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ヒストリー

ヒロシマの記録1954 4月


1954/4/1
岡崎勝男外相がビキニ被災で「責任の所在が明らかになれば責任者の処罰、陳謝、損害賠償、将来の保障という方法で対米交渉を進めたい」
1954/4/1
世界平和者日本会議が東京・赤坂の国立国会図書館に各国代表200人が集まり開く。原水爆禁止平和宣言などを決議。羽仁五郎氏ら代表報告
1954/4/1
米政府民間防衛局がマスコミを通し1952年11月、マーシャル諸島エニウェトク環礁で行った初の米水爆装置実験の記録映画(28分)を公開。長さ1.6キロ、幅400メートルの島は爆発とともに吹き飛ばされ、あとには海中に直径1.6キロ、深さ53メートルの穴だけが残った
1954/4/1
衆議院が「原子力の国際管理に関する決議案」(各派共同提案)を全会一致で可決。「本院は原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置を取ることを要請する」(4・2)
1954/4/2
世界平和者日本会議が原水爆実験禁止、原子兵器の廃棄・製造禁止を要請するアピールを採択
1954/4/3
米政府が1952年の第1回水爆実験のカラー版映画の海外頒布を禁止。「水爆実験の不安を加速する」(4・6)
1954/4/3
東大理学部木村研究室がビキニの「死の灰」からストロンチウム90を検出
1954/4/5
参議院が「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議案」を全会一致で可決
1954/4/6
英外務省が1945年8月、米の対日原爆攻撃に英も同意していたことを明らかにする
1954/4/6
国際赤十字主催の「空襲および原水爆から一般人を守るための国際専門家会議」が日本の都築正男東大名誉教授ら11カ国15人が参加しスイス・ジュネーブで開く(4・8夕)
1954/4/6
米がビキニ環礁で3回目の水爆実験。ストロース米政府原子力委員長が7日発表。アイゼンハワー米大統領が水爆を含む原子力兵器の増産勧告案を承認
1954/4/6
第五福竜丸乗組員が米側医師団の診察拒否。外務省は患者の意向を尊重し米の診断は当分見合わせることを決める。東大の中泉正徳教授が記者会見で「米側が補償問題と切り離して単に研究のためだけに患者を診察することはどうかと思う。放射性元素が骨髄に与えている影響いかんによっては患者の白血球数がいったん回復しても漁業などの激務には耐えられないかもしれない」
1954/4/7
広島市二葉山山頂に建設する仏舎利塔の設計図が完成。高さ40メートル、工費3億円で1954年秋着工。施主代表は台湾の王文成氏、中国華商の全面協力を仰ぐ(4・8)
1954/4/7
アイゼンハワー米大統領が記者会見で「米はこれまでに、すでに完成したものより大きな水爆をつくらない」と言明
1954/4/8
国連インド代表がハマーショルド国連事務総長に水爆実験中止と、実験が日本国民に与えた影響に国連軍縮委員会は特別の注意を払うべきだと要請
1954/4/8
広島市山手町の加藤真之助氏が原爆のせん光の跡をとどめる同町の竹(爆心から2.5キロ)を原爆資料館に寄付
1954/4/8
福井芳郎画伯が中国新聞社ホールで「広島原爆絵画展」
1954/4/10
広島市本川小で、世界平和者日本会議広島大会が始まる。インド・ネール首相代理のカレールカ博士、1953年度スターリン平和賞受賞者ジェームス・エンディコット牧師(カナダ)ら海外代表16カ国34人、国内代表110人が出席。グラディス・オーエン英代表「戦争中、連合国として広島に原爆を落としたことを深く責任を感じるとともに、おわびしたい」
1954/4/12
世界平和者日本会議広島大会が「原子兵器使用絶対禁止」を宣言し閉幕。「世界最初の原爆による日本の災厄は、9年を経てなおその後を絶たず、生き残った者の肉体をむしばみ尊い人命を奪いつつある。この実相こそはまさに人類の滅亡を警告し原子力の賢明な処理を世界に向かって要請するものである…」
1954/4/12
平和憲法擁護大会に出席のため広島市を訪れた学習院大教授清水幾太郎氏が精神養子と初対面 1954/4/13
国際赤十字の原水爆に関する国際専門家会議が「原子戦争において民衆を守る唯一の道は兵器の力に制限を加えることである」とのコミュニケを発表
1954/4/13
米の原爆開発の指導者、オッペンハイマー博士が保安上の問題で告発され数カ月前から政府原子力委員会;p問委員を休職に。容疑は1940年代のはじめに共産主義者と交際があった、水爆製造に反対した-など
1954/4/14
原爆症調査研究協議会臨床小委員会の中泉正徳委員長が第五福竜丸乗組員の容体について、「白血球数はようやく増加を始めやや安心できる状態になった。しかし、骨髄中の細胞が増えない点に問題がある」と発表
1954/4/15
大阪で開かれた第1回全国教戒師大会が「原水爆の禁止、原子エネルギーの平和的利用」を世界に呼び掛ける決議
1954/4/16
原対協が障害者の治療費国庫負担めざし特別措置法制定推進運動決める。要望項目(1)原爆症患者の治療費全額を国庫負担とする(2)前項と併せて原爆障害者の生活援護について特別保護法を制定する(3)障害者の健康管理や、治療のセンターとして広島市民病院に特別設備をし、常時障害者に利用させる(4)ABCCの設備一切を委譲するよう斡旋方をお願いする
1954/4/16
第3回広島まつり開幕。3日間
1954/4/19
岡山県議会が「原子力国際管理、原子兵器使用製造実験禁止のため適切な処置を講じ、被害防止に万全を期されたい」との意見書を可決
