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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 3月


1951/3/1
広島県労組連絡協議会実行委員会が加盟組織をあげて平和擁護運動(15日から)を行う決議
1951/3/8
広島婦人民主クラブ主催の国際婦人デー記念集会が広島市で開催。原子兵器使用禁止などのアピールを決定(「広島県史・年表」)
1951/3/10
広島市内の各官公庁などで組織する広島平和記念都市建設事業執行者連絡協議会の第1回会議開催
1951/3/12
ニューヨークの原子力スパイ団公判の証人が証言。「ロスアラモス原子力研究所に勤務したクリーングラス元陸軍軍曹が新型原子爆弾の秘密書類を1945年秋に義兄に渡したことを自白」
1951/3/12
広島平和記念聖堂の建設後援会が東京で設立総会。広島カトリック教会のラサール神父らの運動実る。会長に池田勇人蔵相
1951/3/13
広島市出身で原爆をテーマにした作品「夏の花」の著者、原民喜氏が東京の中央線西荻窪駅近くの線路で自殺。45歳。自殺直前、中国新聞社に「永遠のみどり」と題する詩1編を寄せる。「ヒロシマのデルタに/若葉/うづまけ/死と焔の記憶に/よき祈りよこもれ/とはのみどりを/永遠のみどりを/ヒロシマのデルタに/青葉/したたれ」
1951/3/17
英紙イブニング・ニュースが「英科学者は原子爆弾の製造工程で最終的段階に到達したとみられる」と報じる。米上下両院合同原子力委員会は「英の原子爆弾は新型だろう」。西欧諸国は西欧防衛の強化と歓迎
1951/3/19
ABCC顧問として米デューク医科大学長で小児科の権威ウィルバート・デービソン博士が着任。「遺伝学の研究は赤ちゃん20万人の調査で初めて正確な資料ができるが、現在までにABCCで調査したのは約5万人なので具体的なことは判明しない」
1951/3/20
米政府原子力委員会が「エニウェトク環礁で重要な原子実験が行われようとしている」と発表。通過船舶、航空機の安全確保のため環礁付近の危険地域に近づくことを禁止
1951/3/21
広島市が基町中央公園の設計を市平和記念都市建設専門委員の北村徳太郎氏(前建設省施設課長)に依頼を決定
1951/3/23
米政府原子力委員会は原子力生産工場がデンバー西北に建設されると発表。「しかし原子爆弾は製造しない」
1951/3/24
アルゼンチンのペロン大統領が「ウラニウムを使用しない原子核の熱反応による新方法で原子力の解放に成功した」と発表。実験は2月16日同国内の原子力試験工場であった-と述べる
1951/3/24
マーシャル米国防長官が半年間報告を発表。「朝鮮その他の米戦闘員は間もなく原子兵器を含む新秘密兵器を持つことになろう」
1951/3/26
広島市中島町の平和塔につるされていた平和の鐘が盗まれた-と広島平和協会が広島西署(現広島中央署)に届け出。このころ朝鮮戦争特需で金属盗難が相次ぐ(3・27)
1951/3/26
ストックホルム・アピールの全国署名が640万人に(「ヒロシマの記録」)
1951/3/26
ハワイ観光団第1陣が広島市を訪問、爆心地など見物
1951/3/27
精神養子育成資金配分委員会が米の養親らから贈られた資金38万6,000円を広島市内6施設に配分することを決定
1951/3/29
米南カリフォルニア日本難民救済会から浜井広島市長に衣料、食料品など小包15個が届く
1951/3/30
ABCC顧問として米の3博士が着任。ロサンゼルスの原子力研究医学部門研究主任ジョン・ローレンス、血液学研究者のウィリアム・バレンタイン、ロックフェラー財団国際保健局幹部職員ジョン・ボーアの3氏
1951/3/31
長崎国際文化都市建設法の公布に伴い、既定の特別都市計画を再検討、文化会館や平和公園内の記念施設計画を加えた長崎国際文化都市建設計画が決まる。国際文化会館は4月に着工、平和祈念像は1951年度から5カ年間の継続事業として建設(「長崎年表」)
1951/3/--
平和記念館の一施設である記念陳列館(原爆資料館)が着工。2月12日に平和記念公園建設計画の第1期工事として陳列館のみ入札、大林組が1,700万円で落札
1951/3/--
世界平和デーを提唱のアルフレッド・パーカー氏の友人、ワシントン在住グレン・エバレット氏から広島市に手紙。「今年の8月6日に日本政府が平和デー特別記念切手を発行するよう運動しては」

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