるのが自分の政治目的の一つ(2)原水爆実験は現段階ではやむを得ないかも知れないが、日本人が犠牲になるような場所ではやめてもらいたい(3)ビキニ補償問題は米側に伝え善処したい
1955/1/4
ビキニ補償問題が解決。「法律上の責任問題と関係なく米は慰謝料として200万ドル(7億2,000万円)支払う」。日米両政府が交換公文に署名。補償内訳=第五福竜丸関係(1億2,000万円)、マグロ廃棄(1億8,000万円)、危険区域航行(1億2,500万円)、マグロ値下がり(3億4,000万円)。日本カツオ、マグロ漁業協同組合連合会や第五福竜丸関係者は「要求額の三分の一」と不満
1955/1/4
政府が米に核実験で再度申し入れ。「ビキニで実験実施は困る▽もしビキニでやらなければならないのなら実験規模を最小限にし、万全の危険防止策を▽万一、予測できない被害が出た場合は補償せよ」。申し入れは1954年10月5日に続き2回目
1955/1/4
ウルグアイで開かれた第8回ユネスコ会議に出席した森戸辰男広島大学長が広島市に帰り記者会見。「会議では、原子力の影響に対する生物学的医学的研究をユネスコで進める-などを決議した」
1955/1/6
彭真北京市長が浜井広島市長の平和アピールに返書。「広島市民の原子兵器反対と世界恒久平和実現への強い願いを熱烈に支持する」
1955/1/8
世界平和集会広島世話人会(代表世話人、佐久間澄広島大理学部教授)が原爆の記録「8時15分」を出版。物理、医学的解説や精神的影響、被害者の生活手記など収録
1955/1/10
「年賀はがき追加分の益金3,000万円を広島の原爆障害者のための治療施設に贈りたい」との郵政省の申し入れについて原対協役員会で受け入れ方など論議
1955/1/11
米大使が日本政府に濃縮ウラン貸与について申し入れ。政府は公表せず。4月14日付朝日新聞報道(「近代日本総合年表」)
1955/1/12
今中次麿広島大教授が中国新聞に寄稿。「すでにヒロシマは、原爆を売りものにしてこちらから物乞いをする必要はない。…世界各国のもっとも良心的で清浄な理想に燃える良識の人士達が向こうから広島を世界平和のシンボルとして記念してくれるようになったのである。このことは十年前の地獄絵の中に人間として最大の苦悩と屈辱を経験したヒロシマ人に対して、世界の良識ある人々が地上最大の罪悪の償いをしようとするささやかな意図の表現でしかないが、それはやがて雪ダルマのように太っていく世界平和運動の一つの端緒にすぎないのである」
1955/1/12
民主党広島県支部結成式に出席のため広島市を訪れた鳩山首相夫妻と石橋湛山通産相らが原爆慰霊碑に参拝。原爆乙女の船津留里子さん、被爆者の吉川清氏とも対面。現職首相の慰霊碑参拝は初めて
1955/1/13
原水爆禁止署名運動全国協議会が8月6日に広島市で原水爆禁止世界会議の開催を内定。資金集めに「紫の羽根」募金運動を計画
1955/1/13
「原爆症に特効薬」と西ドイツの医師から浜井広島市長に新薬の提供申し出
1955/1/15
原爆症専門病院建設で広島赤十字病院、広島県、市、地元医師らが懇談会。「管理は日本赤十字、運営は市と原対協」で基本合意
1955/1/16
東京・国鉄労働会館で原水爆禁止署名運動全国協議会の第1回全国会議。15日に署名2,200万人突破など報告
1955/1/17
モロトフ・ソ連外相が「ソ連以外の共産諸国に平和目的に限って原子力援助計画がある」と表明
1955/1/17
米海軍初の原子力潜水艦ノーチラスが試験航海
1955/1/18
ウィーンで開かれた世界平和評議会拡大執行局会議が全世界で10億人を目標とする原水爆禁止署名運動を決定。原水爆戦争の準備反対を訴えるウィーン・アピールを発表し、8月6日に広島市で原水爆禁止世界大会の開催を正式決定。日本からは安井郁原水爆禁止署名運動全国協議会事務局長、西園寺公一氏らが出席
1955/1/20
世界民主青年連盟の一行5人が広島入り。浜井広島市長と会見、原爆慰霊碑に参拝。広島児童文化会館に県・市青連、労組など1,000人が集まり歓迎大会
