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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 7月


1955/7/1
広島県議会が原水禁世界大会支持決議(「広島県史・年表」)
1955/7/1
米が原子力商船の建造計画を中止
1955/7/1
富山県原水爆禁止運動連絡会が富山県知事、同県選出代議士4人を顧問に「8・6大会準備会」を結成し、広島大会に100人の代表団派遣を決める
1955/7/1
東大原子核研究所が東京・田無に発足。初代所長に菊池正士大阪大教授。荷電粒子原子核反応、中性子原子核反応、放射能、原子核測定装置の4部門
1955/7/2
原水爆禁止三次地区協議会が発足。会長、三浦正三次市長
1955/7/4
広島市公会堂で日本学術会議第5部(工学、応用理科学関係)の原子力講演会。聴衆1,500人
1955/7/6
日米原子力協定が発表される。貸与ウランは6キロ以内、効力5年間
1955/7/8
原対協が組織強化のため財団法人化を決める。36万全市民を対象に原爆障害者の実態調査も決定
1955/7/9
ノーベル賞受賞者の英の哲学者バートランド・ラッセル博士がロンドンで原爆戦争反対を訴えた全世界8著名学者の共同声明「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表。故アインシュタイン博士、湯川秀樹博士、ラッセル博士ら。「人類が直面している悲劇的な情勢下において、われわれは科学者が集まって会議を開き、大量殺傷兵器の発展によって生じた危険を評価すべきだと考える。われわれは国籍、信条のいかんを問わず生存を脅かされている人類の一員として発言するものである」「核兵器によって、人類全部が破滅の危機にさらされた現在、人類の破滅を避けることはなにものにも優先すべきである」
1955/7/10
世界民青連が第5回世界青年学生平和友好祭(7月31~8月14日、ポーランド・ワルシャワ)を記念し製作を決定した記録映画「世界の青春」に広島の原爆障害者、原水禁世界大会街頭募金なども収録へ
1955/7/12
広島市のABCC講堂で原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会第3回広島、長崎部会。原爆後障害治療指針を認める。長崎市が原爆障害者の研究治療費864万円の均等配分を求め、2対1を主張の広島市と対立▽後障害治療指針=ケロイドは被爆後半年ごろから著しい肥厚をみ、1年ごろを最盛期とし2年後には減退期に入った。現在はすでに固定期に入っている。次いで注目されるのは血液疾患。特に再生不良性貧血は原爆症の中でも悪性とされている。このほか「慢性原爆症」とも呼ばれる疾患があり、生活予備力に欠陥を生じている
1955/7/12
ネール・インド首相がナセル・エジプト首相と共同声明。「故アインシュタイン博士ら8人の科学者の共同声明は世界に対し現代の戦争の危険を知らせるのに役立ち、これを支持する」
1955/7/13
原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会広島、長崎部会が30年度の原爆障害者研究治療費の配分を広島500万円、長崎360万円に決定
1955/7/14
広島湾似島の遺骨約2,000柱を平和記念公園の戦災供養塔に合祭のため発掘、放射能検査
1955/7/15
日本を含む世界6カ国のノーベル賞受賞学者18人が核兵器の使用に反対する共同声明を発表。日本の湯川秀樹博士、英のフレデリック・ソディ、西ドイツのゲルハルト・ドマッグ、米のアーサー・コンプトン氏ら
1955/7/15
広島県地域婦人団体連絡協議会が県内原爆被害者の実態調査を開始(「広島県史・年表」)
1955/7/16
東京地裁で原爆訴訟の第2回準備手続き。被告の国側は請求棄却を求める
1955/7/18
ニューヨーク州で自由世界初の原子力による商業発電が開始され、記念の大電球をストロース米政府原子力委員長が点灯
1955/7/19
ニューヨーク市平和運動委員会(代表、A・マスト氏)から原水爆禁止世界大会広島準備会に「8月6日のヒロシマ・デーに同調、全米に呼びかけて原爆投下の悔恨署名運動を展開する」と手紙
1955/7/20
