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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 8月


1955/8/1
被爆10周年を記念し原水爆禁止世界大会全逓準備委員会が、広島市内で巡回映画会。作品は「愛妻物語」「無限の瞳」。5日まで
1955/8/1
東京・麻布の国際文化会館で宗教世界会議。100余の宗教代表が教義を超えて人類の基本問題を討議へ。安藤正純前文相、下中弥三郎日印友の会会長らが呼びかけ
1955/8/2
第5回世界青年学生平和友好祭(ワルシャワ)の音楽コンクールで「原爆を許すまじ」が2等に入賞、3等に芥川也寸志氏の「弦楽のための三楽章」、特別賞に東京芸大作曲科卒の小林秀雄氏の「広島を忘れまい」
1955/8/2
原水禁世界大会参加の共産圏代表の入国問題で法務省が10人の入国を許可。中国の謝冰心(女流作家)、ソ連のE・ジューコフ(ソ連学士院会員)氏らは不許可
1955/8/3
長崎市と同市民生委員協議会が周辺の4地区から引き取った原爆死没者229柱の改葬慰霊祭を市内の霊安寺で行う。身元の判明した11柱を遺族に伝達し、残る218柱を同寺の納骨堂に安置(「長崎年表」)
1955/8/3
中国が香港の日本総領事館に原水禁世界大会の入国許可問題で抗議。「8人全員が一緒でなければ日本に行くことはできない」
1955/8/3
ロンドンで世界政府の樹立をめざす国際議員連盟主催の世界科学者会議。5日まで。各国政府に対し、戦争では国策を遂行できないことを認めるよう要望
1955/8/4
広島平和記念館で第1回広島平和美術展開く。8日まで。広島平和美術協会の柿手春三、増田勉、福井芳郎、下村仁一氏らが呼びかけ
1955/8/4
世界平和集会広島世話人会(代表世話人、佐久間澄広島大教授)が刊行した「8時15分」の英訳本完成。大原三八雄広島女子短大教授が翻訳
1955/8/4
広島市段原日ノ出町の福岡重春氏が原爆で亡くなった愛児、肇君(当時15歳)の焼け裂けた学生服を原爆資料館に寄贈
1955/8/4
広島戦災供養会と広島市が似島や己斐に分散していた遺骨約5万柱を新装なった戦災供養塔へ安置
1955/8/4
原水爆禁止世界大会日本準備会事務総長の安井郁氏(原水爆禁止署名運動全国協議会事務局長)が広島入りし記者会見。(1)署名は3日現在、3,000万を突破(2)大会には政府代表として松本滝蔵内閣官房副長官が出席
1955/8/5
旧広島藩の浅野長政公が愛用した馬印が、原爆による焼失を免れ広島市内の饒津神社へ奉納
1955/8/5
広島戦災供養会が平和記念公園内で戦災供養塔新塔婆の開眼法要
1955/8/5
広島市幟町ザビエル記念館で広島宗教平和会議。仏教、回教、キリスト教、ヒンズー教の各代表など約300人出席。原爆被害者の実情を周知し戦争犠牲者を含めて救援活動を展開する-など決議▽マラヤ代表のスワミ・サチャナンダ宗教大臣らが6日に広島刑務所を慰問
1955/8/5
原水爆禁止呉市民大会開く。中央公園音楽堂前に市民ら約2,000人が参加
1955/8/5
ブラジル・サンパウロで同市平和擁護委員会主催の原水爆反対運動大会
1955/8/5
広島の詩編集委員会編の「広島の詩」出版。全国からの58編を収録
1955/8/5
広島平和記念館で「広島平和美術展」始まる。8日まで
1955/8/5
広島市中町の平和大通りで「広島第一県女追憶之碑」除幕式。職員20人、生徒274人と卒業生遭難者名を刻む
1955/8/5
広島市中島町慈仙寺鼻で戦災供養塔落成式。広島戦災供養会の募金と戦災当時、市助役だった森沢雄三県議の退職金40万円を含め約200万円で建立
1955/8/5
広島市立己斐小学校で学区内の原爆遺児36人を招き「平和の集い」
1955/8/5
北京で1,500人が原爆使用反対大会
1955/8/5
