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ヒストリー

ヒロシマの記録1955 11月


1955/11/4
ハワイ大学長のグレッグ・シンクレア氏が広島市を訪問
1955/11/6
トーマス・フランシス博士を委員長とするNAS‐NRCの特別委員会がABCC研究計画の再検討。固定集団を基盤とする総合研究計画を勧告。「将来、ABCCの日本移管を真剣に考慮する必要がある」
1955/11/7
国連総会第1委員会(軍縮・政治)が放射能の影響を調査する放射能調査特別委員会の設置を決定。日本含む15カ国で構成
1955/11/7
広島市が原爆資料館充実のため、都築正男日赤中央病院長、中泉正徳東大教授など全国の専門家に300通の依頼状発送
1955/11/7
広島市が広島仏舎利塔建設委員会を開き比治山を建設適地と決め、10階建て案を6階に変更
1955/11/7
富士山ろくで極東米陸軍第5野戦ロケット砲隊がオネストジョンの試射
1955/11/9
第1回ABCC日本側評議会を東京で開催(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1955/11/11
世界平和アピール7人委員会が発足。著名国内7文化人が国連の世界連邦化、世界人民会議開催などを訴え平和アピール。湯川秀樹博士、下中弥三郎世界連邦建設同盟会長、前田多門ユネスコ国内委員長、茅誠司日本学術会議会長、平塚らいてう婦団連会長、植村環YWCA会長、上代たの日本婦人平和協会会長
1955/11/12
広島市公会堂で第6回全日本中学校長会広島大会。広島市幟町小の級友ら8人が故佐々木禎子さんの遺影を抱いて会場入り口で「原爆の子の像をつくりましょう」とのビラ2,000枚を配る。「私たちの仲よしであった佐々木禎子さんが10月25日、原子病で死んでしまわれたのです。…私たちは禎子さんが原爆のことをいって死んでいかれた心が悲しくてなりません。せめて原爆の子の像を作って、同じようになくなられた子らの霊をまつってあげたいのです」。鳥取県代表提案の「原爆孤児救済」、長崎代表の「原水爆使用禁止」を各満場一致で決議
1955/11/12
東京・日比谷公会堂で開かれた全国社会福祉協議会大会で(1)原爆障害者の治療費全額国庫負担(2)原爆被爆生存者の健康管理実施(3)原爆被害の調査、研究、治療機関の設置(4)原爆犠牲者に対する年金制度の制定と救済措置-を決め大会名で衆参両院に陳情へ
1955/11/12
日本原水協にソ連平和委員会から「原爆被災者の救援資金に8万ルーブル送る」と連絡
1955/11/12
東京・参院議員会館で日本原水協被爆救援委員会開く。11月15日から年賀はがき600万枚を売り、1枚10銭を被爆者救援カンパにあてる。国民1人1円募金も12月からスタートさせる-など決定 1955/11/14
日米太平洋沿岸市長会に出席したアラン・ポメロイ・シアトル市長ら米側代表46人が広島訪問
1955/11/14
日米原子力協定が正式調印
1955/11/15
広島市の人口37万2,976人に
1955/11/15
電力9社が電気事業連合会に原子力発電連絡会議の設置を決定
1955/11/19
長崎市内の民間24団体が参加して原水爆禁止長崎協議会(長崎原水協)を結成。会長は古屋野宏平長崎大学長(「長崎年表」)
1955/11/22
米第9軍団司令部(仙台)が札幌調達局に対し札幌でのオネストジョン発射演習に協力要請。北海道知事は反対を表明
1955/11/23
米政府原子力委員会が「ソ連は最近数メガトン規模の過去最大の原爆実験を行った」と発表。水爆実験の可能性強まる(11・25、11・25夕)
1955/11/26
広島県教育会館で原水爆禁止広島県民協議会発足。代表委員に大原博夫、渡辺忠雄、浜井信三、松本鶴子、沖本重一、大原亨、森滝市郎の7氏を選ぶ。(1)8月6日の原水禁大会を毎年開く(2)運動の自主性を守りながら被害者の救援に努力し、原爆の実相を世界に訴える(3)12月1日から1人1円以上の県内500万円募金-を決定
1955/11/26
ソ連が水爆実験の実施を発表。「最近新しい型の原子力兵器並びに熱原子核兵器(水爆)の実験を行った。水爆は放射性物質の降下を避けるため非常な高空で行われた」。27日、タス通信は「ソ連の核実験はTNT数百万トンに相当」と発表
1955/11/28
東京・杉並の気象研究所三宅研究室(主任教授、三宅泰夫博士)が3日間に同研究室の1平方メートルの水盤に落ちたチリから毎分2万カウントの日本過去最高の放射能を検出。各地で放射能雨、チリの発表
1955/11/29
京都大理学部地球物理学教室気象学特別研究室がソ連の水爆実験は11月22日、ゴビ砂漠と発表
1955/11/29
札幌近郊の北海道・島松演習場で米軍が抗議をよそにオネストジョンの発射訓練を実施
1955/11/30
財団法人日本原子力研究所設立。理事長、石川一郎経団連会長(「近代日本総合年表」)
1955/11/30
平和運動に半生をささげた大山郁夫氏が死去。75歳。兵庫県赤穂郡若狭野村出身。早稲田、シカゴ、ミュンヘン大を卒業、帰国後早稲田大教授。大阪朝日新聞論説記者となったがシベリア出兵反対で退社。労働農民党委員長、同党が解散させられた後、新労農党を組織。米国亡命。戦後は京都府から参院議員に当選。平和擁護日本委員会会長
1955/11/--
水爆の脅威下に生きる人間の姿を描いた映画「生きものの記録」完成。黒沢明監督、三船敏郎主演。東宝作品
1955/11/--
米海軍岩国航空基地の兵士家族の原爆孤児養子縁組増える

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