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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 8月


1951/8/1
原爆死没者調査について労働委員会事務局文書課長の林芳郎氏が「ヒロシマの調査その生存者と死没者」と題し中国新聞に手記。「ヒロシマの調査は、特に身体被害に関しては、1回や2回では足がかりを得こそすれどうにもならないのではないだろうか。その諦めが、巨大な記念塑像や年忌の盛大な慰霊祭だけだとしたら、日本人は一体、世界平和の前にどんな顔して仲間入りするつもりだろうか」
1951/8/1
「原子爆弾災害調査報告書-総括編」(日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編)が発刊(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1951/8/1
UP通信が「信ずるべき新聞報道によれば、英最初の原子爆弾実験が近くオーストラリアの砂漠で行われる予定」と報じる
1951/8/1
英消息筋が「英は目下、最初の原子爆弾の製造に当たっている」と言明
1951/8/3
広島市警、公安委員会が平和大会(平和祭典委員会、平和擁護委員会など主催)を禁止する声明書を発表。「平和祭は認めるがこれは市民の厳粛な祈りとする建前であって、平和運動の美名に隠れて反占領軍的あるいは反日本的行動は断じて許されぬ。市民は不用意にこの種集会などに参加して違反に問われることのないよう注意していただきたい」
1951/8/3
長崎市原爆資料保存委員会が、浦上天主堂廃虚取り壊し反対を確認(「長崎年表」)
1951/8/5
広島市江波町に建設されたシュモー住宅用公民館の寄贈式。日本軍の捕虜経験がある米シアトル市のブライアント女史が戦災補償金2,018ドルを資金に寄付。式にも参列
1951/8/5
広島平和記念聖堂建設のため広島市の国泰寺高校、清心、幟町中学の生徒が募金、16日まで。26万9,000円が集まる
1951/8/5
広島大仏奉賛会と市内各町内会連合の原爆犠牲者7回忌追善供養を爆心の広島大仏殿で営む(夕刊中国新聞8・6)
1951/8/6
座談会「平和祭を語る」(中国新聞紙上)で広島平和協会長の浜井広島市長、森戸辰男広島大学長が「原爆ドーム保存は不必要」と語る。浜井市長「問題となっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っている」、森戸学長「過去を顧みないでいい平和の殿堂を造るほうにより意義があります。いつまでも残しておいてはいい気分じゃない」
1951/8/6
中国新聞に原爆投下2分後のキノコ雲の記録写真掲載。爆心から10キロ離れた広島県安芸郡海田町から山越しに撮影した写真で、原子雲と爆風から立ち昇る褐色のキノコ状雲とがはっきり分かれた瞬間を遠写。原爆記録の収集を続ける広島市千田町の山崎与三郎氏が海田町の住民から譲り受ける
1951/8/6
被爆6周年。爆心地の慈仙寺鼻の供養塔前広場で慰霊祭、平和記念式典。平和宣言は発表されず、かわりに浜井広島市長があいさつ。式典には朝鮮戦線に出動50回以上の岩国航空基地兵士24人も参列。兵士は中国新聞社8階から全市を展望し「明日からの出撃に平和探求への希望を強めました」
1951/8/6
浜井広島市長あいさつ「8月6日は実にこの恒久平和実現の大道に一里塚を打ち立てる日である。広島市民はこの日を迎えるごとに過去を顧み、将来を戒めて一歩一歩大理想の実現にまい進する決意を新たにすべきで、30万市民打って一丸となり平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」▽吉田首相メッセージ(代読)「今や講和会議の開催を目前に控え日本の国際社会への復帰の間近い時、世界平和の実現を希求してここに記念式典を挙行せられることは誠に意義深く考えられるのである」
1951/8/6
全国労働者第1回平和大会が広島児童文化会館で開催。日教組、総評など労働者約1,000人が参加。「戦争反対、全面講和と中立堅持を実現するため、日本全労働者は今こそ平和を守る決意を結集、全国民の先頭に立って闘い抜く」と平和宣言
1951/8/6
原爆記念全国平和会議が広島市の荒神町小学校で開催。全国140団体、約1,300人が参加。会議終了後、参加者の一部はデモ行進(「原水爆時代下」)
1951/8/6
