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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 7月 


1952/7/4
広島市宇品港内の金輪島山腹に被爆者遺骨29体、実地調査で確認。うち名前の分かった上田博士君(被災当時14歳)は7年ぶりに母の胸に
1952/7/6
広島市雑魚場町に「殉国学徒の碑」。同地で家屋疎開中に犠牲となった旧山中高女の教師、生徒らを慰霊
1952/7/7
山代巴氏らの呼びかけで広島市基町、朝日ホールで「原爆傷害者懇談会」。被害者組織の結成が提案され、原爆投下についての米国の責任が問題に。広島を訪れていた新藤兼人、乙羽信子氏らも出席
1952/7/8
広島市調査課で広島女子短大生20人の手によって原爆死没者名簿の記入が始まる
1952/7/8
ロンドン・タイムズのオーナー・トレイシー記者の記事で浜井広島市長が中国新聞に抗議文を発表。「現代世界の不幸の根源は、互いに他国民のやっていることを悪く悪く曲解していることにあると思うが、その一つの典型的なモデルがここにもあると言うことだ。…こうしたものの見方考え方を捨てて、今一段高い観点から公平に素直に物を考えるのでなければ人類の不幸は永遠に続くだろう」
1952/7/10
広島市が近郊の安芸、安佐、佐伯の3郡79カ町村に原爆犠牲者の遺骨の有無、取り扱い状況について問い合わせの手紙を出す
1952/7/10
広島県安芸郡坂町で160余柱の被爆者の遺骨が見つかる。同町にはこのほか無縁仏として祭られている遺骨が163柱
1952/7/11
米INSテレビが福井芳郎画伯の原爆記録画「炸裂後15分」「その翌朝」「学徒」「死の街」などをフィルムに収める
1952/7/14
池田勇人蔵相夫人、真杉静江さんらを世話人に「ヒロシマ・ピース・センター東京協力会」が誕生
1952/7/14
原爆乙女3人が東大付属病院小石川分院に入院。他の6人も順次入院、通院へ
1952/7/18
ケロイド、機能障害などを持つ原爆障害者の治療目途を広島市が調査。集まったカルテ1,405人のうち完全回復214人、ある程度まで467人、回復見込みなし724人。平均治療費は4,400余円
1952/7/22
広島市千田町の旧山中高女跡に原爆犠牲の42遺体埋葬が分かる。被災当時、日赤付近や河川漂流の死体を収容、埋葬
1952/7/22
原爆慰霊碑の碑文ができる。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」。広島大教養学部、雑賀忠義教授の作。「言葉も書体も市民感情を表すように努めた」
1952/7/23
ABCCが広島原爆生存者の調査結果を発表。総計15万7,575人。広島県12万4,966人(うち広島市9万8,102人)、山口県4,171人など。1950年10月1日国勢調査付帯調査
1952/7/30
「原爆の子友の会」の子供20人が大阪の「原爆の子に応える会」の招待で大阪見学。友の会側、劇「原爆の悲劇」を演じる
1952/7/30
ABCCが7月7日に結成した同運輸部労働組合幹部ら23人を解雇。人件費の節減が理由
1952/7/31
阿川弘之氏が新潮社から小説「春の城」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/7/31
広島市二葉山麓の尾長町で被爆者の遺骨52体分(推定)を発掘。8月1日も発掘、計57体に
1952/7/--
日本映画社撮影の「原子爆弾の効果」、一部分を朝日ニュースとして初公開(「原水爆時代下」)
1952/7/--
「原爆犠牲者は似島に約7,000人、金輪島200~3,000人、安芸郡坂町に500~600人運んだ。死体の処理は火葬」。旧陸軍船舶司令部部隊関係者が語る
1952/7/--
トレイシー記者の記事で広島、長崎特別都市建設促進議員連盟、原爆遺家族援護促進会が抗議へ

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