ニューヨークの平和団体反戦連盟がエンパイア・ステートビルの前で反戦デモ
1955/8/5
広島未亡人会が原爆死没者慰霊碑に花台を寄贈(「平和記念式典の歩み」)
1955/8/5
原水禁世界大会参加のため各地から臨時列車などで続々広島入り。東京都団体230人、神奈川県97人など関東一円の各県代表640人。荒井源吉武蔵野市長、米田吉盛神奈川大学長、向井一郎山梨県議会副議長ら
1955/8/6
原爆投下当時、広島市助役だった柴田重暉広島市議会議長が、「原爆の実相」を出版
1955/8/6
被爆10周年。午前8時から平和記念公園に約5万人が参加し平和記念式典。渡辺市長が広島県地域婦人団体連絡協議会の調査などで新たにわかった犠牲者を含め、新しく追加される523人の死没者名簿を慰霊碑に奉納。死没者数は5万9,028人に。柴田重暉市議会議長が式辞、渡辺市長、柴田議長、鳩山首相(代理松本滝蔵代議士)、益谷秀次衆院議長(同中川俊思代議士)、河井弥八参院議長(同山下義信参院議員)、大原博夫県知事、林興一郎県議会議長、原水爆禁止世界大会外国代表シャーレイ夫妻(インド)、遺族代表の原爆孤児2人が献花。渡辺市長が平和宣言、黙とう、首相メッセージ朗読、市内各職場合唱団が「平和の歌」「原爆を許すまじ」。同8時30分閉幕 1955/8/6
渡辺市長平和宣言「6,000人の原爆障害者は今なお必要な医療も満足に受けることもできず、生活苦と闘い続けており、さらに9万8,000人にのぼる被爆生存者は、たえず原爆障害発病の不安にさらされている。人体を徐々にむしばむ原爆の放射能には人類の健全な社会を崩壊に導く危険性が存在していることを、われわれはここに特に指摘する」▽鳩山首相メッセージ「われわれは原子力が人類文化に対する破壊の道具ではなく人類福祉の増進に利用することを深く期待するものであります」
1955/8/6
広島女学院中学校講堂で「世界連邦母の会広島支部」結成式。同本部理事の柳原白蓮氏ら参加。発起人、藤野孝子、荒川松枝氏ら
1955/8/6
平和記念式典後、慰霊碑前で前米下院議員のアームストロング氏から広島市民に平和のチャイム贈呈式
1955/8/6
原爆で死んだ新劇俳優、丸山定夫、園井恵子氏らの移動劇団「さくら隊」の殉難碑が遭難宿舎に近い広島市新川場町百メートル道路に完成し除幕式。新劇各劇団が協力。俳優座永田靖、地元は水馬義輝氏ら出席
1955/8/6
広島市基町無線通信部裏で電信電話事業関係の原爆犠牲者569人の慰霊碑除幕式。碑文「ひろしまの追憶は世界の追憶であれ/ひろしまの嘆きは世界の嘆きであれ/天地のくだけたる日の/くるしみを告ぐることなく/我が友はここに眠る」(8・7夕、「原爆被災資料総目録・第1集」)
1955/8/6
西本願寺広島別院が主催し24隻の船を連ねて水上法要
1955/8/6
広島戦災供養会が新供養塔前で10宗派合同慰霊祭
1955/8/6
広島市公会堂で午前10時から海外代表35人を含む約2,000人が参加し第1回原水爆禁止世界大会。入場できない約1,000人は会場を取り巻き拡声器に耳をすます。国際友和会日本支部幹事野々宮初枝氏が開会あいさつ。大山郁夫、長田新、松本治一郎、今中次麿、オルムステッド(米)、ベラ・ユーゼン(インド)氏ら57人を議長団に選出。浜井信三大会会長が議長団を代表してあいさつ。鳩山首相祝辞。オルムステッド米代表「私の国の政府が人類の生活の向上に使わねばならない原子力を破壊のために使ったことを深くおわび申し上げます。10年前も今も続いている悲しみを全世界の人にもっと知らせることによって、広島の人々の悲しみを無駄にしなくてすむでしょう」。平野義太郎氏「国際連帯について」、武谷三男氏「原水爆の脅威について」の基調報告。海外代表、政党代表が発言。広島(高橋昭博)、長崎(山口みさ子)、焼津(久保山すず)の被爆者代表が訴え▽午後7時40分から慰霊碑前に3万人の市民、大会参加者が集まり「歓迎と祈りの国民大会」▽法務省が大会参加の共産圏代表の入国ビザを北朝鮮を除き19人全員に認める
