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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 3月


1953/3/1
文学界3月号に「原爆時代と文学者」特集。竹山道雄、中山義秀、尾崎士郎、野間宏氏の評論を掲載(「奥付」)
1953/3/1
UP通信が「今春ネバダ州で行われる原子爆発は10回で、これまでの実験で最も回数が多い。10回目は世界最初の原子砲実験の予定」と米消息筋の見方を報じる(3・3夕)
1953/3/2
米キリスト教伝道者スタンレー・ジョーンズ博士が戦後3回目の広島市訪問。「今後の日本では精神的、道徳的復興が急務」
1953/3/3
共同通信が「フランス・カンヌ世界映画祭に参加する『原爆の子』『原爆の図』の2作品が映画祭で公開されるかどうか危ぶまれている。最近、主催者側から突如、参加撤回を日本側に求めてきた。消息筋は政治的干渉と推測」と報じる
1953/3/3
「原爆の子」の編者、広島大の長田新教授が中国新聞夕刊に「原爆の子らに寄せて」を掲載。「皆さんは世界の歴史にいつまでも残るようなよいことをしてくださいました。それは皆さんが書いた血と涙の体験の記録です。英語訳、フランス語訳もドイツ語訳も中国語訳も目下進行中です。つい最近チェコスロバキアからも翻訳をさせてくれと申し込んできました。原爆の子たちは神様の平和の使いになって世界中をかけ回っているのです」
1953/3/5
ソ連のスターリン首相が死去。73歳
1953/3/5
日米親善の一環で米ニューメキシコ州サンタフェ市の児童画108点が広島市に届く。広島側は市内小学校から募集の126点を帰米するサンタフェ市在住者に託す
1953/3/6
ABCCの調査成果など発表する年次大会が広島市で開幕。2日目の7日、遺伝プログラムについてマクドナルド報告。「1952年末までに広島、長崎、呉の3市で生まれた7万人の生後9カ月の乳児の遺伝学的調査が行われたが、現在までのところ、被爆した両親の子供と普通の子供の発育には差が認められない」
1953/3/6
広島城跡の故原民喜氏の詩碑から銅板の「詩碑の記」が盗まれているのが分かる
1953/3/6
原対協が広島市内の外科病院で初の地元治療を開始。対象は原爆障害者7人、うち2人が初日に武市病院と大下病院で手術
1953/3/7
「原爆文学」論争で日本歌人クラブ会員の深川宗俊氏が中国新聞夕刊に「悲しみに耐えて-『原爆文学』論を中心に」を掲載
1953/3/7
第4回広島、長崎両原爆都市青年交歓会が長崎市で開幕。2日目の8日、原爆障害者救済のため「原爆の羽根」発売や街頭募金を決議
1953/3/10
世界平和広島仏舎利塔建設会が第4回総会を開き、建設地を選定する特別委員会設置を決定
1953/3/10
峠三吉氏が死去。広島県賀茂郡寺西町の国立広島療養所で肺葉摘出中、36歳。広島で被爆。戦後、文化活動に投じる。元広島青年文化連盟会長、われらの詩の会主事、新日本文学会中央委員
1953/3/11
阪大病院に入院した広島の原爆乙女4人のうち1人が2回目の手術
1953/3/12
「原爆文学」論争に関連し広島県高田郡三田村在住の歌人、吉光義雄氏が中国新聞夕刊に「原爆文学への祈り」を寄稿
1953/3/12
第2回新国劇「沢田祭」の益金15万円が広島の原爆孤児救済募金として広島市に届く。16日に似島学園など市内5施設に伝達
1953/3/13
全国世話課長会議から帰った笹井博一広島県世話課長が語る。「原爆死亡者の弔慰金は今回、安佐、安芸、佐伯3郡の町村義勇隊と動員学徒を先に大臣裁定を受けることになった。遠からず3万円の遺族国債が届く予定」
1953/3/14
広島と長崎のABCC労働組合が統一組合を結成。本部(広島)と2支部に分かれ、委員長に磯部保氏、書記長に牛尾信隆氏
1953/3/14
原爆乙女の平和の悲願を壁画にして寄贈したい、と大阪市東淀川区の栄養化学株式会社が阪大病院に申し出。入院中の乙女の心に打たれる。壁画制作は新制作派協会の伊藤継郎画伯に委託
1953/3/14
故原民喜氏の詩碑の銅板盗難で柴村春文氏が中国新聞夕刊に「民喜『詩碑の記』銅板どろぼうよ」と題した詩を発表
1953/3/15
故峠三吉氏の告別祭が広島市金屋町の専立寺で。広島県詩人協会、新日本文学会広島支部、人民文学友の会、われらの詩の会、エコール・ド・ヒロシマなどが主催
1953/3/17
米ネバダ州ラスベガス北東のユッカ平原実験場で原爆実験。低空爆発による放射能の人体、建造物に与える影響を調査。全米にテレビ中継
1953/3/20
「原爆文学」論争に関連し、広島女子短大助教授の清水孝之氏が中国新聞夕刊に「原爆俳句序説」を寄稿
1953/3/21
原爆障害者の救済へ広島市青年連合会が紙屋町、八丁堀で募金運動を開始。広島、長崎両原爆都市青年交歓会の決議を受け、22日も
1953/3/22
「原爆文学」論争に関連し、広島大教授の小谷鶴次氏が中国新聞夕刊に「原爆は禁止されるか」の一文
1953/3/27
広島文学協会と中国新聞社などが「原爆の文学」作品を公募。原爆を直接、間接に素材とした小説、戯曲
1953/3/29
原爆被害の損害賠償民事訴訟問題で「原爆被害者の会」が幹事会を開き決議。「条件が整えばいつでも原告者として米政府ならびに原爆投下の決定に参与した米国人を告発する用意がある」
1953/3/29
西ドイツから広島平和記念聖堂に贈られた「平和の鐘」の祝別式。西ドイツ代理公使ハインリッヒ・ノルテ博士らも参列
1953/3/31
「原爆文学」論争に関連し日本ペンクラブ会員の田辺耕一郎氏が中国新聞夕刊に「広島の文学運動」を寄稿
1953/3/31
広島大がABCC顧問として広島滞在中の米政府原子力委員会安全衛生部長ブラント博士を招き、原子力座談会を開催
1953/3/--
1952年度の広島への訪問客は県内外観光客を含め115万7,500人に

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