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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 11月


1953/11/3
ウィルソン米国防長官が国外の米軍基地における原子兵器保有計画を一切公表しない方針を言明 1953/11/3
ダレス米国務長官が記者会見で、スペインの米空軍基地への原爆供給計画を否定
1953/11/4
米政府当局が海外への原子兵器供給問題に関する政策について厳重なかん口令を敷く
1953/11/5
ワシントンの米消息筋は「米が1954年春、太平洋で新たな原子兵器実験を行う際、世界最初の実用的水爆実験が行われるかもしれない」と言明。無線誘導による運搬可能な水爆実験と推測
1953/11/5
米ニューヨーク・タイムズが「米政府原子力委員会は原子力管理法の改正案を作成中」と報じる。政府が独占していた原子力計画に民間産業が参加する余地を開き、同盟国との原子力情報の交換を自由にする狙い
1953/11/6
木村忠二郎厚生事務次官が広島市を訪問。「原爆障害者の治療費を国が負担する特別立法の考えはないが、傷痍軍人に適用されている厚生医療保護の対象に原爆障害者を入れる方針で大蔵省と折衝中」
1953/11/6
ロイド国連英首席代表が国連総会第1委員会で軍縮促進の14カ国共同決議案を提出し、ソ連の軍縮意向をただす。ソ連のビシンスキー代表は「もし国連が原爆生産は罪悪であると宣言すれば、ソ連政府はその決定に従う」と言明
1953/11/7
ソ連のビシンスキー国連代表が国連総会第1委員会で「米国は共産世界に対して原子力兵器による侵略を企図している」と非難
1953/11/10
ソ連が国連総会第1委員会の各国代表に軍縮修正案を配布。14カ国共同決議案への対案。「米ソ英仏中5大国の大幅軍縮と原水爆、その他大量殺りく兵器の禁止と厳守のための国際管理確立」を求める
1953/11/11
ABCCの新所長モートン博士が着任後初の記者会見。「ABCCが治療しないのは現在の予算が調査のみに限られており、治療するためには設備を改めなければならない。それに日本の医療法の問題もあるからで、今後も原爆障害者の治療をすることは非常に難しい。治療は日本の医療機関によって行われるのが最も適切でABCCは出来るだけの援助をしたい」
1953/11/13
米の精神養親から全く便りのない原爆孤児のため広島市の丹羽諦順厚生局長が女優山田五十鈴さんに「精神養姉になって」と依頼状を発送
1953/11/14
第5回広島、長崎両原爆都市青年交歓会が広島市で本会議を開く。15日に4項目を決議。(1)原爆障害者救済について国連、アジア青年大会に働き掛ける(2)青年は自衛隊に絶対参加しない-など
1953/11/14
木村篤太郎保安庁長官が記者会見。防衛力増強計画に関連し「誘導弾原子核などの研究技術総合研究所の設置が望ましい」と語る
1953/11/14
元産業奨励館のドームを広島市に譲与する通知を広島県が大原博夫知事名で出す。市は保存措置をせず自然放置の方針
1953/11/14
原対協が治療部会を開き、治療科目に産婦人科、精神病科を増設する方針を決定
1953/11/15
日本化学会中四国支部広島大会で広島大理学部の萩原篤太郎教授が「広島原爆爆心地の残存放射能計数について」を発表。爆心地に放射能の残存が判明。人体影響は速断できず
1953/11/17
原爆後遺症の治療方法究明のため国立予防衛生研究所(東京)に「原爆症調査研究協議会(原調協)」が組織され、第1回協議会を開催。委員は小林六造同研究所長、松坂義正広島県医師会長ら12人。1953年度の調査研究要綱を決める。広島、長崎被爆生存者3,000人の調査、原爆症治療方法に関するシンポジウム開催など3項目。広島、長崎両市原対協やABCCとも連携へ
1953/11/18
原爆症の総合的な資料収集のため原対協が広島市内の精神、産婦人、耳鼻、小児、皮膚泌尿科の開業医に質問状を発送。原爆症に関係すると思われる患者の疾病名、症状、原爆に起因か否かの判定基準など求める
1953/11/18
国連総会第1委員会が米英仏など14カ国の軍縮促進共同決議案を可決、ソ連は棄権
1953/11/19
ソ連のビシンスキー国連首席代表が国連総会第1委員会で「原爆、水爆その他の大量破壊兵器の無条件禁止」などの平和決議案を再提出
1953/11/20
トワイニング米空軍参謀総長がダラスの航空懇談会で、米空軍の大型長距離爆撃機が水爆積載可能になったことを示唆
1953/11/20
英外務省は米英加3国の専門家が近く原子爆発の効果について情報交換会議を開くと発表。米当局も肯定
1953/11/21
原爆症の総合診断へ広島の日米専門医による初の「合同診察会」が広島医師会館で開催、40数人の原爆障害者が受診。原対協の治療部会が推進母体でABCCモートン所長らも参加
1953/11/24
広島戦災供養会が老朽化した納骨堂や供養塔の現在地再建を市長、市議会議長に陳情することを決定。市側は平和記念公園計画から現在地再建には難色
1953/11/26
ソ連のビシンスキー国連代表が国連総会第1委員会で演説。「ソ連は原水爆を所有している。にもかかわらずソ連は原水爆の禁止と破壊とを要求する」と言明(11・28夕)
1953/11/28
平和記念公園内に建設の公会堂が起工式。鉄筋3階、大ホールや宿泊施設を設ける予定
1953/11/29
第49回中四国眼科学会で広島市の杉本茂憲医師(眼科)が「眼科的患者の概況」を発表。原対協の治療データなどから「放射能で水晶体に濁りができる原爆そこひがぼつぼつ現れ始めた」と指摘
1953/11/30
国立予防衛生研究所の「原爆症調査研究協議会(原調協)」分室が広島市社会課に設置が決定
1953/11/--
広島大医学部精神神経科教室が「原子爆弾後遺症の精神神経病学的症例」の研究に着手
1953/11/--
ABCCが「広島および長崎における両親の被爆が第1世代の子孫に及ぼす影響」の調査結果を発表。「原爆を受けた親から生まれた子供はほとんど悪影響を受けていない」。1948年から5年間、広島、長崎で6万件以上の出産を調査。被爆した親から生まれた子供の外観的障害や新生児死亡率、乳児死亡率に変化は認められない
1953/11/--
映画「ひろしま」を観賞した京都市内の小学校児童の感想文集が広島県教組に届く

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