1954/4/19
東京都衛生局が17日東京中央市場桟橋に入港した第11高知丸のマグロ一部廃棄処分を決定
1954/4/19
海上保安庁が外務省通じ米に水爆実験後の海流調査を文書で依頼へ
1954/4/19
政府が内閣総理大臣の諮問機関として原子力利用審議の会設置を決める
1954/4/19
県立広島病院職員の遺骨66柱を戦災供養塔へ移す。氏名判明しているが引き取り手なし
1954/4/20
日本赤十字社が5月にノルウェーで開く赤十字社運営理事会に「原子兵器の使用を速やかに禁止する」などの決議案を打電。日本代表として重藤文夫広島赤十字病院長ら4人派遣へ
1954/4/20
ビキニ被災の原爆症調査研究協議会臨床小委員会(委員長、中泉正徳東大教授)が、乗組員の容体が米で実際以上に軽く見られているため、主治医団の名で真相公開状を米学会と同国民に対し発表することを決める。「患者の容体は楽観を許さず、ことは重大だ。骨髄細胞の減少は現在でもほとんど回復の兆しが見られない。米医学者に再三助言を求めたが、なんらの回答もない」。「(患者の容体は)悪化の状態を続けている。一部重症者については予測を許さない。前回(4月14日)もこのことを訴えたが、一部新聞報道は真意を誤って伝えている」
1954/4/21
広島市中央公民館で開かれた労働省婦人少年局広島分室主催の第6回婦人会議広島大会で、閉会後に迫千代子氏から原水爆問題が提案される。その場で市川千代子氏(国鉄労組)ら10人の発起人を決め、原水禁広島市民大会開催へとつながる
1954/4/22
厚生省放射能検出班が神奈川県三崎港に入港の第7明神丸のマグロなど3,750キロから放射能を検出。廃棄処分に
1954/4/22
日本学術会議が1954年度予算で同会議を無視した原子力予算が計上されたことを重視。政府に対し「今後の原子力問題の重要事項は本会議に諮問されたい」と要望(4・23)
1954/4/22
駐米日本大使がスミス米国務長官代理とビキニ問題で協議。スミス長官代理「日本の原爆症調査研究協議会の20日の発表は科学的根拠が薄弱で真実と受け取れない個所がある」とし、米側医師の診察を要求
1954/4/23
日本学術会議総会が「わが国では原子兵器に関する研究を行わないのはもちろん、外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならないとの固い決意を持っている。この精神保障の原則として原子力の研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され、国民に周知されることを要求する」との国内向け声明と「原子力の平和利用、原水爆の実験中止、原子兵器の廃棄、原子力の国際管理の確立」を訴える対外声明の2つを採択し閉幕
1954/4/23
精神養子縁組で孤児に対する米の精神養親の関心が再び高まる。ノーマン・カズンズ氏夫妻が広島を訪れ孤児たちの様子を調査し作成した広島報告が精神養親に配られたため。浜井広島市長にニュージャージー州のヒロシマ・ピース・センター同志会から手紙
1954/4/23
国連軍縮小委員会が「原水爆禁止を含む軍事問題についての秘密会議を5月13日、ロンドンで開くことに意見一致した」と発表
1954/4/23
外務省が駐米大使に「米はビキニ被災の医療報告を誤解している。誤解を解くように」と訓電
1954/4/23
大阪市立大の西脇安・助教授夫人ジェーンさんがアイゼンハワー米大統領に水爆実験の日本への影響をまとめ中止を要請する手紙を送付
1954/4/23
米生まれの仏シャンソン歌手のジョセフィン・ベーカーさんが広島市を訪問。原爆慰霊碑に参拝(「増補ヒロシマの記録」)
1954/4/24
オーストラリアから帰港した靖川丸から放射能検出。オーストラリア航路も危険に
1954/4/25
広島一中遺族会(秋田正之会長)のわが子、兄弟をしのぶ追憶集「追憶」出版。186ページの小冊子。鰌書房から8月に「星は見ている」として再版
1954/4/26
東京で第5回広島市建設促進協議会。厚生省の楠本正康環境衛生部長「これまでは原爆障害者だけをとくに国で補償することは他の戦争犠牲者と区別することになるので難しかったが、ビキニ事件などにかんがみ原爆障害者に対する国家補償は早急に確立されるべきであろう。広島、長崎の障害者も当然補償を受けられるが、生活保護までは困難であろう。国家補償に関する予算は1955年度より計上する方針である。しかし、このため特別立法はせず行政措置で実施することになろう」
1954/4/28
厚生省の楠本正康環境衛生部長が原爆障害者の国家補償で「外傷患者まで国が治療するとなると、焼夷弾などで同じように傷を受けた人をどうするかという問題が起きて国の予算では不可能である。したがって臓器障害とか血液障害の患者に限られる。…日本も原爆症に対する研究治療および予防対策に真剣に取り組まなければならないが、研究と治療は裏腹の関係にあるので、原爆障害者を治療すると同時にこの予防対策を行おうというのが趣旨である」(4・29)
1954/4/28
広島で原水爆禁止広島市民大会準備会。大会は5月12日、主催は原水爆禁止広島県民運動連絡本部、事務局は婦人会館内に(実際は5月15日開催)。常任世話人は杉原イヨミ、多田深雪、四竈一郎、渡辺鼎氏ら
1954/4/30
フロイド・シュモー氏が夫人を伴い広島入り。「ビキニ被災事件は米の落ち度だった」
1954/4/--
京大、大阪市大が17、18日に同地方に降った雨から放射能を検出。水爆実験による放射能チリが雨とともに地上へ

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