広島市で原水爆禁止世界大会広島準備会県内代表者会議。県内11市17郡の代表が出席
1955/7/21
ジュネーブで開催中の米ソ英仏首脳会談で、アイゼンハワー米大統領が(1)米ソ両国は軍事施設に関する完全な情報を交換する(2)米領とソ連領の航空写真撮影を相互に許可する-提案。ブルガーニン・ソ連首相は原水爆実験の禁止、段階的原子兵器の禁止など提案
1955/7/21
米で原子力潜水艦第2号のシーウルフが進水式
1955/7/22
日本学術会議原子力問題委員会が、日米原子力協定の誤訳や意味のあいまいな部分について外務省に質問書
1955/7/22
広島被爆10周年で前共和党下院議員のO・アームストロング氏ら米国民有志が、広島市にチャイムを贈呈へ。ア氏がワシントンで発表
1955/7/23
広島市民生委員連盟が、市内の施設の孤児たちを対象に一日里親制度実施
1955/7/23
ポーランド・ワルシャワで開かれる第5回世界青年学生平和友好祭に出席の51人が羽田から出発
1955/7/24
広島県青少年代表者会議が呉市で原水爆兵器製造禁止を決議
1955/7/25
広島子どもを守る会が募集した原爆孤児青年の生活記録「あれから10年私はこうして生きた」が中国新聞で連載始まる
1955/7/26
米誌ルックの8月9日号が広島逓信病院長の蜂谷道彦博士の「ヒロシマ日記」を紹介
1955/7/28
原水爆禁止世界大会参加の共産圏代表の入国について政府の事務次官会議が「原則的に不許可」決定。共産圏からはソ連、中国、北朝鮮などから約20人が参加を希望
1955/7/28
広島市議会が原水爆禁止世界大会支持決議(「広島市議会意見書・決議集」)
1955/7/28
米平和活動家のアリス・ブライアント夫人から「原水爆に反対するために開かれる8・6世界大会が、その目標をさらに拡大して世界的軍縮へと向上していくことを希望する」と世界大会広島準備会にメッセージ
1955/7/28
関西電力が原子力専門委員会を設置。5年後に実験プラント、10年後に実用発電めざす。北海道電力は5月、東京電力は6月に原子力発電専門研究機関を設置
1955/7/28
米陸軍省が極東第8軍に原子砲6門と長距離原子ロケット数個を配置すると発表。沖縄へ原子砲
1955/7/29
参院本会議で米軍の原子ロケット砲配備が問題に。左派社会党の吉田法晴氏らが緊急質問
1955/7/30
衆院外務委員会が政府に対し原水禁世界大会参加の共産圏代表にビザ発給を申し入れる
1955/7/30
広島市福祉事務所が「生活保護世帯と被爆との関係」まとめる。2,780世帯、6,213人中、被爆世帯は12%の330世帯、被爆者は17%の1,061人
1955/7/30
臨時広島市会で渡辺市長が「原子炉導入については世界の科学的水準が高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので日本だけ、広島市だけが原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受け入れる気持ちである」
1955/7/30
元陸軍偕行社付属済美学校が広島・ガスビルで原爆及び戦争による犠牲者追弔会。原爆などで約200人が犠牲に
1955/7/30
参院内閣委員会で重光葵外相が、日本配備の原子ロケット装置問題についての米大使館の回答を紹介。「新型兵器を日本に輸送する計画はあるが、原子弾とは何の関係もない。原子弾も必要あれば装置し得るが、日本向けにはこのようなものはない」▽政府見解「問題となっている兵器は原子兵器ではない」「原子弾頭のついた兵器は日本に持ってくることはない。したがって兵器持ち込みを拒否するとか、しないとかの問題は起きていない。将来の問題はそのときに処理する」「原子爆弾は日本に持って来ていないという言質を米から取ってあるからこれで十分満足している」▽鳩山首相「現在日本に来ているのは原子弾頭を持っていないので原子兵器ではないと思う」「原子弾頭をつけた原子ロケット砲は日本の現状では必要ない」「しかし今後日本の自衛のためにどうしても必要ならば許可してもよいと思うが、国際情勢などを十分考慮にいれてその際決定したい」
1955/7/31
被爆の傷跡をはかなみ広島市内の原爆乙女が自殺未遂
1955/7/--
ABCC関係者の尽力で広島の医学者次々に米国留学。テーラー元ABCC所長、モロニー同内科部長、ホームズ現所長ら協力
1955/7/--