ソ連最高会議幹部会議長のシュベルニク氏がトルーマン米大統領に対し、米ソ英仏中の5大国が冷たい戦争を終結するため反戦条約に調印するよう要請する親書。4項目の提案には原子力兵器を禁止し、実行を監視する機構を確立することが含まれた
1951/8/6
米国務省はソ連最高会議幹部会議長シュベルニク氏の冷戦終結提案について「従来の主張の繰り返しにすぎず、ソ連の平和宣伝攻勢の一つ」と非難
1951/8/6
ハワイ在住の広島市出身者、森久保重槌氏が広島県ボーイスカウト連盟へ約16万円を寄付。ハワイで小倉豊文氏著「絶後の記録」を販売した浄財
1951/8/6
広島市幟町の広島音楽学校がベルギー女王の名を冠したエリザベト音楽学校と改称、新発足
1951/8/6
長崎地区労、キリスト教、婦人矯正会、県教組、市連合青年団、市婦人会など各種団体が、大同団結して長崎平和運動推進会議を結成。8月9日に平和推進市民大会を開催し、平和宣言を行う(「長崎年表」)
1951/8/7
日教組中央委員会が広島児童文化会館で開催、8日も。全面講和、再軍備反対、軍事基地提供反対など平和闘争の展開を論議
1951/8/8
東京在住のオーストラリア人フランク・ウィーバー氏から広島市に手紙。「広島の孤児2人を養子として引き取り、本国に連れて帰りたい」
1951/8/9
長崎被爆6周年。長崎平和運動推進会議主催で本大工町グラウンドで文化祭。市戦災者連盟、市連合青年団、市仏教連合会の主催で松山公園で慰霊祭。文化祭で平和推進市民大会名による平和宣言。「われら日本民族は過去半世紀帝国主義的侵略を行い武力をもってアジアの隣国を侵してきたのであるが、近代兵器の最高峰、原子爆弾によって戦争は終止符をうたれたのであった。われら長崎市民は広島の同胞と共に、日本の犠牲となり、世界の試験台となったのである。…原爆の地長崎より平和を絶叫するわれわれの雄叫びは必ず大きな流れとなり日本のみならず世界各国のすみずみまで流れほとばしるであろう。ここにわれわれは再びあのいまわしい8月9日の惨状を再現させないために平和を祈念するあらゆる民主的諸団体ならびに宗教諸団体が相提携し、世人の良心に訴え世論をかん起し、固い団結をもって25万市民が打って一丸となり、平和運動を推進し全人類の繁栄のために闘うことを宣言するものである」(「長崎市平和宣言集」)
1951/8/10
米国家保障資源委員会が「ソ連は原爆生産に最大の重点を置いており、原爆の貯蔵量は急速に増大するだろう」と報告。米国内の工場分散計画を提案。トルーマン大統領は提案を支持
1951/8/10
オーストラリアのケーシー外相夫人が広島市を訪問。浜井広島市長から復興状況を聞く(夕刊中国新聞8・11)
1951/8/11
世界平和デー提唱のアルフレッド・パーカー氏から世界平和の道を説いた論文が浜井広島市長に届く
1951/8/14
平和擁護日本大会を東京で開催(「ヒロシマの記録」)
1951/8/15
大田洋子氏著「人間襤褸」(河出書房)が発刊(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1951/8/15
大田洋子氏著「屍の街市民文庫・65」(河出書房)が発刊(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1951/8/21
米サンフランシスコの自由アジア委員会から広島市に米独立時の「自由の鐘」模型を寄贈すると連絡
1951/8/21
米海軍省が原子力潜水艦を建造する初の契約をコネティカット州グロトンのエレクトリック・ボート会社と結んだと発表
1951/8/22
米が核実験。米政府原子力委員会が10月22日に発表
1951/8/27
爆心地近くの倉庫で「広島原爆傷害者更生会」が結成。吉川清氏を中心に20人余が集まり、被爆者の経済的自立を目指す。国家補償に基づく援護要求ではなかったが非合法活動とされ、約2カ月で倉庫主から立ち退きを迫られる
1951/8/27
ディーン米政府原子力委員長が米ルック誌編集者との会見で言明。「米国は現在まで約250個の原爆を貯蔵している。原爆は現在、実験室から出て工業的に大量生産されており、あと2、3年たてば貯蔵量は2、3倍になろう」
1951/8/29
米カリフォルニア州知事アール・ウォーレン氏が広島市を訪問。「今後いかなる場所においてもあの悲惨事を繰り返すことなく、互いに協力したい」
1951/8/31
原爆投下後、広島市への国内外の寄付金総額が3,651万3,537円に。内訳は外国3,482万2,460円、国内95万2,875円、利息分73万8,202円

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