1955/1/20
広島市の平和メッセージに対しブルガリア・ソフィア市長から協力の返事
1955/1/21
松坂義正広島県医師会長が原爆病院建設は原対協でと主張。「広島赤十字病院内につくったら市民と遊離したものになる」
1955/1/21
広島滞在中の世界民主青年連盟代表を囲み、広島県教育会館で原爆被害者懇談会。原爆被災者の会、原爆友の会、市民など約100人参加。「ヒロシマの底には今なお9年前の業火が潜んでおり、原爆の恐怖を新たに感じ、平和への歩みに拍車をかけられた」
1955/1/22
日本カツオ、マグロ漁業協同組合連合会などがビキニ賠償問題で(1)責任の所在が明確でない(2)将来の原水爆実験に対し具体的な防止取り決めができていない-と政府に質問書
1955/1/23
参院水産委員会がビキニ問題で決議。(1)漁業者の受けた全損害を政府の責任において補償する(2)原水爆実験の禁止に最善を尽くす(3)原水爆実験が水産業に及ぼす被害を完全に防止する。万一損害があった場合は完全な補償をおこなう
1955/1/23
旧広島一中1年で被爆した広島市の三谷浩正さんが広島大卒業を目前に原爆症で死去。21歳
1955/1/27
シドニー・イエーツ米下院議員が、広島に原子力発電所を米と日本政府が協力して建設しようとの法案を下院に提出。「人間の発明を死のためではなく、生のために使うよう努力すべきとのアイゼンハワー大統領の提唱を実現するのが目的」。これに対し、浜井市長は「微量放射能による悪影響が解決されない限り、平和利用はあり得ない。しかし、死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」。森滝市郎原水禁広島協議会事務局長「原爆1号の洗礼を受けた市民感情などからうかつに受け入れるべきではない」▽「広島に原子エネルギーの平和利用の恩恵を」と主張したのは1954年1月に広島市を訪れた米物理学者ボーン・ポーター氏が最初。次いで同9月21日、米政府原子力委員会のトーマス・マレー委員が「広島と長崎の記憶が鮮明である間に、日本のような国に原子力発電所を建設することは、われわれのすべてを両都市に加えた殺傷の記憶から遠ざからせることのできる劇的でかつキリスト教徒的精神に沿うものである」と提案したことがある
1955/1/27
原爆病院建設で厚生省が調停案。(1)建設場所は広島赤十字病院内。出入り口は別(2)管理・運営は原対協が日赤と協議して行う(3)一般医師が患者を入院させ治療に当たるオープンシステムとする
1955/1/29
原水禁広島協議会(事務局長、森滝市郎広島大教授)が広島市への原子力発電所建設問題で反対声明。「同法案は軍事利用への転化と医学衛生面で大きな不安があり、平和産業といえども異国の支配下におかれることは、日本の電力産業を破壊するものである」
1955/1/31
広島戦災供養会が市に「戦災供養塔は現在地に」と再び申し入れ
1955/1/--
斎木寿夫氏が作家社から「黒雨」出版
1955/1/--
日本赤十字社が追加お年玉はがきの益金で広島、長崎に原爆病院建設を計画。郵政省に益金3,000万円の寄付を要請
1955/1/--
西本願寺広島別院の復興計画決まる。本堂2階建て、1,500人収容のホール、200人の宿泊施設。総工費2億円
1955/1/--
日本私立短大協会が戦時中、国家総動員法に基づく学徒動員令で徴用された徴用学徒に補償を要求
1955/1/--
大阪市立医大の西脇安・助教授ら28人が「放射能マグロの検査打ち切りは時期尚早」と厚相あてに質問書
1955/1/--
広島市史編さん委員会が「概観広島市史」出版
1955/1/--
広島市吉島町に原爆孤児のための寺、病院、保育所の建設計画。山下義信参院議員、丹羽諦順広島市衛生局長らが提唱。1億円目標に募金運動へ

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