渡米治療中の原爆乙女への精神治療実施で日米医師間に賛否両論
1955/7/--
広島県出身の作詞家、石本美由起氏作詞の歌「夏雲は何も言わねど」が完成。作曲上原げんと氏。夏雲は何も言わねど/青空に/ただよう愁い/あの朝の/あの時の/あの惨めさを/偲ぶマブタに/涙はあらた/ああヒロシマの/八月六日
1955/7/--
広島県安芸郡海田市町の寺にある原爆犠牲者の遺骨22柱を平和記念公園の戦災供養塔に合祭へ
1955/7/--
被爆10周年を前に各国、各地で原水爆禁止世界大会広島大会に向けての動き高まる▽インド・ニューデリーのアジア連帯委員会が8月6日をヒロシマ・デーに▽池田隆政、厚子夫妻、三木行治岡山県知事が原子戦争準備反対署名(ウィーン・アピール)に同調▽米ネーション誌のケアリー・マックウィリアム氏が「原水爆兵器の使用と実験について本当のことが知らされず、偽りの安全圏に国民は迷い込まされようとしている」▽ライナス・ポーリング博士「放射性物質が絶えず米の大気中に放出され危険きわまりない状態だ」▽下松市議会がウィーン・アピール支持決議
1955/7/--
広島大理学部の堀川芳雄教授が「大頻度法による日本及び近接地域の植物分布の研究」をまとめ、序文に自らの原爆体験記
1955/7/--
広島県安佐郡可部町の一住民が、原爆とともに投下された爆風圧測定自動発信機の落下傘のひもを完成間近い原爆資料館へ寄贈
1955/7/--
広島合唱団(指揮者、村中好穂氏)が峠三吉氏の原爆詩「ちちをかえせ/ははをかえせ…」を作曲し、8月6日にラジオ中国で発表へ
1955/7/--
広島子どもを守る会と広島市教委が市内小、中、高の被爆児童、生徒調査。計7,680人が被爆し外傷1,125人、火傷571人、内症105人
1955/7/--
全逓中国地本が8月6日に平和記念切手を発行するよう首相、郵政相らにはがき戦術を決定
1955/7/--
全米初めての原水爆防空演習(6月15日)の想定明るみに。ニューヨーク市の即死299万人、放射能被災170万人、負傷100万人。全米58都市中35市が原水爆攻撃を受けこの日1日だけで死者850万人、負傷者800万人に。死の灰の犠牲者含めると全米では死傷3,300万人以上、家屋を失うもの2,500万人
1955/7/--
ロサンゼルス在住の日系人を中心に広島、長崎原爆被害者救済会結成。役員に矢野和雄広島県人会長ら。義援金募集大演芸会など催す
1955/7/--
6月の放射線影響国際学術会議に出席した英のシモン・セビット氏らがFOR広島支部に中間報告。「放射能症に対する特別な治療法はない」
1955/7/--
中国化薬社長の神津幸直氏が、原爆投下時に同時に落とされた落下傘付き爆風圧測定自動発信機の写真など35点を新原爆資料館に寄贈。神津氏は当時、呉海軍工廠の火薬課長
1955/7/--
「広島への原子力発電所建設は現状では反対するが一定の条件がつけば賛成する」とのメッセージを出した広島市議、土岡喜代一氏に米のイエーツ氏から「賛成意見を聞かせてほしい」との書簡
1955/7/--
句集「広島」が完成。全国から674人、1万1,023句が投稿され、うち545人、1,521句を選ぶ。肌脱ぎつお母さん熱ひと言い遺す雅子逃げよと下敷の身の焼けつつもみどり児は乳房を垂るる血を吸へり薬塗るや裸形を女体とも知らで
1955/7/--
ヘルシンキ交響楽団所属のバイオリニスト、エルッキ・アールトネン氏が作曲した交響曲「広島」が8月15日、広島市公会堂で初演へ。演奏は関西交響楽団。同楽団の常任指揮者の朝比奈隆氏があっせん
1955/7/--
原水爆禁止世界大会広島大会の日程決まる。8月6日から3日間。世界、全国各地から婦人、宗教、労働、芸術家ら96団体、3,000~4,000人が参加
1955/7/--
アイゼンハワ-米大統領が長崎市の平和祈念式典へのメッセージを「慣例がない」と断る(「長崎年表」)
1955/7/--
丸木位里、俊夫妻の原爆の図のうち第1部「幽霊」第2部「火」第3部「水」がデンマークから英にわたりロンドン市美術館で長期展示
1955/7/--
広島大が昨年に続き放射能生物医学研究所の設置を文部省に要望
1955/7/--
広島大理学部植物生理学の藤田哲夫助教授が原爆で突然変異した植物標本を公開へ

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