1955/8/6
平和記念公園で日蓮宗が世界立正平和大会。信者ら1,000人が参加▽日蓮宗管長の増田日達氏が小型機で空から原爆犠牲者のめい福を祈る
1955/8/6
米ABC放送が被爆10周年で「広島の声」を放送。山本実一中国新聞社長が「原子兵器のもたらす惨事は未来形ではなく現在進行形だ」と強調
1955/8/6
ひろしま川まつり委員会が午後8時から本川など7つの川でとうろう流し
1955/8/6
邦楽「平和広島」、中尾都山氏作曲、町田嘉章氏編曲、NHK邦楽のひとときで発表。指揮、島原帆山氏(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1955/8/6
広島市児童文化会館で劇団たくま座が構成詩劇「広島の詩」「あなたは悪くない」を公演(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1955/8/6
東京・住友ビルで被爆当時、広島市内の金融界第一線で活躍していた人々が「原爆思い出の会」。伊藤豊開銀監事(当時、広銀副頭取)ら9人。「吉川半恵丸岐阜十六銀行頭取(同、広島駐在日銀理事)は広島再建の陣頭にたち8日午前11時には市内全銀行が営業できるまでにこぎつけ、1日最高1億5,000万円、1月足らずで30億円もの預金支払いを実施した」
1955/8/6
米田栄作氏作詞、市場幸介氏作曲の「未来にまでうたう歌」、副題「ひろしまのための詩と音楽による交響風物詩」が中国放送で放送。民放祭洋楽部門で全国第2位(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1955/8/6
広島市中島本町、平和記念公園内に平和記念資料館(原爆資料館)が完成。工費2,000万円で1951年3月着工、1952年3月資金難で工事ストップ、1955年3月に工費1,000万円で再開。延べ430坪、2階建て
1955/8/6
広島高等学校第19回文科同窓会が原爆で亡くなった江村美智也君の遺稿抄「ふるさと」出版記念会
1955/8/6
原水禁世界大会参加の文学者が広島市内のホテルで懇親会。中野重治、中野好夫、山代巴、永瀬清子氏ら出席
1955/8/6
広島修道高校で原水爆禁止世界大会「学生の集い」。全国70の大学、高校から約500人の学生が参加
1955/8/6
平和記念式典後、慰霊碑前で市の復興に功労のあった川本精一氏ら90人の功労者表彰式
1955/8/7
原水禁世界大会2日目。市公会堂をはじめ市内6カ所で分散会。「原水爆の脅威」「被害の実相」「原水爆禁止のための対策と運動」の中心議題に基づき被爆者の話を聞くなどしたほか、各地代表が署名運動の実情などを報告。被害の実相では草野信男東大助教授、本田きみ済生会診療所長、田辺耕一郎大会広島準備会常任委員らが巡回し「生きている被害」を紹介▽夜は合唱交歓会や座談会、映画会
1955/8/7
長田新博士編の「原爆の子」が同博士の手で英訳、ドイツ語訳。ニューヨーク、スイスのベルンの出版社からそれぞれ刊行へ。原水禁世界大会で長田博士が発表
1955/8/7
広島逓信病院長、蜂谷道彦氏の英文「ヒロシマ日記」がニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー8月7日号の第1面全ページを埋める。(8月28日号ではベスト・セラー11番目、9月11日号は8番目に)。ニューズ・ウィーク8月8日号も新刊書紹介で大きく扱うなど全米に反響
1955/8/7
原水禁世界大会で伏見康治大阪大教授が「原子力の平和利用にはABCCのような研究が不可欠。非難するだけでなくこうした基礎的な研究所を設立する必要がある」と発言
1955/8/7
広島商業高校で旧広商の職員3人と生徒131人の原爆犠牲者追弔会。1945年10月の第1回追弔会以来初めて
