×

ヒストリー

ヒロシマの記録1955 3月


1955/3/1
米がネバダでこの年3回目の核実験
1955/3/1
チャーチル英首相が下院で「英はすでに水爆製造に着手した」と言明
1955/3/2
原水爆禁止署名運動全国協議会が東京・神田で原水爆禁止世界大会準備委員会。(1)全国協議会への参加を個人から団体に改める。全国各地区に世界大会準備会をもうけ、政府の後援と協力を要請(2)保守、革新を問わず婦人、文化、労働界など各階層の協力を仰ぐ
1955/3/3
広島市で開いた中国5県電力協議会小委員会が広島市への原子力発電所建設計画を積極評価し、米下院のイエーツ議員に具体的内容を聞く質問状を出す
1955/3/6
米科学者連盟が原水爆実験で国務省とロッジ米国連代表に手紙。「原水爆実験の継続は人類に対する脅威である。米は国連に原水爆実験の危険を調査検討する特別委員会の設置を提案すべきだ」
1955/3/6
英国社会主義者医学協会からの招待で広島市皆実町の日詰忍さんら英に出発。原爆体験や障害者の生活、治療状況などを訴えへ。長崎の被爆者も
1955/3/11
作詞増岡敏和氏、作曲村中好穂氏の歌「わが故郷」が広島市立天満小で発表。広島合唱団が歌う(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1955/3/13
米コロラド大のレイ・ラニアー博士とセオドア・バック博士が「ネバダの核実験からコロラド州に飛んできた放射能灰は無視できない段階に達した」と発表。米政府原子力委員会は警告を否定し、コロラド州知事は「2人を逮捕すべきだ」
1955/3/13
米科学者連盟会長でマサチューセッツ工科大のスタンレー・リビングストン博士が「原爆実験によって生じる放射能の危険値を国際的に定めよう」と提案
1955/3/16
米国務省が16日発表したヤルタ会談関係文書の中に1944年12月30日、マンハッタン計画の指導者グローブス少将がマーシャル統合参謀本部議長に送付した手紙。「TNT爆薬1万トンに相当する第1号原爆は1945年8月1日までに完成することが必要である。この原爆を事前に実験することは必要でないと考えられる」。手紙の最後にグローブス少将のサインがあり「国防長官及び大統領はこの文書を読み、承認した」
1955/3/16
フォール仏首相が記者会見。「フランスも近く単独か他の欧州諸国と協力して水爆など核兵器の開発を始める」
1955/3/17
東京・成城高校の高校生たちが原爆症に倒れた同校3年千葉亮君を励まそうと原水爆禁止を訴える映画「無限の瞳」の撮影を開始
1955/3/20
広島市女原爆遺族会が犠牲者の霊を慰めるため聖観音像を建立し開眼法要
1955/3/22
広島大付属東千田中学で1954年4月から実施していたユネスコ実験教育の成果まとまる。「原爆と平和」テーマに1年間の平和教育
1955/3/24
米政府原子力委員会のボアー生物医学部長が第五福竜丸の無線長、久保山愛吉氏の死因について「直接の死因は放射能障害に関したものではなく、肝臓障害である」と記者発表。日赤中央病院の都築正男博士が反論
1955/3/28
堀内謙介前駐米大使から浜井広島市長に「ノーマン・カズンズ氏ほか米の外科医2人が、4月10日来日して渡米治療のための原爆乙女の人選に当たる」と連絡。5月ごろ20人渡米しマウント・サイナイ病院で約半年間治療の計画
1955/3/31
衆院本会議で川崎秀二厚相が、「久保山愛吉氏の死因は放射能物質が原因は明らか」と言明
1955/3/--
劇作家の堀田清美氏が郷里の広島県安芸郡音戸町を舞台に原爆への怒りを訴えた戯曲「島」を発表
1955/3/--
門前徹夫県立広島病院医師が4月1日から京都市で開かれる日本医学会総会で原爆症の早期発見、治療を呼び掛けへ
1955/3/--
1952年3月に資金難から工事ストップしていた広島市平和記念資料館(原爆資料館)の工事を再開。予算1,000万円
1955/3/--
「原爆句集広島」への投稿が8,300余句、応募者340余人に達し、締め切りを1カ月延ばす

年別アーカイブ