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ヒストリー

ヒロシマの記録1954 2月


1954/2/5
市民の輸血リレーむなしく、被爆による再生不良性貧血で国泰寺中学1年行広澄江さんが死去。13歳(2・7夕)
1954/2/5
東大医学部で、原爆障害に関するABCCと日本側の原爆災害調査研究班による初の日米合同討論会
1954/2/8
浜井広島市長が原爆損害求償同盟への参加断る。「戦争行為としての原爆兵器使用が許されるかどうか法理論的に徹底究明が行われるのは賛成だ。しかし、アメリカを相手の裁判は泥仕合のきらいがあり参加したくない。民間の団体がこうした企てをすることに反対はしない」
1954/2/11
ジョー・ディマジオ、マリリン・モンロー夫妻が広島市内を視察
1954/2/11
原対協が広島市内原爆障害者の実態調査始める。約4,000人の分布図をもとに治療促進へ。厚生省の国立予防衛生研究所に設置された原爆症調査研究協議会の予算100万円を長崎市と分配し実施
1954/2/13
広島市で4月に開かれる世界平和者日本会議広島大会準備打ち合わせ会を開く。広島大会準備委員会の名誉会長に浜井市長、会長に鈴川貫一氏
1954/2/14
米ネブラスカ州「少年の町」の故フラナガン神父の後継者ウェグナー神父が広島市を訪問
1954/2/18
広島医師会館で原爆症調査研究協議会の第2次会合。「調査研究協議会は原対協とは一線を画し当分は治療は行わない。原爆症の範囲として外科的症状は熱傷瘢痕、内科的症状は白血病、貧血病に決めて今後に処す」。都築正男東大名誉教授「慢性的原爆病は貯金無く日々を暮らしている人々と同じ」
1954/2/19
京都で第1回原子力核懇談会。毎月の定例会とすることを決定
1954/2/20
広島の歌人、短歌同好の士が発起し原爆歌集「広島」の作品公募。編集委員に豊田清史氏ら
1954/2/21
呉市で第6回広島医学会総会。モートンABCC所長、都築正男東大名誉教授らが出席。広島大浦城内科教室「被爆者に心臓障害が多い」との調査結果を発表
1954/2/22
広島子どもを守る会(森滝市郎会長)創立1周年。国内精神養子51組に
1954/2/25
県立広島病院に入院し白血病と闘っていた皆実小学校3年、宮本雅一君が死去。10歳
1954/2/28
広島大構内で原爆犠牲者とみられる遺骨が発掘される
1954/2/--
ヒロシマ・ピース・センターが米の精神養親に孤児の消息を英文で知らせる月報の発行を決める
1954/2/--
県立広島病院の門前徹夫医師が被爆者に肺がんとリンパ性細網肉腫の発生を認め、学会発表へ
1954/2/--
「原爆障害者に治療の光明を」。原対協の障害者実態調査に当たった調査員の手記が中国新聞に

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