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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 5月


1952/5/2
全国太平洋戦争戦没者慰霊式に合わせ、広島県でも広島市民広場で独立後初の広島県・市戦没者合同追悼式。祭られたのは日中戦争以降の県出身戦没者8万4,738柱。陸軍5万6,644柱、海軍1万7,151柱、原爆犠牲の学徒、徴用工、義勇隊員、女子挺身隊員など1万943柱
1952/5/3
広島大で広島の「原爆の子友の会」と「大阪原爆の子を守る会」の交歓会開く
1952/5/4
原爆犠牲者12万8,000柱が靖国神社に合祭
1952/5/6
広島市下中町の広島CIE図書館が講和条約調印に伴い広島アメリカ文化センターとして再発足
1952/5/7
原爆犠牲者遺家族援護促進委員会(委員長、任都栗司氏)が学徒、義勇隊の犠牲者8,205柱を靖国神社へ合祭
1952/5/7
原爆犠牲者慰霊塔の設計をめぐるイサム・ノグチ氏のクレームに丹下健三東大助教授が「私がノグチ氏の設計アイデアをまねたなどとそんなことノグチ氏から聞いたこともない。私一人の構想だ」と反論
1952/5/8
ペース米陸軍長官が米軍製造中の原子力砲について初めて概要説明
1952/5/10
原爆犠牲者の遺家族援護措置実現のため広島、長崎両県選出国会議員で「広島、長崎特別都市建設促進議員連盟」を結成。会長に西村久之衆院議員(自由党・長崎)
1952/5/13
広島市内で64歳の被爆者が通りかかった銀行員を刺殺、600万円を奪う。妻を原爆で失い身を寄せている娘は知的障害者。「60円しかなくせめて1週間分くらいの米代が手にはいればと思っていたのだ」
1952/5/15
中国が呼び掛けたアジア平和会議の日本の発起人に長田新、大山郁夫氏らが推薦される
1952/5/15
原爆死没者慰霊碑の建設始まる。幅4.5メートル、奥行き8メートル、高さ3.6メートル。工費300万円
1952/5/15
「原爆の子」映画化。広島市で近代映画協会の吉村公三郎(製作)、新藤兼人(脚本・監督)氏らが「原爆の子友の会」メンバーと初打ち合わせ
1952/5/17
ジャン・マラン国連仏代表が広島市を視察
1952/5/18
米の5月18日までの核実験28回、ソ連3回。米政府当局者が語る
1952/5/20
真杉静江、中野好夫氏らが広島市を訪れ原爆乙女らに会う。「心揺さぶられる」(「原爆三十年」)
1952/5/28
作家山代巴氏、メアリー・マクミラン広島女学院大教授、佐久間澄広島大教授らが「原爆の詩編さん委員会」をつくり作品公募。編集事務は峠三吉氏
1952/5/--
日本学術会議に「原子爆弾災害調査研究班」設置。委員長に塩田広重東大名誉教授。中泉正徳東大医学部長と都築正男博士が世話役。全国の大学から約25人の委員

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