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ヒストリー

ヒロシマの記録1954 3月


1954/3/1
広島市が浜井市長名で全国の市長に平和記念公園への植樹協力を要請。4月中旬までに続々苗木
1954/3/1
ビキニ水爆実験で同環礁付近に出漁していた静岡県焼津市の漁船第五福竜丸(99トン)が東方約110キロ離れて実験に遭遇。せん光を目撃、7、8分後に爆発音、10分ほどして船体が真っ白になるほど灰が降り始める
1954/3/1
米政府原子力委員会がマーシャル諸島で原子力爆発を行ったと発表。「1日、第7機動部隊はマーシャル諸島の指定実験区域で原子力装置を爆発させた。この実験は引き続いて行われる一連の実験の最初のものである」。実験はその後、新型の水爆実験でビキニ環礁で行われ、爆発力は予想を上回り科学者たちを驚かした、と伝えられた(3・3夕、3・12夕、3・15夕)
1954/3/1
シオン会(原爆乙女の会)の4人が協力し広島市宇品に県内唯一の盲児収容所。保母、炊事婦に乙女の会の和田雅子、原田多賀子、川崎景子、松原美代子さん
1954/3/6
4月に開く世界平和者日本会議広島大会の準備委役員が決まる
1954/3/11
世界連邦建設同盟の稲垣守克氏らが広島市に世界連邦都市宣言の実施を呼び掛け
1954/3/14
第五福竜丸が焼津港に帰港。乗組員23人全員が実験遭遇後4、5日して全身に火傷状態の障害を起こし、帰港時には数人の頭髪が抜け火傷がひどくなっていた。重症の2乗組員を東大病院で診察
1954/3/15
東大病院が第五福竜丸の2乗組員を原爆症と診断。1人入院
1954/3/16
米週刊誌タイムが「3月1日のビキニ水爆実験は広島型原爆の500倍の威力のTNT火薬1,000万トンに相当」と報道。ダレス米国務長官が第五福竜丸事件で「不幸な事故である。この事件について私は今朝知ったばかりでどう処理するか考えていない」。コール米議会原子力委員会委員長「不幸な被災者にはできるだけのことがなされよう。米医学会の最高権威による治療も得られよう。またもし実験場付近にいたのが不注意、過失、警告無視でないのなら米政府は補償すべきである」 1954/3/16
静岡県が第五福竜丸から放射能を検出。東京・築地市場に出荷された魚からも放射能。出荷停止処分を取ったが各地で既に販売、食べた人々も
1954/3/17
原対協が原爆で傷を受けた女性のために、特殊化粧方法の発明者、米のオリアリー夫人招待決める
1954/3/17
航海日誌から第五福竜丸の被爆地点は米軍が定めた禁止区域外であることが判明。中泉正徳東大教授を団長とする東大調査団「放射能は予想以上に強い。しかし、患者に生命の危険はない」
1954/3/18
ビキニ被災事件で関係閣僚懇談会。「日米共同で真相調査に当たる。日米親善を考慮し抗議、賠償要求という形は取らない意向でさらに検討する」▽東大医学陣が第五福竜丸の浴びた灰はサンゴ礁の破片と見解発表
1954/3/18
第五福竜丸乗組員の治療で都築正男東大名誉教授の要請を受けABCCから6人上京。モートン所長、下村誠一医師ら
1954/3/19
米上下両院合同原子力委員会がビキニ事件で原子力委員会の職員を呼び証言を聞く。コール委員長「避け得た過失がなかったかどうか決定を下すため」
1954/3/19
米権威筋が第五福竜丸事件は米側の不注意と認める。東大医学・理学陣が「乗組員の症状は広島・長崎の原爆症と違い『急性放射能症』と名付ける」。実験では米観測員28人と現地住民236人も放射能にさらされたとの報道も(3・21)
1954/3/20
米国防総省が次回の水爆実験の危険区域はこれまでの数倍に拡大されると発表。国務省はビキニ事件で憂慮の念を表明。「米政府は日本人漁船員数人がマーシャル諸島における原子力実験で被災したとの報道に憂慮している。米政府は広範な海域に対する警告措置を含む周到な警戒手段を取ったにもかかわらず、なぜ今回の事件が起こったかを究明するため日本政府と協力して調査を行っている」。モートンABCC所長らが焼津を訪れ乗組員らを診察、焼津港に保留中の第五福竜丸の放射能検査を実施
1954/3/22
右派社会党が原子力の国際管理と平和利用、原子兵器の使用禁止および原子兵器の実験の国際管理を実現する決議を衆院に提出。第五福竜丸の米国引き渡しにも反対を決める
1954/3/24
アイゼンハワー米大統領がビキニ事件で「科学者たちを驚かせるようなことが何か起こったに違いない。爆発地点の比較的近くにいた人々が受けた被害に関する報道は実際の被害を誇張したものである」
1954/3/24
