×

ヒストリー

ヒロシマの記録1950 5月


1950/5/5
長崎市で第2回広島、長崎両原爆都市青年交歓会。広島城のハスを永井隆博士宅に移植。8日まで
1950/5/8
広島赤十字病院が「原爆によるケロイドの手術を施した37人のうち8人は新しいケロイドが発生し、大多数が温度の変化による特有のかゆみを訴えている」と発表
1950/5/9
米ロサンゼルス広島県人会(高田義一会長)から「子供たちに図書館を」と広島市に400万円寄付
1950/5/10
トルーマン米大統領がアイダホ州での講演で、「第二次大戦で日本人に対し原子爆弾を使用したのは米軍の日本上陸を避けるためであった。この上陸が行われていたら20万人の米国人の生命が犠牲になっただろう。私はこれら米の青年および日本軍兵士の生命を救う最上の方法は原子爆弾を投下して戦争を終わらせることだと決心しこれを実行した。私はやむを得ない場合、再び同様の措置をとるだろう」
1950/5/12
広島市で日本弁護士連合会第1回総会。平和宣言を発表
1950/5/12
米がジェット戦闘機搭載用の小型原爆を完成と発表
1950/5/22
「日本平和を守る会」が原爆禁止ストックホルムアピール署名運動を開始(「近代日本総合年表」)
1950/5/22
滞英中の宗教家、賀川豊彦氏から広島市に手紙。「世界連邦運動事務局は1951年4月に広島で第1回世界連邦準備会と世界平和会議の開催を希望している」
1950/5/26
フロイド・シュモー氏が広島へ2度目の旅に出発。29日、ロサンゼルスから船で日本へ
1950/5/30
大田洋子氏が冬芽書房から「屍の街」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)。(1948年11月、中央公論社から一部を自発的に削除して出版、1万部売れベストセラーに。今回は削除部分を復活)
1950/5/--
政教分離を求めるポツダム宣言により広島市戦災死没者供養会から市が抜けたため、「広島戦災供養会」として再発足。会長川本精一氏(市議会議長)。無縁仏の納骨堂建設、戦災死没者名簿作成、法要を目的とする
1950/5/--
広島市牛田町牛田公園内に「牛田町原爆供養塔」が完成。761人の遺骨が納められているが、300人近い人の名前は不明のまま
1950/5/--
原爆孤児の精神養子が27日までに152人。内訳は広島戦災児育成所71人、修道院21人、新生学園10人、光の園4人、似島学園46人

年別アーカイブ