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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 4月


1952/4/1
政府が5月2日に東京・新宿御苑で太平洋戦争戦没者全国慰霊祭の実施決める
1952/4/4
城山小学校に被爆児童のための特別学級7学級を編成した原爆学級が発足(「長崎年表」)
1952/4/5
最後のララ物資を分配。7月で配給打ち切りに
1952/4/6
イサム・ノグチ氏が平和記念公園の犠牲者慰霊碑のデザインが丹下健三東大助教授によって勝手に変更されていると抗議のため広島市へ。7日浜井市長に会うが物別れ。イサム・ノグチ氏の案は黒御影石、ドーナツを半分にしたような形でやはり埴輪を抽象化したものだった。選定途中で広島復興審議会専門委員から物言い。「アメリカ人の造った橋を渡るのはともかく、そんなやつのつくった碑を拝めるか」。このため、「公園全体を丹下構想で統一する」としてノグチ案は消える
1952/4/10
画集「原爆の図」普及版出版(丸木位里・赤松俊子)(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/4/11
春の広島をおう歌する第1回「広島まつり」始まる。3日間
1952/4/13
部落解放運動などに尽くした広島女学院大のメアリー・ジョーンズ教授が米に帰国
1952/4/21
ABCCが「講和条約発効後も日本へ研究所を移管しない」と発表。10月、在日米大使館と外務省の間でABCCの研究と職員の地位を確認する口上書を交換(「ヒロシマ・25年」)
1952/4/22
米ネバダ州ユッカ・フラットで初の公開原爆実験。投下1時間45分後、120人の落下傘部隊と1,500人の地上部隊が爆心地付近へ進軍。爆発の模様はテレビで初めて公開生中継
1952/4/28
長崎国際文化会館の起工式。1955年2月1日完成(「長崎年表」)
1952/4/30
戦傷病者戦没者遺家族等援護法公布。4月25日に成立。8月6日出動中、被爆死した動員学徒、徴用工、女子挺身隊、国民義勇隊員の遺族に弔慰金支給の規定も盛り込む(「原爆三十年・年表」)
1952/4/--
西条八十氏作詞、古賀政男氏作曲の「広島音頭」ができる。「ピカで焼けよが涙が降ろが/こころ広島元気で伸びる…」
1952/4/--
広島市内の子供を持つ未亡人は2,807人、うち約半分の1,301人は夫が戦没、戦災死

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