ビキニ事件で第1回日米連絡協議会。治療上の技術的問題は日本側の原爆症調査研究協議会(会長、小林六造予研所長)で討議を続けることを決定。日米学者の間で対立感深まる。厚生、外務省は米側意向を重視し乗組員を東大病院と国立東京第一病院の2カ所に分散入院を勧める。都築正男東大名誉教授「治療に必要だから灰の性質を教えてくれと頼んだら、アメリカはその必要はないと断ったじゃないか。いまになって、なんの日米合同調査だ」
1954/3/25
アリソン駐日米大使がビキニ被災乗組員に対し補償金の暫定支払いを声明。「第五福竜丸事件の日米共同調査が完了するに先立ち米政府は暫定措置として被害者の医療費、賃金、家族救済費など必要と認められる金銭的援助を日本政府が行えば、これを償還する用意がある」
1954/3/26
閣議が「第五福竜丸事件の善後措置に関する打合会」を設置。第1回会合で被災乗組員全員を原則として東大病院に移すため27日、米軍機で移送、第五福竜丸は政府で買い上げる-などを決める
1954/3/26
被爆漁船第2号の第13光栄丸が神奈川県三崎港に帰港。マグロ34トンは海中投棄
1954/3/26
米がマーシャル諸島実験地でこの年2回目の熱原子核爆発(水爆)実験。政府原子力委員会が発表(3・31夕)
1954/3/27
広島市文化団体連絡協議会・準備委員会(131団体)が「一切の原子兵器の即時禁止と厳重な国際管理を要求する」と決議。4月7日からスイス・ジュネーブで開く国際赤十字会議参加の都築正男東大名誉教授に託す
1954/3/27
外務省がビキニ被災事件で被災当時の状況をまとめ米大使館に手渡す。第五福竜丸の航跡および行動の概要、被災前、現地において米当局から何の警告も受けなかったことなどをまとめる
1954/3/28
阿川弘之氏が新潮社から「魔の遺産」出版(「原爆文献誌」)
1954/3/29
ネール・インド首相が米その他の水爆保有国に対し水爆実験をやめるよう要請。「(ビキニ事件は)人間が今日自分で全く判断できない力を使用していることをはっきり示したものである。…われわれはこれまで原爆や水爆が使用されるような大戦争が起きることを恐れていたが、いまでは戦争が起こらなくてもこの実験が対策もないほどの大破壊をもたらす可能性があることを知った」
1954/3/30
チャーチル英首相が米の水爆実験で声明。「対米実験中止要求は英にその権限はなく、賢明な措置ではない。実験を国際管理下に置くことは不可能。実験は米の防衛上、必要」
1954/3/31
広島市基町の原爆資料館館長、長岡省吾氏がビキニ被災の記録を焼津、東京で収集し広島へ持ち帰る
1954/3/31
ルイス・ストロース米政府原子力委員長がアイゼンハワー米大統領の定例記者会見で「米はいまやニューヨーク全市を破壊し尽くせるほどの強大な水素爆弾を作ることが可能になった」と言明。さらに(1)第五福竜丸は被災当時、危険区域内にかなり入っていた(2)23人の漁船員はそれほど深刻な被害は受けていない(3)実験地は住民地域を含むと言われるがでたらめ-などと発言
1954/3/31
外務省が米に危険水域の縮小、実験期間の制限などを求める覚書出す
1954/3/--
原爆損害求償同盟から協力を求められていたニューヨークの国際人権連盟議長ロジャー・ボールドウィン氏が断りの手紙。「原爆賠償の訴訟が成立するなら焼夷弾による被害者も賠償請求できる。原爆訴訟は法律的に根拠がなく、日米関係にも有害」
1954/3/--
原対協文化委員の田辺耕一郎氏が「原爆障害者の方々へ」と題し中国新聞を通して治療受診を呼び掛け。「生きることに絶望しないで、ひがみやのろいに陥らないで、どんな不自由なからだ、苦しい暮らしでも、生きていることの心の喜びを見失わないで下さい」
1954/3/--
原子爆弾をテーマにしたサスペンス英映画「戦慄の7日間」封切り
1954/3/--
主婦連合会、地域婦人団体連合会、生活協同組合婦人部が共同で決議。「原水爆の悲惨な被害は人類滅亡の道であることを示しました。私たち日本の婦人は私たちの受けた犠牲が将来、世界のいかなる国にも繰り返されてはならない、死の灰をこれ以上、世界の空から降らせてはならない、と固く決意しました。原子兵器の製造、実験、使用が禁止され、原子力の国際管理と平和利用の世界的保証がなされないかぎり、人間生存のいかなる努力ももはや無駄になりましょう。あなた方も私たちも、再度犠牲者になってはなりません。地球上から死の灰を消すために私たちの切なる叫びをお聞き取りください」(「原爆三十年」)

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