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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 1月


1951/1/1
広島市が連合国軍総司令部CIE元顧問ハワード・ベル博士を市顧問に委嘱
1951/1/1
広島市の人口が28万人を突破し、28万8,003人で全国11番目に。被爆直後より15万人増加
1951/1/2
ディーン米政府原子力委員長が「ソ連は確かに原子爆弾を保有している」と言明。マサチューセッツ工科大学長カール・コンプトン博士の「ソ連は原爆を製造したかどうか疑わしい」との発言を否定
1951/1/4
長田新広島大教授が中国新聞紙上の新春清談で理性喪失の世紀に警告。「今や国家と国家が対立し、権力と権力が相打つ。今や国家が人類に対して謀反し、人類の平和への理性を裏切りつつある。日本でも甘口の平和論ではすまされない」
1951/1/8
精神養子運動を提唱したノーマン・カズンズ氏が2回目の広島市訪問。「1949年広島を訪れたその報告に少しばかり書いたところ、友人、学校の生徒、主婦たちが次第に反響を大きくし今なお発展している。このアメリカの好意を示してくれた人々に感謝してもらいたい」。9日には似島学園で自らの精神養子・河野宏君と面会(1・6、1・7、1・9、1・10)
1951/1/9
広島滞在中のノーマン・カズンズ氏がジョン・ハーシー氏著「ヒロシマ」に登場する中村初代さん宅を訪問。11ドルの旅行小切手を贈る
1951/1/10
広島市の比治山にABCCの建物が完成。1949年7月19日に地鎮祭(「ヒロシマの記録」)
1951/1/10
原爆投下直後に広島で被害調査に当たり、中間子の質量測定の功労で文化勲章も受けた仁科芳雄博士が肝臓がんで死去。61歳。岡山県浅口郡新庄村(現同郡里庄町)出身
1951/1/11
原爆被害調査で推計学的調査をした東大講師の増山元三郎氏が広島通産局の講習会で広島市を訪問。「原爆被害の状況も推計学の応用によるもので、推計学がなかったなら原爆被害の大きさは分からなかっただろう」
1951/1/11
米政府原子力委員会がネバダ州で原子兵器実験を行うと発表
1951/1/15
広島県比婆郡山内北村と広島市青年連合会が第1回青年交歓会を開催。16日に元産業奨励館のドームなど見学
1951/1/15
トルーマン米大統領が予算教書を発表。原子力予算は総予算740億ドルのうち12億ドル
1951/1/17
来日したバンデンバーグ米空軍参謀総長が記者会見。「北朝鮮には原子爆弾を使用するだけの価値を持つ目標がない。しかし中国の都市の中には原爆が大きな効果を上げうるものがある」
1951/1/20
東京の広島市平河寮で第3回平和記念都市建設専門委員会を開催。平和記念公園計画の各種案を討議、計画全体に再検討を加えることに
1951/1/27
米政府原子力委員会がネバダ州ラスベガス近くの米空軍爆撃演習地で原子爆弾実験を行ったと発表。実験は26日夜から27日朝にかけて実施。ネバダでの初の核実験
1951/1/28
米ネバダ州で原子爆発の実験。米政府原子力委員会も確認。24、27日に次ぎ1週間に3度目(1・30、夕刊中国新聞1・30)
1951/1/31
キリスト教平和団体「国際友和会」の女性巡回幹事ミュリエル・レスター女史が広島市を訪問。「戦争は絶対に避けなければならないし、日本の再軍備には賛成しかねる。日本が新しい憲法で戦争を放棄したことを聞いた時、私たちは非常に喜んだ。日本がもし再武装でもするようになれば非常に失望するだろう。私は広島の人たちへ原子爆弾を落とした罪の許しをこいたい」
1951/1/--
ABCCが胎内被爆児調査を開始(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)

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