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ヒストリー

ヒロシマの記録1945 9月


1945/9/2
永積虎彦侍従が広島市入り。3日、市内を視察し慰問
1945/9/2
中国新聞が3日付から自社印刷開始(「中国新聞百年史」)
1945/9/3
広島市に隣接の府中町で戦後初の中国総監府管内官衙長会議。児玉九一新総監らが出席し、警察力強化、食糧増産、製塩、教育など復興の諸施策決める
1945/9/3
広島県都市計画課が広島市罹災地復旧方針を発表。戦災区域内での仮小屋建設を(1)面積16.5平方メートル(5坪)以内(2)既存道路境界から5メートル以上後退(3)必要ある場合、無償撤去を命じる-を条件に黙認
1945/9/3
米ニューヨーク・タイムズのW・H・ローレンス記者ら撮影班を交えた20人の米記者団が広島市入り。市内各地を視察後、広島県庁で日本側記者団と一問一答。「都市の被害は世界で広島が最大」 1945/9/3
原爆投下後初の外国人記者、オーストラリア出身のウィルフレッド・バーチェット記者が広島入り。9月5日付英デーリー・エクスプレス紙に広島の惨状を報道。「30日目の広島、逃げた者、死に始める原爆の疫病の犠牲者たち私はこれを世界への警告として書く」。原爆被害を初めて世界に伝える。同記事では「ウィルフレッド」を「ピーター」とサイン
1945/9/3
広島県が主催し東警察署で、都築正男博士を囲み広島県内の医師ら20人が座談会。(1)原子爆弾の真相そのものは不明で、現在なんらの損傷を受けていない者も奇現象を呈す(2)爆心地を中心に半径数キロの汚染は、爆撃直後から数日間を除き汚染度は急速に減退。4週間を経た現在、直接人体に悪影響を及ぼすほどの汚染は残っていない(3)熱、爆風などのほか、未知の威力による障害作用がある。放射能性物質によるとみられるもので発熱、脱力、食欲不振、無欲顔貌、脱毛、出血、口内炎、下痢などの症状を伴い仮に原子爆弾症と称している(4)爆心より2キロ以内にいた者は健康診断を(5)爆発の後、入市した人の中には相当の症状を呈し、死亡した人もいる。爆発後、数日間以内に爆心から半径500メートル以内の土地で働いた者にはある程度の傷害が与えられていると考えてよい。現在、異常がなくても一度健康診断を受けることが必要(6)広島に住んで差し支えはないが、現在の状態では非衛生的で療養には向かない(7)症状は感染するとは考えられない。座談会要旨は「原子爆弾の解剖」上、中、下として中国新聞9月11、12、13日付に掲載(9・4、9・5、9・11、9・12、9・13)
1945/9/5
京大医学部調査班(真下俊一教授ら30数人)が広島入り
1945/9/6
広島市役所に行方不明者の相談係を設置
1945/9/6
被爆1カ月。広島県庁が広島県安芸郡府中町の東洋工業で、戦災死した606柱の慰霊祭。各地、各団体が慰霊式
1945/9/6
原爆の効果を調査する米陸軍の専門家一行が横浜に到着。8日、岩国飛行場に到着し五日市の中国軍管区司令部を訪問。9日、市中心部を都築正男博士らの案内で視察、調査。一行はファーレル代将、物理学者モリソン博士、万国赤十字社代表ジュノー博士、A・W・オーターソン大佐、S・ウォーレン大佐ら計12人。ジュノー博士は15トンの救急医薬品を持参。モリソン博士、ファーレル代将とも、原爆の75年間影響説を明快に否定。ファーレル代将「広島市の被害状況については上空から撮影した数十枚の写真により予備知識を持って来たが、現場に臨み被害の甚大なのに驚いている」 1945/9/6
広島市が原爆光線の直射を受けた同市職員に健康診断を呼びかけ
1945/9/6
高野源進広島県知事が被爆後1カ月で談話。「市街地は相当な広場と広幅の道路とによって将来、火災の延焼予防や菜園建設をはかりたい。現在、市内には13万人が居住」
1945/9/8
中国復興財団企画室の平野馨氏が中国新聞に「復興広島の構想」を寄稿。今後の都市の人口は10万人以下が望ましいと主張
1945/9/8
中国新聞が、民間医療のおきゅうを「原子爆弾症に奇跡的な効果」と報道
1945/9/11
広島逓信病院の蜂谷道彦院長が臨床研究「原子爆弾と原子症」を産業経済新聞に掲載(「近代日本総合年表」)
1945/9/11
九州で解放された1万人の連合軍将兵(捕虜)引き取りのため、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、航空母艦1隻が長崎に入港(「長崎年表」)
1945/9/12
陸軍医務局、陸軍軍医学校が144人の特設救護班を編成し、広島陸軍病院宇品分院で業務開始。10月10日までに入院患者194人、外来約600人を診療(「広島原爆医療史」)
1945/9/12
