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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 6月


1951/6/8
米ケンタッキー州バデューカに建設中の原子力工場の副工場長アーネスト・ウェンテ氏が失跡。連邦捜査局などが捜査を開始
1951/6/8
1951年度第1回広島市史編さん委員会を開催。市史概説、年表、資料、図表などの編さん方針を決める
1951/6/10
広島県安佐郡祇園町の南下安カトリック教会に米国民の浄財で聖鐘三重の塔が完成
1951/6/11
東大の丹下健三助教授と彫刻家イサム・ノグチ氏が原爆慰霊碑などの設計構想をまとめるため広島市を訪問
1951/6/13
米政府原子力委員会と国防総省がエニウェトク環礁での原子力試験の結果を発表。「水素爆弾の製造に関する極めて重要な手掛かりが得られた。以前よりも一層強力で改良された原子力兵器が試験された。効力は最初に造られた原子爆弾より幾倍も強力であった」
1951/6/14
広島県土木部が平和都市建設のモデルプランを発表。広島市南端の草津-吉島-宇品-向洋を東西に縦断する高速道路構想を描く
1951/6/16
1950年秋の発足以来、休眠状態だった広島文学協会が第3回役員会。「8月上旬に『広島文学』発刊」などを決議
1951/6/23
広島市中島地区の住民28人が市に「地区内からの立ち退き猶予」を陳情。平和記念館建設などの支障になる家屋の月末移転を市建設局が要請したことに反対
1951/6/24
ABCC顧問として米オハイオ州の人類学者アール・レイノルズ博士が広島市に着任
1951/6/26
アルゼンチンの広島県人会が集めた広島復興資金67万8,875円を広島市に寄付
1951/6/26
「ヒロシマ・ハウス」建設のため、フロイド・シュモー氏のかわりにワシントン大学院生ビンソン・オードソン君らクエーカー教徒3人が広島市に。この年は住宅2戸、公民館1戸を計画。これまでに12戸建設
1951/6/27
百メートル道路にかかる新橋(元安川)、新大橋(本川)の欄干をイサム・ノグチ氏のデザインで作ることに決定。上京中の浜井広島市長から市費ねん出の連絡入る(6・28)
1951/6/29
米上下両院合同原子力委員会が得た情報で「ソ連の現有原爆数は約50個」。英へ亡命のソ連原子力専門家が推定
1951/6/30
広島市で第3回広島・長崎両原爆都市青年交歓会、7月2日まで討議。「1947年広島、長崎両都市は特別都市法が施行せられたが、両都市市民の熱意と努力にもかかわらず、みるべき成果の表れざるをはなはだ遺憾とする。真の人類平和確立のために法施行の意義を再認識せられ強力なる護助善導あらんことを切に祈念要望する」と決議
1951/6/30
平和記念公園の設計者、東大の丹下健三助教授が平和記念都市建設計画を国際現代建築会議(7月7日)で発表のため渡英
1951/6/30
広島市在住の外国人総数が12カ国5,135人、総人口の2%に
1951/6/--
原爆の惨状をとどめた血染めの戸籍簿が広島市戸籍課に保管されていることが判明。戦時中、比治山文徳殿に戸籍が疎開、原爆で犠牲になった係員らの血がついたと推測
1951/6/--
日本エスペラント学会広島支部が発足。小倉豊文氏著「絶後の記録」のエスペラント訳を企画
1951/6/--
広島市が爆心地の慈仙寺鼻にある墓石を新しい原爆遺跡に指定。爆風で墓の中石と土台石のスキ間に石片が入り、風圧の強さを示す
1951/6/--
広島市教委が市内小中学校の孤児1,071人に実施した境遇調査を集計。「父母を失った理由」のうち「原爆死」は小学生(父)25.8%、同(母)30.6%、中学生(父)31.9%、同(母)34.9%

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