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ヒストリー

ヒロシマの記録1954 1月


1954/1/6
広島原爆被害者の会(吉川清代表)が大阪弁護士会の岡本尚一氏を訴訟代理人に「原爆による損害賠償請求」を米の裁判所に訴えることを決める。被告は米政府とトルーマン前米大統領。岡本弁護士「広島、長崎に投下された原爆は国際法上、違反であるから損害賠償の請求は可能である」
1954/1/7
精神養子縁組を結んだ米の精神養親から原爆孤児の1人に高校進学のための学資届く
1954/1/7
アイゼンハワー米大統領が政権2年目の年頭一般教書。「力の平和」強調し核兵器の積極活用打ち出す(1・9夕)
1954/1/8
米政府などを相手取り原爆訴訟を起こす「原爆損害求償同盟発起人総会」が東京・学士会館で開く。発起人代表、日本弁護士連合会理事岡本尚一弁護士、日本自由人権協会理事長海野晋吉弁護士、作家の大田洋子、国際友和会日本支部書記長関屋正彦氏ら平和運動関係者10人が出席。死者1人当たり100万円、負傷者は障害程度に準ずる金銭代償を求める。岡本弁護士「原爆は必然的に人民を殺傷しようとする凶器で、これを投下したことは無意志の人民を殴殺したものと考える。アメリカの良心的な裁判官もわれわれの訴えには賛意するものと確信している」。大田洋子氏「原爆使用というアメリカの過去の罪は罪としてあくまで追及するべきです。一方がこうした訴えをすることで将来人類の歴史から戦争を放棄するべく世界の各国民によびかけるのは当たり前のことでしょう」
1954/1/8
米の原子力科学者ボーン・ポーター氏が広島市を訪問。ブラウン大で物理学を専攻し原子力研究に従事、戦争のための研究と知り政府研究所を辞職
1954/1/8
西ドイツ・ジェスイット伝道班が8月6日の広島平和記念聖堂献堂式にアポスタリック・ヌンシオ大司教が出席と発表
1954/1/12
米法律専門家が原爆賠償要求に法的根拠疑わしいとの見解示す。「戦争中の敵国に対するこのような攻撃行為によって米政府が法律上の責任を負うことはない」(1・12夕)
1954/1/15
広島原爆被害者の会(300人)が原爆損害賠償請求の原告候補として13人を決める。吉川清(全身の二分の一を火傷)、温品道義(左足切断)、下田隆一(腹部火傷、子供5人死亡)、三木正(両眼失明)氏ら
1954/1/15
中国新聞に、原爆損害求償同盟に対する反対の投書。「原爆使用の罪を金によって償わすことは、アメリカに金さえ出せばいかなることをしても折り合いがつくと信じさせることになる…」
1954/1/18
オーストリアの新聞記者A・ヘグナー氏が、広島市を視察
1954/1/18
原対協が月1回開く障害者の定期診察を日赤、県、逓信、市民の4病院で交代に実施を決める。「合同診察」の第1回
1954/1/18
広島大医学部で職員、学生対象に原爆被災調査を始める
1954/1/20
原爆1号吉川清氏が「広島原爆被害者の会」を脱会。「原爆損害訴訟を幹事会だけで決めるなど運営が非民主的だ」
1954/1/21
米コネティカット州グロトンで世界初の原子力潜水艦ノーチラス進水式
1954/1/23
原爆孤児たちがあまり手紙を出さないため、米国の精神親たちの関心が薄れてきている、と米ヒロシマ・ピース・センターから浜井広島市長に手紙。広島市と施設が話し合いヒロシマ・ピース・センターの翻訳業務などを強化し、文通をスムーズに進めることを決める
1954/1/23
「広島原爆被害者の会」が15日の投書に反論。「訴訟の本旨は原爆投下が人類に対して許されない不法行為であったことを国際的に明らかにし、今後原爆を使用させない、戦争を防止することにある。…責任を追及しないで相手を許すというのでは、悲しむべき結果しか起きない」(1・23)
1954/1/30
ベルリンでダレス米国務長官とモロトフ・ソ連外相が原子力プール問題で第1回会談
1954/1/30
原子爆弾の製造を政策的に指導した米ワシントン大総長アーサー・コンプトン氏ら世界同胞運動の幹部が来日。「私は原爆の投下によって数百万の日本国民や米国市民の生命が救われたと考えている。原爆だけを他の問題と切り離して禁じることは賛成できない」
1954/1/31
広島原爆被害者の会が約30人出席し広島市で第2回総会
1954/1/--
米政府原子力委員会のゴードン・ディーン前委員長の「原子についての報告」。世界の原子爆発=1945年米3回(米アラモゴード、広島、長崎)、46年米2回(ビキニ環礁)、47年0回、48年米3回(エニウェトク環礁)、49年ソ1回(セミパラチンスク)、50年0回、51年米16回(12回ネバダ、4回エニウェトク)、ソ2回(不明)、52年米11回(8回ネバダ、2回エニウェトク、1回不明)、英1回(オーストラリア・モンテベロ)、53年7月1日まで米11回(ネバダ)(1・10)
1954/1/--
広島市の加東忠夫氏が孤児、未亡人、遺族、病気療養者などの戦争犠牲者救済へ「みどり会」結成 1954/1/--
日本赤十字社が4月にジュネーブで開く国際赤十字主催の「空襲および原水爆などから一般人を守るための国際専門家会議」に都築正男東大名誉教授の派遣を決める
1954/1/--
広島大の高木貫一教授(心理学)が原爆被災児と非被爆児の間に精神機能障害で差はないと結論 1954/1/--
世界平和広島仏舎利塔建設会が4月に日本山妙法寺の主催で開く広島平和者会議への不参加を決める(1・10)
1954/1/--
文部省、日本学術会議などが協力し英文の「日本医学抄録誌」出版へ。原爆症研究なども収録
1954/1/--
米に対し原爆投下責任を問う機運が徐々に高まる。15日付中国新聞「アメリカは原爆都広島に何をしたか。-戦争終結を早めるため原爆第1号が広島市に投下されたことの是非論はいくたびか繰り返されいまだに結論が出ていないが、一瞬にして廃虚と化し、20数万の人命を奪い8年を経過した今日でもなおその傷跡はぬぐいさられていないという現実は否定することのできない事実である…」(1・15)

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