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ヒストリー

ヒロシマの記録1954 11月


1954/11/1
川手健氏ら同人誌「作品」創刊(「ヒロシマ・二十五年」)
1954/11/1
東京で世界連邦第2回アジア会議始まる。1,000人参加。5日間
1954/11/8
吉田首相がワシントンで「米は水爆実験に対する日本国民の不安を相当考慮していると確信している。しかし、日本国民は米が水爆実験をやらねばならない正当な理由があることも十分理解している。日本国民は自由世界を防衛するために進まねばならないのだ」
1954/11/10
広島市民病院で第13回原爆障害者合同診察会。都築正男日赤中央病院長、中泉正徳東大教授らが参加(11・11)
1954/11/10
広島市青年連合会が世界連邦第2回アジア会議広島大会に不参加を決定。「役員選出など大会運営が不明朗」。11日、大会準備委が陳謝し、市青連も態度軟化(11・11)
1954/11/11
広島医師会館で厚生省の原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会(原爆協議会)の第1回広島・長崎部会総会。都築正男日赤中央病院長、中泉正徳東大教授、小林六造国立予防衛生研究所長、松坂義正広島県医師会長ら出席。於保源作原対協委員が「広島市に白血病の逆ともいえる『真性多血症』が発症している」と発表
1954/11/11
広島市本川小で世界連邦第2回アジア会議広島大会。海外代表7カ国13人。12日、「被爆10周年の来年は広島で原水爆禁止のための世界大会が開かれることを希望する」「国連が速やかに世界連邦に改組するよう諸国政府に要望し、実現に向けまいしんする」との大会宣言を採択(11・13)
1954/11/15
東京で「放射能物質の影響と利用に関する日米会議」
1954/11/15
各国市長に送っていた浜井広島市長の平和宣言にカナダ・バンクーバー市長から連帯の返事
1954/11/17
ABCCが東京で開く広島・長崎原爆資料公開展で被爆者の遺伝問題を発表へ。「直接被爆者の子供は男子の出生率が減少。先天性障害率、流産・死産率、新生児の死亡率がそれぞれ増加の可能性」
1954/11/19
広島市青年連合会が広島、長崎両原爆都市青年交歓会に向け広島赤十字病院に入院中の原爆患者の要望を収録。輸血費用の確保など経済問題の訴えが多い
1954/11/22
劇団「自由舞台」が広島児童文化会館で「消えじ・灯は」を上演。志和敬介氏作。大陸から引き揚げた夫と被爆家族の悲劇(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1954/11/22
長崎市で第6回広島、長崎両原爆都市青年交歓会。原爆障害者の救済テーマに論議
1954/11/25
東京・日赤本社で日本赤十字社、広島、長崎市主催の「広島・長崎原爆資料公開展」。12月3日まで。ABCC資料、広島市の原爆資料館の長岡省吾氏所有の未発表写真、故永井隆博士の脾臓、故久保山愛吉氏の遺品など408点を展示。26日からは東京在住の原爆被災者に対する健康相談。29日、プロ野球巨人の水原茂監督、川上哲治、広岡達朗選手らが義援金を持ち見学
1954/11/27
原爆資料展出席のため上京していた浜井広島市長が広島市に帰り「公費治療のためにも原爆症の認定方法を決めたい」
1954/11/--
広島市が原爆孤児奨学金制度を発足。基金に山田五十鈴、月丘夢路さんらの寄付も。1955年1月実施(11・17)
1954/11/--
原対協が10月末の広島市の原爆障害者数をまとめる。生存障害者3,111人、治療望む1,567人、内科907人中外科711人
1954/11/--
被爆死した俳優丸山定夫氏をしのび東京で劇団手織座が旗揚げ公演を兼ね「愛(かな)しきは」(八田尚之氏作)を追悼公演。徳川夢声、藤原釜足氏らゆかりの俳優が大挙出演
1954/11/--
原対協がバナナを輸入し利益で原爆治療費の捻出計画。通産省に許可申請

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