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ヒストリー

ヒロシマの記録1950 3月


1950/3/1
英の原爆スパイ事件の当事者クラウス・フックス博士に禁固14年の刑。4回にわたってソ連に原子爆弾開発の情報を流す
1950/3/2
広島市が8月6日を世界の祝日にする「世界平和デー」草案まとめる。国会に立法を働き掛けへ
1950/3/5
広島県教組第6回大会が「平和声明」を発表(「広島県史・年表」)
1950/3/8
米ニューメキシコ州サンディアの原子爆弾組み立て基地の付属刑務所で爆発事故。14人が死亡
1950/3/10
ジョン・ハーシー氏から浜井広島市長に「1950年は広島に行けそうにない」と連絡。ハーシー氏に対しては広島市、日本ペンクラブから「起ち上がる広島」執筆のため広島を再訪してほしいと要望(1949年11月25日)していた
1950/3/10
モロトフ・ソ連副首相がモスクワで「ソ連はすでに原子力、および原子兵器の秘密を征服し、水素爆弾の攻撃にも脅威を感じていない」と言明
1950/3/12
広島市でYMCA国際ワイズメンクラブ日本区大会。同クラブ代表として米のマックレリー夫妻など80人が参加。ヒロシマをテーマに平和運動と教育・政治・科学・経済など論議し平和メッセージを採択。1950年8月、メキシコ市で開く国際大会で発表へ
1950/3/13
広島市が戦災死没者の改葬を実施。25日までに市内18カ所の2,260柱を改葬(「広島市昭和25年度事務報告書、財産表」)
1950/3/15
米映画社MGMが広島へ。精神養子16人やABCCなどをニュース映画用に取材
1950/3/15
広島市が神戸貿易博覧会でパノラマ被爆写真、被爆したレンガなどを展示
1950/3/15
スウェーデン・ストックホルムで世界平和擁護大会常任委員会第3回総会。19日まで。原子兵器絶対禁止要求の「ストックホルム・アピール」を発表。11月までに5億人が署名(「近代日本総合年表」)。アピール(1)私たちは人類に対する威嚇と大量殺りくの武器である原子兵器の絶対禁止を要求します(2)私たちはこの禁止を保証する厳重な国際管理の確立を要求します(3)私たちはどんな国に対しても最初に原子兵器を使用する政府は人類に対して犯罪行為をなすものであり、戦争犯罪人として取り扱われるべきものと考えます(4)私たちは全世界のすべての良心ある人々に対しこのアピールに署名されんことを訴えます(「平和運動20年運動史」)
1950/3/16
米海軍が原子攻撃への対処方法として被曝放射線量をはかる「ドースメーター」と、火傷治療としてあらかじめ人間の皮膚を保存しておく医療方法の2点を発表
1950/3/19
厚生省が全国の孤児数を発表。全国12万3,500人、地方別トップは広島県の5,975人
1950/3/20
AFP通信が、米消息筋の話として「米国は4月に太平洋のエニウェトク環礁で初の水爆実験をする」と報道。規模は広島型原爆の50倍(実際の米第1回水爆実験は1952年11月1日)
1950/3/21
ニューヨーク・タイムズが米の平和運動を特集。「米ソの原水爆開発競争に抗し、米の『良識』が世界平和実現のため結集している」。運動としてあげているのは「世界政府文筆家委員会」「大西洋連盟委員会」「世界連合主義団体」「国連改革市民連盟」
1950/3/24
道徳再武装(MRA)運動普及のためスイスの同本部から広島市へ2人の指導者。「広島こそ現在の原子時代において世界平和への灯台であり、危険に対する警告となり、可能性に対しては道標となると固く信じている」。6月の世界大会に楠瀬常猪広島県知事、浜井広島市長、広島市議会代表を招待
1950/3/31
米ギャラップ世論調査が「米国民の69%は水爆の製造に賛成」
1950/3/31
ビルマ戦線で捕虜になり死刑の宣告を受けたが寸前で助かったという米の医学生フィリップ・ヌグイー氏(カンザス州)から原爆で両親を失った広島市の姉妹弟に愛の贈り物。「イエスの御名による姉妹弟たちに心からの祈りをささげます」
1950/3/--
ジョン・ハーシー氏がポーランド・ワルシャワを舞台にナチス・ドイツのユダヤ人迫害を描いた「壁」を発表

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