1955/8/7
広島県地域婦人団体連絡協議会が県内の被爆者の実態調査報告。1万4,164人を調査。生存7,839人、死亡6,325人。生存者の32%が寝たきり
1955/8/8
在仏米作家のアイラ・モリス、エディタ・モリス夫妻が広島の原爆障害者のためにと「憩いの家」を贈呈へ。建設費500万円、維持費年5,000ドル以上。原水禁世界大会でエディタ夫人のテープを披露。同夫妻は5月に広島を訪問した
1955/8/8
広島市に原子力発電所建設を提案した米下院のイエーツ議員から中国地方電力協議会連合会に返書。発電コスト、放射能の危険性、軍事流用などについて一般論を述べる
1955/8/8
平和のための原子力をスローガンにした国連主催の国際原子力会議がジュネーブで開幕。66カ国、2,000人が参加
1955/8/8
長崎市の浦上平和公園で平和祈念像の除幕式。北村西望氏が長崎市の依頼で5年かけ完成。ブロンズ製。高さ9.7メートル、重さ30トン
1955/8/8
第1回原水禁世界大会が被災者救済を強調したアピールを採択し閉会。「原水爆被害者の不幸な実相は広く世界に知られなければなりません。その救済は世界的な救済運動を通じて急がれなければなりません。それが本当の原水爆禁止運動の基礎であります。原水爆が禁止されてこそ真に被害者を救うことができます」▽原水爆禁止署名3,216万709人に。世界の総署名数6億6,000万余に
1955/8/8
米政府原子力委員会が原子力双務協定を結んだ各国とのウラン、重水、天然ウランの貸与、販売価格を発表。ウラン1グラム=25ドル(9,000円)
1955/8/9
米が国際原子力会議で国内の実験原子炉の全資料を公開。アイゼンハワー大統領「原子力は国境によって制限できない。国際原子力会議は人類が平和で生産的な世界を作り出すには国際協力の必要なことを示している」
1955/8/9
三次市で約1,000人参加し原水爆禁止三次地区大会
1955/8/9
前米下院議員アームストロング氏から贈られたチャイムを平和記念館に据え付け。平和のメロディー流れる
1955/8/9
謝冰心(女流作家)氏ら原水禁世界大会参加の中国代表(団長、劉寧一氏)7人が、入国を認められ羽田に到着。大阪、東京会議に出席へ
1955/8/10
原爆乙女の渡米治療に同行していた大内五良博士が報告のためひとまず帰国。サンフランシスコを出発。22日広島帰着
1955/8/10
ニューヨーク・カーネギー・ホールで広島原爆投下10周年記念式典。市民ら2,000人が参加。エメリー・シプラー牧師、人権擁護委員会の弁護士で元教授のロイヤル・フランス、核物理学者フィリップ・モリソン3氏が提唱し、文壇、学会、実業界の数十人が発起人に。「今後原爆の惨禍をなからしめ原子力を平和利用にむける誓い」を決議
1955/8/11
広島市細工町、西蓮寺にある広島大仏が所有権争いの結果広島県佐伯郡五日市の寺に移転
1955/8/12
川崎秀二厚相が北海道で原爆症患者の国家救済措置を考慮中と言明。「厚生省は目下公衆衛生局で原爆症患者に対し国家で医療の責任を負うよう研究中だ。来年度予算で何とか措置したい。この場合患者全員の救済は理想的だが困難だ。重症患者にとどめるか、経済的に貧困なもののみにするか今のところ言えない」
1955/8/13
大阪中央公会堂で中ソ代表も参加し第1回原水爆禁止世界大会関西大会。桑原武夫京都大教授ら出席▽九州大医学部講堂で第1回原水爆禁止福岡大会
1955/8/14
鎌倉由比ケ浜海岸で「第4回海の平和祭」。原水禁世界大会参加の海外代表19人をはじめ労組員約2万人が参加
1955/8/14
長崎市の被爆10周年記念平和集会に出席したソ連代表らが広島市に立ち寄り、原爆障害者らに会う
1955/8/15
広島市公会堂で関西交響楽団がフィンランドのエルッキ・アールトネン氏作曲の交響曲「広島」演奏会
1955/8/15
