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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 2月


1951/2/1
欧州統一軍最高司令官アイゼンハワー元帥が米上院外交、軍事両委員会の秘密合同会議で言明。「戦争になって敵に十分な破壊力を及ぼせると確信した場合、私は直ちに原爆を使うだろう」
1951/2/1
米ネバダ州ラスベガスで原爆実験。2日にも実験
1951/2/5
コリンズ米陸軍参謀総長がUSニューズ・アンド・ワールドリポート誌で言明。「米陸軍は近い将来に原子砲弾を保有するだろう。また数年のうちに相当の確度で遠距離を攻撃し得る無線操縦原子ロケット砲弾も完成するだろう」
1951/2/6
「聖母の騎士」修道院(長崎市)のゼノ修道士が広島滞在中、広島駅待合室で行きずりの失業者らに愛の手を差しのべる
1951/2/6
米政府原子力委員会が「ラスベガス実験場での新原子兵器に関する一連の実験を完了」と発表(夕刊中国新聞2・8)
1951/2/7
トルーマン米大統領がホワイトハウスでメソジスト教会牧師50人と会見。「保持する恐るべき原子兵器をもって第三次世界戦争を決して行わないですむことを希望する」
1951/2/7
広島市が世界連邦会議に激励メッセージを打電。同会議代表ゴードン氏からの要請を受け、米カリフォルニア州での会議(9日から)に連帯
1951/2/8
西ドイツの写真画報「ノイエ・イルストリールテ」のベルント・ローゼ氏がドイツの写真記者として初めて広島市を訪問。2年前に同誌で紹介された被爆児童を訪ねる
1951/2/8
詩人の西条八十氏が「広島の歌」作詞のため広島市を訪問
1951/2/9
コリンズ米陸軍参謀総長が「原子砲弾の出現は間近い。最近ネバダで行われた原爆実験の結果、原子砲弾の可能性が考えられるようになった」
1951/2/11
ノーマン・カズンズ氏の秘書から浜井広島市長に手紙。「新しい精神養子縁組24組の名簿と2年目の養育資金の第1回分1,000ドルを送った」。精神養子は226人、養育資金は計9,000ドルに
1951/2/12
ABCCの新所長に医学副所長のグラント・テーラー博士が就任。前任のカール・テスマー所長は11日帰米
1951/2/14
マクマホン米上下両院合同原子力委員長が言明。「将来、潜水艦と商船の動力に原子力が利用されることになろう。潜水艦への利用研究は極めて順調」(夕刊中国新聞2・17)
1951/2/14
リー国連事務総長が特別委員会で「原子兵器禁止のため国連は努力を続けるべき」と強調
1951/2/15
ハワイ日本難民救済会の一邦人が似島学園に100ドル寄贈
1951/2/18
広島医師会館が広島市下中町で落成式。ABCC関係者らも参加
1951/2/19
広島県婦人会館が広島市宝町で落成式
1951/2/20
身元不明の原爆犠牲者1,200柱と元船舶工兵暁部隊員730柱の遺骨が山口県熊毛郡伊保庄村の専唱寺で見つかり、山口県と復員連絡広島支部が引き取る。原爆犠牲者の遺骨は広島陸軍病院の柳井転院の際、寺に預けたものと推定
1951/2/20
1945年ニューメキシコ州での米第1回原爆実験に参加したブラッドリー博士が「最近ラスベガスで行われた原爆実験の威力は広島投下原爆の500倍とみられることから水素爆弾と考えられる」と述べる
1951/2/21
ベルリンで世界平和擁護理事会総会開催。25日に「米ソ英仏中の5大国に平和条約の締結要請」決議(2・25、夕刊中国新聞2・27)
1951/2/21
信州善光寺尼公上人の一行が広島市を訪問。広島市役所屋上から爆心地に向かって読経供養
1951/2/21
平和記念公園に戦災死亡者の碑(原爆慰霊碑)の建立決定。東京での第4回広島平和記念都市建設専門委員会で討議。碑には原爆死没者の名簿を納めることなどを計画
1951/2/22
社会保険広島病院(広島市民病院)が起工式
1951/2/22
米紙「オークリジャー」が「オークリッジの原子力研究所で原子航空機の製作極秘計画の第1段階が完成」と報じる
1951/2/22
爆心地の本川小学校の解体増築が起工
1951/2/23
「米空軍が中近東に原爆基地を設置するよう急いでいる-と英消息筋が語った」と、UP通信が伝える(2・25)
1951/2/23
米政府原子力委員会と空軍省が原子力エンジンを装着した超大型航空機製作の新計画を3月中に開始することを明らかに
1951/2/24
米バーミンガム・ニューズが「米政府原子力委員会はアラバマ州に水素爆弾工場の建設を計画」と報じる
1951/2/24
米キリスト教伝道家スタンレー・ジョーンズ博士が2度目の広島市訪問。「1日も早く占領が終わることが望ましい」
1951/2/26
米上下両院合同原子力委員会のジャクソン委員が「米が生産できる原子爆弾の原料は無限」と言明
1951/2/--
広島大三原分校の空本和・助教授が被爆ガラス、かわらなどの収集と写真撮影を始める。世界平和運動家・米ロサンゼルス市チャップマン大学のモーガン・ハリス教授に送付へ。受け取ったハリス教授「講演する時、これらの標本を持って世界の人々に原爆の恐ろしさを認識させ、戦争回避を力説したい」
1951/2/--
広島市がドイツ建築博に被爆直後の写真や復興状況統計の発送を計画。建設省の出品要請にこたえる(2・28)

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