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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 2月


1955/2/1
広島ABCCで原爆症に関する第2回日米合同シンポジウム。日本側から塩田広重日本医大学長、都築正男東大名誉教授、中泉正徳東大教授、河石九二夫広島大教授ら、米側からロバート・ホームズABCC所長ら計80人が参加。蜂谷道彦広島逓信病院長が直接被爆でなく被災後5日まで広島に滞在し二次放射能の影響を受けた患者の事例を発表。「140人中1割に影響」
1955/2/2
米国防総省が「今春、ネバダ州で行われる原子兵器実験には陸海空3軍から約9,000人が参加する」と発表
1955/2/2
米陸軍が「近く原子砲1個大隊(36門)を欧州に配備」と発表
1955/2/3
原対協研究治療部門に広島血液病研究会を設置し、第1回研究会開く。ホームズABCC所長らが尽力(「広島医師会史・第二編」)
1955/2/4
マイク・マサオカ氏が、広島市への原子力発電所建設計画で浜井市長に書簡。「同問題は今後大統領に設置を呼びかける方針だ。広島もこの波に乗じてほしい」▽イエーツ議員が大統領、上下両院合同原子力委員会に書簡「広島を原子力平和利用のセンターにする」
1955/2/5
お年玉付き年賀はがきの益金による広島市への原爆症専門病院建設問題が、広島赤十字病院内建設で決着。建設費8,000万円、運営方法、病舎の建設については地元に運営委員会を設け決める
1955/2/5
長崎市で「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会(原爆協議会)広島、長崎部会」の第2回会合と日本学術会議の「放射線影響調査特別委員会」の合同会議
1955/2/6
広島市東雲町の市役所比治山出張所取り壊し中に被爆者の遺骨5柱を発見
1955/2/8
モロトフ・ソ連外相がソ連最高会議で「水爆で立ち遅れているのはソ連でなく米」と発言
1955/2/9
オランダ平和会議アムステルダム大会へ浜井広島市長が平和メッセージ
1955/2/9
急性骨髄性白血病で広島市錦町の香川正雄君が死去。16歳
1955/2/10
大阪府青年団連合会(中村八大委員長)が原爆障害者と原爆孤児救援のため、たばこ代、化粧品代を節約へ
1955/2/10
日本カツオ、マグロ漁業協同組合連合会の公開質問状に対し政府が回答。(1)公海に影響を及ぼす水爆実験が国際法上、適法かどうかについては諸説があるが政府は日本国民が実験によって被った損害について米政府の注意を喚起し、政治上の解決をはかりできるだけ多額の補償を得ることに努めた(2)政府は将来原水爆の実験について日本国民に損害を及ぼさない地域に実験場を移すこと、米がどうしても太平洋上で実験を行う必要があるなら損害の予防に万全の措置を講ずるように申し入れ、先方もこれを応諾している
1955/2/11
長崎国際文化会館落成式。原爆資料館を5階へ移設し、原爆資料展示室を設ける。4月1日開館(「長崎年表」)
1955/2/11
米紙ワシントン・ポストが米政府に対し、国際放射能探知機関を設置し水爆実験の自発的禁止を世界に呼びかけるよう提案
1955/2/11
米国務省当局者が、広島への原子力発電所建設で「イエーツ議員の善意の提案で裏に何かあるとかヒモつきといったことはない」と言明
1955/2/12
中国人民政治協商会議と中国平和委員会が、原子兵器禁止署名運動の開始を決定
1955/2/14
米下院のイエーツ議員が日本への原子力発電所建設問題で下院で演説。「米は原子力の平和利用に関して日本などと直接協定を結ぶべきだ。原子力は人間を殺すためでなく、人間に必要な動力を得るために使用すべきである。米の原子力利用における平和的意図を日本国民に知らせる必要がある」
1955/2/14
広島市供養塔建設対策委員会が、「新供養塔(戦災供養塔)は平和記念公園内北端の現在地が適当」と市長に答申。「終戦以来の既成事実を尊重するとともに市民感情を考えて現在地を可とし(1)施設などの設計は原爆犠牲者の慰霊、平和のシンボルとして適切なものに(2)8月6日の被爆10周年に間に合うように建設」
1955/2/15
米政府原子力委員会のストロース委員長が1954年3月1日ビキニで実験した水爆の威力を発表。「東西224キロ、南北32キロ内のすべての人間の生命は重大な危険にさらされる。風下256キロ(東京に落としたとして名古屋)の半数、304キロ(同彦根)の5~10%は死亡の可能性」
1955/2/15
ウィルソン米国防長官が記者会見。「原子兵器は米がソ連に勝っている」
1955/2/15
ブルガーニン・ソ連首相が米新聞代表と会見。「原水爆実験制限は効果がない。原水爆など大量破壊兵器の禁止と廃棄が先決だ」
1955/2/15
広島市仏舎利塔建設委員会が建設用地として原爆ドーム付近が適当と市長に答申。建設省は許可せず
1955/2/17
英政府が、国防白書で水爆製造開始を明言。「巨大な破壊力をもつ水爆は現在戦争を阻止できるもっとも効果的な手段である。今日の国際情勢下で英は同盟国と協力し現在作製し得るもっとも強力な戦争阻止の手段で防衛力を強化することが基本政策でなければならない」
1955/2/18
米政府原子力委員会が、ネバダ州ラスベガスの北東120キロのユッカ平原で1955年最初の大気圏内原爆実験
1955/2/22
米がネバダ核実験場で1955年2度目の核実験
1955/2/23
4月6日から6日間インドで開くアジア諸国会議への日本代表団に森滝市郎広島大教授、作家の火野葦平氏ら47氏決まる
1955/2/24
大阪府青年団連合会の原爆障害者救援運動のため吉川清氏、河本一郎氏らが大阪で原爆障害者の実情を訴え
1955/2/26
被爆当時広島市女教諭だった今堀恭子さんが、脊髄がんのため死去。43歳。広島文理科大の第1回女子卒業生。今堀誠二広島大教授の姉
1955/2/28
広島市公会堂が完成。5階建て、1,746席
1955/2/--
中央気象台の雨、チリの放射能常時測定装置が完成。2月半ばから全国15カ所に配備
1955/2/--
「広島に原子力発電所建設」をめぐり中国新聞紙上で論議。出席者、浜井広島市長、渡辺鼎広島大文学部長、佐久間澄広島大教授、森滝市郎原水禁広島協議会事務局長、評論家田辺耕一郎氏、婦人新聞迫千代子氏
1955/2/--
白木裕氏が歌集「炎」出版。離ればなれに焼かれて死にし妻子らよ/魂呼び合せて今は会へらむか
1955/2/--
米のノーマン・カズンズ氏を中心にケロイドが残る原爆障害者の米治療の計画進む。「4、5月ごろ約20人の障害者と広島の医者が米に行き、ニューヨークの家庭に分宿し4~6カ月治療を受ける」
1955/2/--
秘蔵されていた元大本営の大かわらが、菊の紋章そのままに広島市基町の原爆記念館(原爆資料館の前身)へ寄贈へ
1955/2/--
日本赤十字社が広島市の原爆症専門病院への配分額を決める。鉄筋コンクリート3階建て、病床数120、建築費5,800万円、設備費1,200万円
1955/2/--
「原爆被爆者は非被爆者に比べて死亡率が高い」。原対協委員の於保源作博士が1951年9月1日~54年末の広島市内の死亡者を調べ結論。骨髄性白血病、再生不良性貧血が特に高率

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