岡山医科大の林道倫教授が、学生31人を引率し原爆症調査のため広島入り。逓信病院、袋町国民学校、大河国民学校の3カ所で血液検査など
1945/9/13
米原爆計画本部長のマシューズ大佐が「依然、原爆を製造している」と言明
1945/9/13
ワシントン大物理学教授で原爆研究に当たったアーサー・ヒューズ博士が「将来の戦争は1日で終わる。原爆は米の生存に絶対に必要」と言明
1945/9/14
文部省が「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置。委員長に学術研究会議会長の林春雄博士、9専門文科会に分かれ約200人の大調査団(9・17、「近代日本総合年表」)
1945/9/14
連合国軍総司令部が、同盟通信配信の記事検閲を始める。10月9日からは東京5新聞の検閲も開始
1945/9/15
東大調査団が原子爆弾の妊婦に与えた影響について「これまで流産、異常出産、奇形などの例はみない。しかし、症例が少なく今後の調査が必要」と発表
1945/9/15
広島原爆の放射能の影響について文部省が仁科芳雄博士と寺尾農事試験場長の報告を発表。仁科報告「爆発直後の1両日、相当に強い放射能が存在したことは事実と思われるが、1週間ないし10日後はまったく無害と思われる」。寺尾報告「爆心から2キロまでは作物に影響が見られる。それ以上では被害は比較的よく回復している。爆心部でも爆発後4日目にまいたソバ、その後の白菜、大根などの成育は正常で、今後大きな影響はないとみられる」
1945/9/16
日本映画社原爆記録映画撮影隊の先遣隊が長崎で撮影開始。10月16日、連合国軍総司令部から撮影を中止し帰京するよう命令を受ける(「長崎年表」)
1945/9/16
広島市の被害家屋の損害保険支払いで、破壊8割以上は全額、それ以下は程度に応じ支払いが決まる(9・17)
1945/9/17
広島地方に枕崎台風。京大調査班が広島市郊外の大野陸軍病院の宿舎で山崩れに遭い、真下俊一教授ら11人死亡。台風で中国新聞が再び発行不能に。再度、大阪朝日新聞、毎日新聞西部本社に代行印刷依頼(「広島県史」「中国新聞百年史」)
1945/9/18
連合国軍総司令部が「原爆使用と病院船攻撃は国際法違反であることは否定できない」などの記事を掲載した朝日新聞を48時間の発刊停止。9月19日付ニューヨーク・タイムズが伝える
1945/9/19
連合国軍総司令部がプレスコードを指令。連合国軍に対する破壊的な批判を禁止。1946年6月創刊の「夕刊ひろしま」内田一郎編集局長は「占領軍はプレスコードをぽんと寄こしただけで、案外おおらかだった。ただし、幅の広い解釈ができるということはそのすれすれのところがつかみにくい。結局、ちょっと控え目にするしか方法がなかった」と回想
1945/9/23
ハント少将が指揮する米第2海兵師団特別陸戦隊2万5,000人が出島岸壁から上陸を開始(「長崎年表」)
1945/9/29
広島市議会が、被爆死した粟屋仙吉広島市長の後任に内定していた藤田一郎名誉市長について「名誉市長では支障」と、木原七郎代議士を推薦し承認
1945/9/--
広島県が、原爆爆心地に記念施設を構想。焦土と化した姿をそのまま長く保存する案。一方で「原子爆弾の害毒が相当期間残存することを考慮にいれて爆心区域一帯を空き地とする」案も
1945/9/--
焦土広島に喫茶店。浅野図書館前に復興財団経営の復興喫茶店がお目見え
1945/9/--
九州大沢田藤一郎教授の研究室が「ウラニウムは骨髄を破壊」と発表
1945/9/--
防空総本部が全国の都市別空爆被害を国会に報告。被害第1位は東京の死者8万8,250人、負傷者6万1,306人。第2位、広島市の死者4万9,921人、負傷者5万8,839人(9・7)
1945/9/--
広島市にビールの立ち飲み所が開店
1945/9/--
広島県警察部が原爆による8月末現在の広島市の人的被害を発表。当日人口推定25万人、罹災人口20万人、死者6万6,000人、行方不明者1万人、重傷者1万4,000人、軽傷者(治療中)4万4,000人、軽傷者(治癒した者)6,000人(9・10)
1945/9/--
中国新聞が「白血球減少症」の患者を集中的に治療してきた西条傷痍軍人広島療養所長の藤井博士にインタビュー。(1)現在までに72人の白血球減少症の患者を治療(2)8月末まではあらゆる治療のかいなく死亡者が相次いだ(3)最近になって初めて軽快者が出始め、峠を越したようだ。軽快者は8月20日以降の発病者が多い
1945/9/--
原爆罹災者健康相談所を8月下旬から設置している庄原日赤病院が、「罹災者は少なくとも3カ月は安静が必要」と注意
1945/9/--
広島税務署が広島市の罹災者の税金1年間猶予決める

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