東京・千駄ヶ谷の都体育館で第1回原水爆禁止世界大会東京大会。約1万5,000人が参加。中国代表から同大会日本準備会に5万元(722万円)の寄付
1955/8/15
東京・上野の精養軒などで「世界平和祈願国民大祭」。各宗派代表が礼拝、俳優の早川雪州、徳川夢声氏らが平和メッセージ朗読
1955/8/16
広島への原子力発電所建設問題で岡山電力協議会が米イエーツ氏回答に基づき、政府に米と交渉を要請へ
1955/8/19
広島市社会課が市内戸坂町に眠る原爆死没者の遺骨600柱を中島町の戦災供養塔に合祭。軍人300柱が含まれると推定
1955/8/19
原水禁世界大会中国代表団7人が広島入り。原爆慰霊碑に参拝の後、広島赤十字病院の原爆症患者を見舞う。夜は広島市公会堂で約1,000人が集まり歓迎大会
1955/8/22
原水禁世界大会東京大会にソ連代表の1人として参加のプラウダ記者グリセンコ氏が広島市へ。原爆慰霊碑に参拝後、原爆被害者と懇談
1955/8/22
極東米陸軍司令部が原子ロケット砲「オネストジョン」装備部隊の日本到着を発表。外務省が「原子弾頭は伴わず」とコメント。部隊は埼玉県朝霞のキャンプ・ドレークに駐留
1955/8/23
米国防総省の保健衛生問題担当次官補フランク・ベリイ博士が「久保山愛吉氏の死因は放射能ではなく伝染性の黄疸との米側見解を、日本側も最近になって受け入れ始めた」と公式声明
1955/8/24
広島市中島本町、平和記念公園内の原爆資料館が開館。資料100点を展示。初日から600人でにぎわう。初代館長、長岡省吾氏
1955/8/24
映画「無限の瞳」をつくった東京・成城高校の生徒たちが原爆被災者救援に立ち上がる
1955/8/26
広島市訪問中の米整形外科医ウィリアム・キスカダン博士(元米国整形外科医会長)が「米で医療団を結成し原爆被害者の治療に来たい」。市民病院で特別合同診察会
1955/8/30
東京在住の広島、長崎原爆被害者250人で組織する「原爆被害者在京人会」(原爆被災者の会)の会員20人が都内で懇談会
1955/8/--
中国電通局が編集中だった電通関係原爆犠牲者の死亡状況、電信電話の被害と復興状況を記録した「広島原爆誌」が完成
1955/8/--
忘れられていた戦時中の組合貯金が10年目に発見され、広島市へ寄付。990円93銭
1955/8/--
ABCCのロバート・ホームズ所長が被爆10周年で過去10年のABCCの研究成果を発表。「強力な放射能は一時的に不妊症を引き起こす。しかし、一定期間後には妊娠能力は回復し遺伝的影響は少ない。過去8年にABCCが白血病患者と確認したのは計64人、うち11人が生存」
1955/8/--
米UP通信、仏ルモンド、中国セントラル・ニューズ・エイジェンシーから中国新聞社を通し広島市民にメッセージ
1955/8/--
永井隆博士の遺児、誠君(20歳)と広島原爆で父を失った森紀久子さん(20歳)が中国新聞紙上で、10年を振り返り対談
1955/8/--
広島大医学部が大竹市の原爆障害者に被災手帳を交付し無料検診決める
1955/8/--
広島市長の平和宣言文を39カ国に151通、国内420市長へ送付へ
1955/8/--
庄原高校教諭の益田礼助氏と広島女子短大教授の美佐子夫妻が原爆で失った愛児をしのび歌文集「追憶」を出版
1955/8/--
米で40人の聖職者と教育者が共同で「日本の都市に原爆を投下したことをざんげし、これを平和推進への力に変えよう」との声明を発表。評論家のルイス・マンフォード、ノース・ウエスタン大哲学科教授ポール・シルプ、アプルトン・ローレンス僧正らが中心
1955/8/--
芹沢光治良氏「サムライの末裔」、角川新書から出版(「原爆被災資料総目録・第1集」)
1955/8/--
小田切秀雄編「原子力と文学」、講談社から刊行(「原爆文学史」)

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