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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 12月


1952/12/1
志田信氏が東大出版会から「原子爆弾の話」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/12/1
12日からウィーンで開く世界平和人民大会への日本代表決まる。原爆1号の吉川清氏、原爆の図の赤松俊子、丸木位里氏ら35人
1952/12/7
来日中の仏作家ジョルジュ・デュアメル氏が広島市を訪問。広島ペンクラブ、広島日仏協会の名誉会員に
1952/12/8
原爆乙女12人が大阪・阪大病院、大阪市立大付属病院などでも治療へ
1952/12/12
オーストリア・ウィーンで世界平和人民大会。被爆者代表も参加、19日まで
1952/12/14
「原爆被害者の会」が第1回総会。(1)生活困窮者の救援運動(2)住宅立ち退き問題で困っている被害者のための対策-などの運動方針を決定
1952/12/16
戦傷病者戦没者遺家族等援護法に基づく原爆犠牲者の弔慰金支給が始まる。対象は建物疎開作業に従事した地域、職域国民義勇隊員、動員学徒、女子挺身隊員
1952/12/21
長田新広島大教授が12月21日号の「週刊サンケイ」誌上で日本人の手による精神養子運動を起こそうと提唱(「ヒロシマの記録」)
1952/12/26
映画「原爆の子」が第6回カンヌ映画祭「劇映画」の部に出品決まる。「短編」の部に「原爆の図」も
1952/12/27
広島県立医大が原爆乙女だけでなく一般原爆症患者も無料入院を引き受けると広島市へ連絡
1952/12/--
スイス・ルツェルンのフランシスコ派教会で広島の教会にあてた平和の鐘の献納式。鐘には日本語で「汝らに平安あれ」と刻まれている
1952/12/--
米国整形外科学会からABCCテーラー所長を通じ広島県医師会に、「広島、長崎に原爆症治療班を1年の予定で送りたい。受け入れ態勢はどうか」との非公式問い合わせ。真杉静江さんら東京の作家グループがパール・バック女史を介し故ルーズベルト大統領夫人に働き掛けた結果
1952/12/--
広島県立医大付属病院(呉市広町)が原爆症患者の治療に全力傾注を決定

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