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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 5月


1951/5/1
広島市が全国を対象に原爆死没者調査に着手。1カ月で調査の予定
1951/5/1
「文芸春秋」5月号に丸岡明氏が原民喜回想記「原爆と知識人の死-彼は戦争のない世界へ旅立っていった」を寄稿(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1951/5/1
長崎で被爆し、原爆症と闘った長崎医大の永井隆教授が死去。43歳。松江市生まれ、幼少時代は島根県飯石村(飯石郡三刀屋町)。病床で「原子病概論」の口述を完成。著作は「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」など。14日、浦上天主堂で公葬
1951/5/3
中国新聞社が原爆死などの物故社員慰霊祭。創立60周年記念日(5日)を前に西本願寺広島別院で
1951/5/4
広島市で開かれた日本教育学会第10回大会の2日目、参加120人が「平和の呼びかけ」を世界の教育学者に送る趣意書に署名。「現在世界は2大陣営に分かれ、第三次世界戦争の危険が切迫したようにみられるが、世界平和の維持と人類福祉の増進という教育本来の使命に忠実であろうとする決意をもって、ここに全世界の教育学者にあいさつを送ります」
1951/5/5
米上院軍事外交合同委員会でマッカーサー元帥が証言。「原子兵器を中共に用いるかどうかは大統領の権限事項。私は原子爆弾の使用について協議したことはない」「原子戦争に関する限り米の力は敵の力よりも格段に大きい」
1951/5/5
日本歌人大会が広島市の中央公民館で開催。近藤芳美氏ら4人の講演者が「原爆都広島からこそ平和希求のよき短歌作品がおこるべき」などと力説
1951/5/5
米の作家パール・バック女史が中国新聞社の創立60周年を祝い祝辞。「広島の記憶はアメリカ民衆の良心から永久に消え去ることはないでしょう。広島という名称は平和をもたらすための私たちのシンボルとなりつつあります」
1951/5/7
永井隆博士の死を悼み、辞世の句を山田耕筰氏が作曲、遺族に贈る
1951/5/8
マーシャル米国防長官が米上院軍事外交合同委員会で朝鮮戦乱について証言。「ソ連が米軍基地に空撃を加えれば、われわれも最大限の報復行動に出ることになる。それはおそらく原子爆弾攻撃となるだろうが、これは不可避的な世界大戦の発生を意味している」
1951/5/9
広島市内の戦災孤児の里親らが市里親協議会を結成
1951/5/10
第1回平和祭(1947年)式典会場の慈仙寺鼻・平和広場に建設された平和塔の除去作業が始まる。都市美観と同地が平和記念公園になるため
1951/5/11
ジャクソン米議員が「エニウェトク環礁における原子兵器実験が完了した」と述べる
1951/5/13
ロバート・サイクス米民主党下院議員が主張。「現在の情勢のままでは朝鮮戦争は結末がつかぬことになろう。米は敵に決定的な打撃を与えるため原子爆弾およびその他すべての強力な新兵器を使用すべき」
1951/5/13
故原民喜氏の友人ら有志が広島市八丁堀の菊屋別館で「詩碑建設賛助実行委員会」を結成。東京の文学者らで進められていた郷里への詩碑建設案の受け入れ態勢を整える
1951/5/15
第10回戦災復興土地区画整理委員会中国地区連合会が広島市内で開催。難航する戦災復興5カ年計画の推進を衆参両院に陳情を決定
1951/5/15
広島市小町に広島音楽高校が落成
1951/5/16
西本願寺の大谷嬉子裏方が広島市を訪問。広島赤十字病院で入院患者を見舞う。17日は似島学園の孤児を慰問
1951/5/18
西本願寺広島別院で原爆死没者7回忌法要。大谷光照法主を迎え遺家族7,000人が参列、浜井広島市長が弔辞
1951/5/18
米の教育事情を視察した広島大の森戸辰男学長が広島に帰着。「平和都市として立ち上がる原爆都市広島に対して米国人の関心は特に深く、どこに行っても復興状況を問われた。とりわけ広島市の再興を願う広島県出身の日系米国人の好意には心から感激した」
1951/5/18
コリンズ米陸軍参謀総長が記者会見。「朝鮮の米地上軍、空軍が原子兵器を使用出来るようになるのは時間の問題」
1951/5/19
米陸軍省の行政局次長ハル中将がデトロイトで演説。「原子砲兵器は戦場で使用できる段階にまで発達している。実際に使用する時期は近づきつつある」
1951/5/24
米が水爆開発のための核融合反応に成功(1976・6・7)
1951/5/25
スイスでの第23回世界ペン大会に出席する作家の芹沢光治良氏が語る。「昨年春、広島の爆心地に立って多くのことを考えさせられた。これからの戦争の恐ろしい警告、人類の運命、世界平和の問題について…。ヨーロッパに行ったら広島の声を伝えたい」
1951/5/25
米政府原子力委員会と国防総省が共同声明を発表。「エニウェトク環礁で行われた水素爆弾研究に寄与する原子力実験は成功した」
1951/5/26
第二次大戦中に日本軍の捕虜生活を送った米シアトルのブライアント夫人が「被爆地に公会堂を建設するため、米政府から受けた戦災補償金を広島、長崎の原爆犠牲者に贈りたい」と語る
1951/5/28
バンデンバーグ米空軍参謀総長が上院軍事外交委員会で朝鮮情勢に関連して証言。「全面戦争を回避する見込みは良好である。それには原爆の存在が大いに力がある」
1951/5/--
ソ連が中国新疆省に原爆都市を建設中で、原爆スパイ事件で失跡した原爆研究の権威ポンテコルボ博士が指揮-と香港、台北情報。米軍事顧問団筋は「確認できないが、あり得る」
1951/5/--
愛媛県東宇和郡宇和町が原爆死没者調査を実施。原爆により直接または影響で死没した関係者の申告を受け付け
1951/5/--
ハワイ・ホノルル市の日系婦人有志が広島母子寮の建設援助に寄付金2,231ドルを送金へ(夕刊中国新聞5・17)

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