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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 八幡照子さん―大好きな学校 火葬場に

八幡照子(やはた・てるこ)さん(74)=広島県府中町

「みんな一緒に死のう」。忘れぬ母の叫び声

 8歳(さい)の時に被爆した八幡(旧姓加藤)照子さん(74)。原爆が落とされた直後、押(お)し入(い)れから出した掛(か)け布団(ぶとん)を、きょうだい4人と祖母の上に掛けて「一緒(いっしょ)に死のう! みんな一緒よ!」と悲壮(ひそう)な声で叫(さけ)んだ母美祢子さんの姿が忘れられません。みんなで身を寄せ合ったぬくもり。この世の中で、家族が最もいとおしいものになりました。

 「あの日」、爆心地から2・5キロの己斐本町(現西区)の自宅に、父隆三(たかぞう)さん、曽祖母を含む8人がいました。八幡さんは、警戒(けいかい)警報が解除になったかを、隣(となり)の家に聞きに行こうと裏庭に下りたところでした。空一面が真っ白に光り、気づくと8畳間を抜けて玄関(げんかん)まで飛ばされていたのです。

 大型爆弾(ばくだん)だと思った母は、ガラスが刺(さ)さって背中が血だらけになったまま、八幡さんたちを部屋の1カ所に集めて布団を広げ、次の爆弾に備えました。額(ひたい)に傷を負い、血で覆(おお)われていた八幡さんの顔も拭(ふ)いてくれました。

 まもなく聞こえてきた、消防団の人の「火災発生!」という声に、8人全員で近くの防空壕(ごう)に逃げました。しかし、そこには入れず、山手の防空壕に行きかけたころ、大粒(おおつぶ)の雨が降りだしました。ずぶぬれになりながら、結局、自宅近くの山手川の河原に戻(もど)りました。そこには、鼻や顔がつぶれ、皮膚(ひふ)がむけて指先にたまり、よたよたしながら川を渡(わた)ってくる人が大勢いました。  その後、捜(さが)しに来た父のいとことともに、1・2キロほど山に入った、紅葉谷(同)の父の叔母(おば)宅に行きました。八幡川のせせらぎと、ヒグラシの声が、何ごともなかったかのように八幡さんたちを迎えてくれたのです。

 しかし、額の治療(ちりょう)のため、父と出向いた己斐国民学校(現己斐小)は、一変していました。桜吹雪(ふぶき)の中、胸躍(むねおど)らせて入学した学校の校庭には穴が幾(いく)筋も掘(ほ)られ、死体がどんどん投(な)げ込(こ)まれて燃やされていきます。その数、2千人。「大好きな学校が火葬(かそう)場になってしまった」。思い出すと、今でも涙が出そうになります。

 戦後、飢(う)えに耐(た)え、結婚(けっこん)、子育て、仕事と突(つ)っ走ってきた八幡さん。70歳を迎え、自身の被爆体験を語ろうとした矢先、心筋梗塞(こうそく)で倒れました。今も万全とはいえませんが、4月から英会話を習い始めました。「世界の人に、被爆体験と核の恐ろしさを英語で話したい」と夢を語ります。若い世代には、親や先生への感謝を忘れず、対話の大切さを訴えます。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

防空壕

44年から本格的増設

 戦時中、空襲(くうしゅう)などの危険がある時、人々は、一時的に「防空壕(ごう)」に入っていました。

 防空壕は、1941年ごろから造られ始めました。内閣情報局が発行していた冊子「週報」には42年、家庭や商店向けに床下に穴を掘(ほ)ったり、商品棚で部屋の一部を囲んだりする「防空待避(たいひ)所」の造り方が紹介されています。

 本格的に防空壕の増設が言われるようになったのは44年。バスや電車の通る人通りの多い道は5メートル、バスが通る道は10メートル間隔(かんかく)で造るように、といった指示が出ました。地面に穴を掘り、上部に板と土砂を積む「地下式」や山の斜面(しゃめん)を掘った「横穴式」があります。家族用や近所の人たち、町内会で造りました。

 実は、今でも防空壕は残っています。国土交通省などによる2009年度の調査では、全国で防空壕などの特殊(とくしゅ)地下壕は9850あり、うち広島県には891あります。

◆私たち10代の感想◆

一瞬で絆断つ残酷さ

 「一緒(いっしょ)に死のう」。母の言葉で家族の絆(きずな)を意識した八幡さん。「人と人の絆を大切にして」と訴(うった)えます。東日本大震災の被災者(ひさいしゃ)の言葉と重なりました。失いそうになって初めて、当たり前にある「家族のつながり」に気付きます。それを一瞬(いっしゅん)で壊(こわ)す原爆の残酷(ざんこく)さをあらためて思い知らされました。(高1・石井大智)

孤児を支える社会に

 八幡さんは、2羽のチョウがたわむれているのを見ると、火葬(かそう)場になった学校の校庭で、家族を失ったであろう子ども2人がいつまでも遊んでいたのを思い出すそうです。戦争や震災による孤児(こじ)には多くの困難があります。前向きに生きていけるよう、地域や社会が支えないといけません。(高2・田中壮卓)

◆編集部より◆

 己斐小には、今も原爆投下当時から生き続ける樹木が多くあります。体育館裏の桜やイチョウ、体育館と校舎の間にあるヒマラヤスギなど、爆心地から3キロ離れているため被爆樹木には登録されていませんが、「あの日」からの生き証人なのです。

 原爆投下後、校庭では約2000体もの遺体が火葬されました。救護所になっていたため、市中から多くの被爆者が殺到したのです。火葬の様子は「絵で読む広島の原爆」(那須正幹氏著)で見ることができます。校庭は7年前、2メートルのかさ上げをしたため、当時の様子は今は分かりません。しかし、地元の人たちによって建てられた慰霊碑があり、毎年8月6日の夕方、ピース・メモリアル・セレモニーが行われています。(二井)

(2012年5月14日朝刊掲載)

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