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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 10月


1952/10/1
フロイド・シュモー氏がヒロシマ・ピース・センターから「日本印象記~ヒロシマの家」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/10/3
オーストラリア北西の小島モンテベロ島で英初の原爆実験。米ソに次ぎ3番目の核兵器保有国に
1952/10/6
「原子力の平和利用のため政府内に『原子力委員会』設置を」。日本学術会議第4部(理学)の中心メンバー茅誠司東大理学部長、朝永振一郎東京教育大教授らが提案。10月23日の学術会議総会で原子力委員会設置に反対する三村剛Ze広島大教授らとの間で紛糾、政府申し入れは見合わせ学術会議内で論議を深めることに
1952/10/6
「原爆被害者の会」(代表、吉川清氏)がABCCに「被爆者の治療をやってくれない」と抗議。国立予防衛生研究所広島支所長の槙弘氏「ABCCは調査研究機関だから被爆者の治療まで手が届かない」。テーラー所長「ABCCの研究には秘密条項はなく研究結果は文部省を通じ、各大学にも差し上げている」
1952/10/11
原爆症について日本代表の草野信男医師らが研究発表しようとしていたイタリア・モンテカチーニの国際医師学会(10月16~18日)が、イタリア政府の圧力で中止に
1952/10/12
広島市本川小で第2回世界仏教徒会議広島大会、13日まで。マララ・セケーラ世界仏教徒連盟会長(セイロン)ら20カ国約120人の外国代表が出席。基町平和広場では大追弔法要。広島に贈られた仏舎利を奉賛し、仏教の興隆と人類の福祉に貢献を決議
1952/10/15
向井潤吉画伯ら行動美術展参加の画家ら5、6人が京都市内で原爆乙女救援の似顔絵を描き始める
1952/10/27
西ドイツ・ルール工業地帯の中心都市ボフムで、ボフメル・フェライン工業会社から広島市の広島平和記念聖堂に贈られる「平和の鐘」の贈呈式。1万8,000人が参加、鐘は4つ。最大の鐘は日本語で「平和の元后」、ラテン語で「戦争の資材だった鉄鋼は、各国に平和を呼び掛ける」、2番目はセント・フランシス・ハベリウスの鐘「日本の使徒」、3番目セント・ペトルス・カニシウス「ドイツの使徒」、4番目セント・パウルス・ミキ「初の殉教者」と刻まれている
1952/10/31
フロイド・シュモー氏建設のシュモー住宅が広島市江波町に新たに11戸完成し贈呈式
1952/10/--
小久保均、藤沢国輔氏ら「広島文学」の若手中心に原爆文学研究会(「ひろしま・平和の歩み」)
1952/10/--
彫刻家柳原義達氏が平和を願い作品「ラ・パンセ」を広島市に寄付
1952/10/--
対日平和条約発効に伴い日米両政府間で、ABCCについて「米大使館付属機関とする」との口上書を取り交わす。職員には外交官並みの特権が付与される

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