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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 小方澄子さん―うみ痕陥没 痛みと不安

 
小方澄子(おがた・すみこ)さん(80)=廿日市市

 
避難した川辺。黒い雨の後、嘔吐が続いた

 歯茎(はぐき)から出血し、髪(かみ)の毛が大量に抜(ぬ)け、体には紫色(むらさきいろ)の斑点(はんてん)―。13歳の少女を死の恐怖(きょうふ)に陥(おとしい)れた原爆。小方(旧姓三好)澄子さん(80)は、今でも「あの時」を思い出すと、目が潤み声が震(ふる)えます。

 広島女学院高等女学校2年だった小方さん。連日、雑魚場(ざこば)町(現中区)へ建物疎開(そかい)に行っていました。8月6日は体調を崩(くず)し、西新町(同)の自宅にいました。

 爆心地から700メートル。「その瞬間(しゅんかん)」、ごう音とともに気を失い、気付くとたんすの下敷(したじ)きに。やっとの思いではい出し、あたりが火の海になっている中、一緒(いっしょ)に住んでいた叔母(おば)の瀬良(せら)秋子さん(32)と、がれきの中から弟の善昭(よしあき)ちゃん(4)、広昭(ひろあき)ちゃん(3)を助け出し、それぞれ背負って避難(ひなん)場所になっていた山手町(現西区)に逃(に)げたのです。父は戦地に赴(おもむ)いていました。

 山手町手前の山手川(現太田川放水路)にたどり着いたころ、力尽(ちからつ)きた4人。座(すわ)り込んでしばらくすると夕立のような黒い雨が降りだしました。その後、小方さんは嘔吐(おうと)、下痢(げり)が始まって川辺を離(はな)れられなくなり、そのまま夜を明かしました。

 翌日、5日から弟国昭(くにあき)さん(11)の学童疎開先だった砂谷村(現佐伯区)へ面会に行っていた母マサノさん(38)と再会。約1週間、川原で野宿した後、母の叔父(おじ)夫妻が疎開していた広島県郷野(ごうの)村(現安芸高田市吉田町)で療養(りょうよう)を始めました。

 小方さんと秋子さんの体には紫色の斑点が現れ、髪の毛がごっそり抜け、歯茎から出血しました。高熱も続き、小方さんは気を失いました。9月上旬、意識が戻(もど)った時には、秋子さんは亡くなっていたのです。

 小方さんは激痛とともに、背中や右腕(みぎうで)からうみが出ました。「どこからうみが出るか分からず、恐ろしかった」と振(ふ)り返(かえ)ります。左臀部(でんぶ)から脚の付け根にかけては、病院で大量のうみを摘出(てきしゅつ)したら陥没(かんぼつ)し、今も痛みで横座りできません。右腕にも痕(あと)が残ったままです。

 22歳で結婚(けっこん)した小方さん。体が弱く、入退院を繰(く)り返(かえ)していたのに加え、被爆者が結婚差別を受けるケースもあった中、被爆者だった義父の「そんなこと関係ない」の一言で縁談(えんだん)が決まりました。1男1女に恵(めぐ)まれましたが、原爆の影響(えいきょう)がないか常に不安がつきまとったそうです。

 あの時、雑魚場町などで作業していた同級生たち300人以上が亡くなりました。「友だちのためにも、貝になってはいけない」。5年前から、母校に出向いて被爆体験を朗読しています。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

学童疎開

空襲避け郡部で生活

 戦争が激しくなり、空襲(くうしゅう)を逃(のが)れるため、都市部に住んでいた国民学校3~6年(今の小学3~6年)が、学校ごと周辺部の寺や集会所に移りました。

 1944年6月に「学童疎開促進要綱(そかいそくしんようこう)」が閣議決定され、45年4月から広島市内の学校も疎開が始まりました。

 広島原爆戦災誌によると、市内41学校のうち36学校計約9千人が佐伯郡(現佐伯区など)や双三(ふたみ)郡(現三次市)などに疎開しました。

 家族と離(はな)れて、とても寂(さび)しく、夜中に寝床(ねどこ)で1人が泣き始めると、我慢(がまん)していた他の子どもたちも泣き、合唱になった、といいます。家に戻(もど)ろうと抜(ぬ)け出(だ)す子もいました。食べ物も不十分でひもじい生活が続きました。

 自らは助かったものの、原爆で肉親を亡くした子どももいます。

◆私たち10代の感想◆

十分な食べ物に感謝

 「終戦があと1カ月遅(おそ)かったら、皆(みな)栄養失調で死んでいただろう」。食料が少なくなると、1食に大豆5~10粒(つぶ)しか食べられなかったそうです。今、私たちが3食に加えてお菓子(かし)を食べられるのはぜいたくだと感じました。これを当然と考えず、感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。(中3・寺西紗綾)

反核の思い強まった

 家族に囲まれ今は幸せ、との話に温かい気持ちになりました。しかし、5年前に甲状腺(こうじょうせん)がんを手術したと聞き胸が痛みました。戦争は66年前に終わったのに今も放射線の被害(ひがい)を受けているのです。「平和な世界のために核廃絶(かくはいぜつ)が最も大切」との小方さんの言葉通り、核廃絶への思いがより強くなりました。(高2・矢田瑞希)

◆編集部より◆

  「戦時中は緊張感の中で生活していた」と小方さんは振り返ります。「戦争が早く終わったらいいね」「戦争は嫌じゃね」などと話すだけで「憲兵隊に引っ張られるよ」と言われていました。忘れられないのは、1945年の初め頃。広島女学院高等女学校にいた米国人の英語教師2人が帰国した後、2人が使っていた机や書籍などが校庭の真ん中で燃やされたのです。「分からないなりに英語の授業は楽しかった。お世話になったのに、先生に関するものをすべて焼くなんて、複雑な気持ちでした」と話します。

 昨年3月11日の東日本大震災。福島第1原子力発電所の事故のニュースを聞き、福島の子どもたちへの放射線の影響が気になります。5年前に甲状腺がんの手術を受けた自身と照らし合わせ、「いつ、どんな被害が体に出てくるか分からないのが怖い」と言います。核廃絶に加え、原発も廃止すべきだと考えているそうです。(二井)

(2012年3月12日朝刊掲載)

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